もう戻れないから涙が出るの?

 その日、クラスがいつにも増して浮足立っていたのを覚えている。どうやら転校生が来るらしい。退屈な日常に突如舞い込んできた話題は、中学生にとってこの上ない甘美な響きを伴っている。そうして周りがざわついている中、しかしは心底興味ないといったふうに、独りぼーっと窓の外を眺めていた。

 始業のチャイムが鳴るまで2分を切ったところで、窓側の一番後ろとその右隣りに座る男二人が怠そうに席に着く。がつるんでいる畑五助と井上直樹だ。彼らの視線がこちらに向くと、は席を立った。

「五助。私、眠いから1時間目パス」
「はあ?眠いってお前……もうすぐ下山来るぞ」

 下山というのは担任だ。こういう生活態度をとるせいで、たちに目を光らせては厳しくあれこれ言ってくる口うるさい先生である。まあ褒められた態度でないことは重々承知している。

「ほっとけほっとけ。どうせ月のものやろ」
 
直樹が五助に耳打ちした。が、の耳にもしっかり届いている。

「そういうこと言ってるからあんたは彼女ができひんのや!」
「おっと聞こえてたんか。てか、似非関西弁やめろや似合わん」

 無視してそのまま教室を出ていくと同時に、噂の転校生を引きつれた下山と遭遇してしまった。の顔をちらりと見やって眉間に皺を寄せた下山が「どこへ行くんだ」と声をかけてくる。

「お腹が痛いんでちょっと保健室行ってきますー」

 後ろで下山がなにか言っているが、面倒くさいので言葉を返すことはしなかった。どうせ「これから授業だ」だの「お前はいつもいつも」だの説教に決まっている。一瞬横目に見えた転校生は、女の子という性別しかわかり得なかった。だが、にはあまり関係ない。どっちだっていいのである。


 保健室に行くという口実で実質サボりにきたは、屋上に続く階段の踊り場で本を読んでいた。飛葉中の屋上は生徒が侵入するのを防ぐため――たちみたいな生徒がいるからだろう――に鍵がかかっている。鍵は職員室で厳重に管理されているので、簡単に入ることはできない。そのおかげで、手前の踊り場は絶好のサボり場となっていた。

「なんだ、お前もコッチ来てたのか。てっきり本当に保健室に逃げ込んだのかと思ったぜ」

 前方から五助と直樹がやって来た。ついでに五助の弟、六助もなぜか一緒である。が教室を出てから10分も経ってない。ということは、彼らもサボりにきたわけだ。人のことを言えた義理ではないが、なにやってんだか。

「そっちこそ。なんで抜けてきたわけ?噂の転校生に鼻の下伸ばしてる頃かと」
「はぁ?気色悪いこと言うなや。あんな奴知らんっちゅうねん」
「えーでも可愛い女の子じゃなかった?チラッとしか見てないけど」
「なに言ってんだ。あいつ男だぞ」

 お前大丈夫かみたいな目で五助と直樹が見てくるものだから、は自分が少し前に一瞬だけ見えた転校生の顔を反芻した。思い出しても可愛らしい印象しかないのだが、だとしたらなかなか失礼な思いこみをしてしまったようだ。口に出していないのがせめてもの救いである。
 しかし転校生が男だという話は置いておいても、五助たちがサボりに来た理由はいまいちわからなかった。

「ちぃーす」

 がなんでと聞こうとした矢先、再び階段下から昇ってくる人物がいた。一個下の黒川柾輝である。直樹にタメ口きくなと言われているにもかかわらず、平気で無視するその図太さはもしかするとグループ一じゃないかと思う。
 マサキもサボりに来たはずなのだが、自分のことは棚に上げてサボってんのかとのたまった。

「五助、例の件は?」
「んー……サッカー部は認められねえってよ。同好会もな。人数が足らねえってのは表向きで、よーは俺らのやることなすこと気に入らねーのさ」

 どうやらマサキはサッカー部創設の件でここに来たらしい。も一緒にプレイすることこそないが、彼らがこう見えてサッカー少年であることは知っているので、話は聞いていた。教員から見ればただの不良が、サッカーをしているときだけは年相応になるのだから可愛いものだ。
 だが、現実はそう甘くない。下山はもちろん、他の教員にも目をつけられているために彼らのサッカー部創設への道は非常に険しい。
 六助が我慢できなくなったのか不満を漏らした。

「くっそーサッカーやりてぇな」

 呟いた途端に、六助の頭に拳骨がくだる。ああまた始まった……。場が荒れだすのを察知したマサキと直樹はそそくさと階段を下りていこうとしたので、もそれに続いた。畑兄弟は、先日クラブチームで問題を起こして辞めさせられたらしい。原因は弟なのだそうだが、兄も道連れだったようだ。兄弟げんかはいつものことなので、特別気にする必要はない。


