苦しみも悔しさも今ならすべてが愛おしい

 少女の両親が離婚したのは彼女が小学5年生のときだった。半年前ほどから予感はあった。それまで行っていた家族旅行がなくなったこと、学校行事への参加が減ったこと、そして家族全員が集まって食事をする回数が極端に少なくなったこと。思い返せばたくさん。
しかし、母親から「離婚することにした」と言われたとき、一番に気になったのは妹たちと離れるかどうかだった。には二人の妹がいる。3つ下と、一番下はまだ幼稚園児だ。妹たちは幼いがゆえに離婚というものを理解していなかったので、結果として姉妹三人は父が遠いところへ行ってしまうから母と四人で暮らさなければならないという認識で事なきを得た。
そこから二年間、四人での暮らしは決して裕福とは言えないが楽しく生活できているように思っていた。このまま平和に過ぎていくと思った日々は、唐突に終わりを迎えたのだ。ある日、母が夕方から仕事に行くと言って出ていった。それまでは朝から夕方までのスーパーの店員だったはずなのだが、急なことだったので単純にシフトに入れない人の代わりだと思っていたのだ。
 だからしばらくして母が水商売をしていると近所の人から聞いたときは信じられなかった。もしかしたら、お金が足りなくなったのかもしれない。母は自分たちのためにそんなことをしているのだと。
が中学生になって、朝夕の支度ができるようになると、母は毎日のように夜遅く帰ってくるようになった。そして、いつからか母がヒステリックになり暴力的になってしまった。物を投げたり、暴言を吐いたり。せめて妹たちだけでも守ろうと、いつの間にかの腕は痣だらけとなっていた。
 それでも逃げ出そうと思わなかったのは、妹たちがいることに加えて直樹たちに出会えたおかげだ。中一で直樹と五助に、二年になってマサキと六助に。彼らといるときだけは、不思議と母のことを忘れられたのだ。迷惑をかけるのが嫌だったので、詳しい事情は話さずに母子家庭であることのみ伝えていた。マサキたちもそれ以上は踏み込んでこなかったし、夏でも長袖でいることに関して聞いてこないし、一緒にいるのが楽でこのままみんなといられると疑わなかった。
 そんな時だ。椎名翼という男が転校してきたのは。小柄で可愛い顔をしているのでおしとやかなのだと思えば、意外と喧嘩っ早い性格でかなりの毒舌家だ。そして、サッカーという共通点がマサキたちと転校生と繋げてしまった。同好会さえままならなかったはずが今ではれっきとした部として活動していて、喜ばしいことなのに素直に受け入れることができず、マネージャーを頼まれてもしばらくは断っていた。
どのみち、妹たちの夕飯を作る必要があるから難しいのだが。

 ある日、いつもと同じように学校から直接スーパーに寄って夕飯の材料を買いに行き、家に帰ってきたときのこと。玄関に母の靴がまだ残っていた。妹たちも学校から帰ってきているようで、今流行っているキャラクターの靴とスニーカーが脱ぎ捨てられている。

「お母さーん!そろそろ行く時間じゃないのー?」

 はスーパーの袋を一旦下ろして靴を脱ぐ。母からの反応は聞こえなかった。変だなと思って、袋を持ち直してリビングへ向かうと、隅っこで座り込んでいる妹たちとそこに向かってナイフを突きつけている母の姿が目に入った。
 え、一体なにが起こってるの?

「お母さん……ねぇ。なに、してるの……?」
「ああ、。もうおかあさん疲れちゃったの。だから、終わりにするわ」
「やめてよ……終わりにするってなに?自分の娘だよ!?みか!!みき!!こっちにおいで!!!」

 妹二人を呼んで自分のほうに引き寄せる。震えているが、まだ何もされていなかったようでの袖をぎゅっと握る仕草に胸が痛んだ。
母の目は据わっていた。見ると、テーブルの上にはいくつかの酒瓶が倒れている。瞬間的に、の脳からここにいてはいけないという信号が発信された。
 そう思ったときには走り出していた。両手に妹たちの手を掴みながら、何も持たずそのままに。どこに行くのかなど考えていなかった。そもそも行く宛などないのだから。
 どのくらい走ったのだろう。「お姉ちゃんもう走れない」という妹の声で我に返る。気づけば見慣れた通学路だった。
でも、このあとどうすればいいんだろうか。しばらくは戻らないほうがいいとわかっていても、中学生と小学生がこのまま外にいれば補導されてしまう。親戚も知り合いも近くにいない。
途方に暮れていたそんなとき――

?」
「え」
「なにしてんの」

 声をかけてきたのは噂の転校生である椎名翼だった。考えてみれば、通学路を走っているのだから部活帰りの生徒に会うのは必然のことだ。だが同学年の、しかも同じクラスの人に会うなんていうのは結構な確率な気がする。なんて誤魔化そう。

「えっと、ちょっと用があって……」
「制服のまま?」
「それは急いでて……」
「鞄も持たずに?」
「だから、急いでて……」
「こんな時間から?小学生連れて?」
「そ、れは……」

 言葉に詰まってしまった。彼以前にマサキたちにだって話していないことを知り合って間もないこの人になんて言うべきなのだろう。そもそも説明したところでどうなるのだろう。一人ならともかく、妹も二人いる。だが、これ以上自分が妹たちのために何かできるとも思えなかった。
 そんな状況であるにもかかわらず口に出せないのは、やはり怖いのだ。友人だと思っていた人が離れていくのが。後ろ指をさされ、独りになるのが。それは小学生のときに経験した痛みであり、思いのほか心に傷を残していた。
 だから中学でできた気の許せる仲間を失うことは、自分にとって相当ダメージが大きいはずだ。そんな大切な居場所をどうして手放すことなどできるのか。
 続きを言いあぐねていることにしびれを切らした彼が盛大にため息をついた。

「あのさ、なんでもかんでも一人で解決しようなんて思ってる?それって実は周りからみるとかなり滑稽だし、全然かっこよくないから。まあ迷惑かけるとか思ってんだろうけど、何も言わずに勝手に傷つかれるほうが迷惑なんだよね。つらいならつらいって言えば?助けてほしいなら助けてって言えば?お前の周りにいる奴らはそんなヤワじゃないよ」

 そう言われて、初めて自分が泣いていることに気づいた。本当は聞いてほしかったのかもしれない。少しずつ家族が壊れていっていること。母が日に日に疲れているのは顔を見れば一目瞭然だった。それを放置した結果が今日の出来事だったのだ。もっと早く、伝えられていたら。
隣で困惑顔をする妹に「ごめんね」としか言えなかった。
 でも……

「そっか……言っても、いいんだね」

もう、迷わなくてもいい。

「で?どうする?」
「椎名くん……」

 彼が手を差し伸べてくれたから、私はそれに甘えようと思う。少しだけ。

「私たちのこと、助けてほしい」