あのときと違う選択だったなら、

 ほぼ徹夜だったは、なぜか今車の助手席でコンビニのおにぎりを頬張っていた。朝8時を過ぎた頃である。都心を走る日産「ジューク」は、朝の風景にどう映っているのかと、窓の外をぼんやり見つめた。
 もぐもぐと梅おにぎりを堪能しつつ、不機嫌さをアピールする。眠い、とても眠い。

「ねぇ翼。私たち今どこ向かってるの?」
「着いてからの秘密」

 先ほどからこの調子である。どうやら着くまで本当に教えてくれる気はないらしい。百歩譲ってそれは良しとしよう。だが、論文をやっとの思いで明け方5時に終え、ようやく眠りについたはたったの2時間で起こされることになった。
 支度もそこそこに翼が買ったジュークに乗り込んだのが30分前のこと。都会の喧騒も、今はまだ朝が早いということもあって静かだった。どうせ教えてもらえないのならと、起こされた腹いせに助手席で堂々と寝てやろうと思っていたのだが、スピーカーから日本語ではないましてや英語でもない知らない音楽が流れていて寝ように寝られない。翼のもう一つの住居であるスペインで有名な曲らしい。スペイン語の勉強になるからという理由は最もだと思うが、二人でいるときはせめて共通で知っている曲にしてほしかったという思いがなくもない。(と言いつつ、大学でスペイン語の授業を取っていることは翼には秘密である)

 寝られないと言えど、高速に入ってすぐに夢の世界へ飛んでいったらしいは、右肩を叩かれて目を覚ました。寝ぼけ眼で辺りを見回すと、久しぶりに見る視界いっぱいの人工芝のコート。小学生くらいの子どもたちがたくさんいて、プレイ真っ最中だ。その中に一人だけぽつんと背の大きい男がいた。

「マサキじゃん」
「アイツ自分の練習がオフの日は、こうやって教えてるんだってさ」
「サッカー……じゃなくてフットサル?」
「そう」
「まさかこの中に混ざる気?」
「そのまさかだよ。小学生に教えるのも悪くないだろ」

 それこそ水を得た魚のように、小学生よりも張り切ってコートに向かった翼の背中を見て思わず笑ってしまった。普段の翼はクールで冷静沈着なのに、サッカーしてるときだけは無邪気な少年みたいに無我夢中でそれしか見えなくなる。昔からそういう男だ。
 マサキは翼とに気づくと、右手をあげるだけの軽い挨拶をした。前回会ったのは半年前なので、そこまで久しぶりという感じでもないのだが、翼は代表戦以来だから積もる話もあるだろう。
 小学生に混じってサッカーをする二十歳を超えた大人が違和感なくそこに溶け込んでいる。の脳裏に、ふと彼らと過ごした中学時代の光景がよぎった。昨日もそうだったが、翼たちといるとどうしても昔のことが蘇るようだ。今思えば、当時のは翼に対して随分とつっけんどんな態度を取っていたような気がする。もともとマサキたちと仲良くしていたところに、翼が転校してきて仲間になったという経緯があるので、数少ない友人とも呼べる人たちを取られたという気持ちがあるのかもしれない。翼が輪に入ったことで、念願のサッカー部創設に至ったことは中学の思い出ベスト3に入るだろうが、は彼らがプレイするのをコートの外で見ていただけだ。自然とマネージャーのようなサポートはしていたものの、コートの中で喜びや悲しみを一緒に分かち合うことはできない。
 そうしたしがらみが翼に対する態度の表れだった。女子の友人がいない上に素行も悪い。さぞかし可愛くない女だっただろう。それでも彼は、こちらの領域に踏み込むことを躊躇わなかった人だ。自身が、翼によって救われたのである。

 一試合を終えた翼たちが休憩に入ったのを見計らってコートを横切ると、向こうも気づいたようで手を振ってくれた。

「久しぶり……ってほどでもないか」
「そうだね。私たちは定期的に会おうと思えば会える距離だから。直樹と畑兄弟は来ないの?」
「夜に全員集合だってさ」
「そっか。……にしても、二人とも馴染みすぎ。U-22で活躍している選手とは思えないよ。小学生と同じただのサッカー少年に見える」

 その言葉に翼とマサキは顔を見合わせて、ぷっと吹き出した。おかしなことを言ったつもりはないのだが、二人の中で何か思うところがあったのかもしれない。

「まあ昔からサッカー少年だからね。サッカーを前にしたら、年齢は関係なくなるってわけ」
「そういうものなのかなあ。なーんか中学の頃のままって感じで懐かしくなった」
「また感傷に浸ってたの?昨日からそればっか」
「たぶん翼たちといるとそうなっちゃうんだよ」
「つっても、お前は最初の頃サッカー部の練習に顔も出さなかったじゃねぇか。急に付き合い悪くなったってみんな悲しんでたんだぜ」

 マサキが思い出したかのように言う。事実なので否定するつもりはないが、にも事情というものがあったので仕方ない。もう昔のことだからと笑って話せることだ。翼たちも知っている。
 もしも、あのとき翼の手を取ってなければ、は独りになるところだったのかもしれない。今となってはもうわからないことだが、そうだと確信できる。

「でもあのとき翼が声かけてくれなきゃ、私は今ここでみんなと一緒にはいないんだろうな、とは思う」