 廊下にギラギラとした陽射しが容赦なく差し込んでいた。夏本番が近づいている。は、制服の袖を掴んで指先に力を入れた。
 6月に入ってからは衣替えで男子は半袖シャツ、女子は半袖シャツにリボンというのが正式な飛葉中の夏服である。しかし、は6月半ばを過ぎても長袖のままだった。自分の腕を晒すのに抵抗があるからだ。
 普通なら着られるはずの半袖を羨望の眼差しで見つめる。マサキたちに理由を詮索されたことはないが、なんとなく言いにくい事情があるのだろうぐらいは察しているはずだ。それを無理やり聞いてこないあたりが、彼らと一緒にいて楽な部分だった。
 そんなことをぼんやり考えていたら、直樹が窓から身を乗り出す勢いで校庭を見ていた。

「あんちくしょー口だけやなかったんか」

 そう言うや否や、走っていってしまった。

「直樹どしたの」
「さあな」





 翼はサッカー部の練習を終えて帰宅する最中だった。時刻は夕方6時を回った頃だ。途中でマサキたちとわかれ、一人自宅に向かっている。
 転校初日、直樹が得意のサッカーで翼に勝負を挑んできたその放課後、翼とマサキたちはサッカーを通して仲間となった。話してみれば気のいい奴らだ。これまでの素行は確かに目に余るが、それはサッカーができない環境に対する不満の現れだったのだ。その証拠に、いざ部活が始まってみると授業には出るし、生活態度も以前より良好である。
 マサキたちとは少しずつ良い関係が作れていると思っている。一人を除いて、は――
 。翼が転校する前から、マサキたちとつるんでいる唯一の女子だ。彼らと仲間になったということは、必然と彼女とも一緒にいることが多くなると思っていた。だが、マサキたちとサッカー部の練習を始めて以来、彼女は付き合いが悪くなった。というより、翼を避けているように見えた。話しかければ無視することこそないものの、翼とは必要以上に絡まず距離を置いている。マサキたちも薄々感じているようだが、はっきりとは触れなかった。
 ったく、なんだってんだ。

 自宅近くの住宅街まで来ると、制服の集団が目に入る。どうやら一人を囲んで、大きな声で捲し立てているようだった。集団リンチか?くだらないことするよほんと。――と思ったのも束の間、その中央にいる人物が先ほど脳内を占めていた女だということに気づいて立ち止まった。

「なんでさんが翼くんと仲良くしてるの?」
「ほんとは男好きなんでしょ。いっつも井上たちといるもんね」
「別に仲良くしてない。あの人直樹たちと仲が良いから一緒にいるだけ」
「それがムカつくって言ってんの!!」

 女子の言い分は時々理不尽だと思うが、彼女たちの言っていることは本当に訳が分からなかった。転校生と仲良くすると、女子の間ではこうしたいざこざが起こるらしい。
 がどう返事するのか気になって、翼はしばし事の流れを見守ることにした。

「知らないよ。私は私のやりたいようにしてるだけだし、文句があるならあの人に直接言えばいいじゃない」
「なっ……!」
「話しかける勇気もないのに、私に怒らないでくれる?」

 その言葉が決め手となったのか、集団のリーダー格であろう女が平手打ちを食らわせようとした。

「なにやってんの」

 瞬間、翼は彼女たちのすぐ後ろまで迫って言った。
 翼の姿に心底驚いた集団の彼女たちは慌てて「なんでもないです」と言いながらすぐに去っていった。なんだあれ、と彼女たちを呆れた視線で見送ると、途端に静かになった場に残されたは、驚くでもなく何事もなかったかのように翼に視線を向けた。

「見てたの?」
「たまたま通りかかっただけ。俺んちすぐそこなの」
「ふーん」

 興味がないのか、彼女はそれ以上聞いてこなかった。

「ああいうの今日が初めてじゃないよね?なんで言わなかったんだよ」
「別に気にしてない。椎名くんは顔がいいから、私みたいな不良女と一緒にいるのが気に食わないだけでしょ。それになにか危害を加えられたわけじゃないし、ああいうのは放っておけばそのうち飽きるよ」
「でも、それで俺と距離を置いてるのは納得いかない」
「女子って面倒くさいでしょう?椎名くんには悪いって思ってるけど、私だって毎回巻き込まれるの嫌だもん。本音を言ったら言ったで逆ギレされるし、人生ってままならないよねぇ」

 にわかにどこか遠くを見つめる彼女は、同い年の人間とは思えなくて言葉を返せなかった。何かを諦めているような、やるせなさが残る言い方だ。結局そのまま特に話が盛り上がるわけでもなく、彼女とはわかれた。
 こうして、翼は初めて彼女の陰の部分を見たのである。