朝焼けのシーツにくるまって

 椎名翼という男の子が転校してきたのは中学二年の夏頃だったが、が彼と初めて会話を交わしたのは中学三年になり同じクラスのしかも同じ委員会になってからのことだった。

 当時から噂はかねがね聞いていたし、クラスが一緒になって間近で見る機会が増えてからは女子が騒ぐのも頷けると納得したものだ。けれども不思議なことに彼は"その手"のことに興味がないのか、浮いた噂は何一つ聞かなかった。あの容姿で頭脳明晰かつスポーツ万能とくれば彼女がいても驚かない。むしろ周りが放っておかないだろうと思う。
 友人の話によれば、学年一可愛いと言われている隣のクラスの有坂夕実も告ったが見事玉砕したのだという。あの可愛い子でもダメとなると一体誰ならその隣を歩くことができるのか。
 恐るべし、そんな椎名翼と同じ委員になってしまったは憂鬱な気持ちで整備委員会の集まる理科室へと向かった。

 中に入るとほとんどの生徒は集まっているようだが、担当の理科教師はまだ来ていなかった。翼の姿を見つけたは隣に腰かけるついでに「です。よろしく」と挨拶する。視線をこちらに向けた翼と目が合い少しどきりとした。許してほしい。これは条件反射というやつで、決して彼のことを意識しているとかそういうことではない。
 翼はの存在を認めて素っ気なく「ああ、よろしく」と返して姿勢を前に戻した。クールな態度はともすれば冷たい印象を与えがちだがこれがきっと彼の普通なのだろう。
 ぱっちりした大きい瞳とくせっ毛の、男子にしては長めの茶髪は彼の容姿を引き立てている。けれど面白い(というと本人は怒るだろうが)ことに座ったときの高さがとさほど変わらない。
 ちらっと横目で盗み見て、どう考えても女の子より女の子に見えるよなと思う。
 偏見かもしれないが、たいていの女子は付き合う相手に身長の高さを求める子が多いのでそれを鑑みると翼はほとんどの女子の対象外になるはずなのだが、身長というウィークポイントを差し引いても申し分ない魅力がどうやら彼にはあるらしい。学年一の有坂さんを含めた女子を虜にする「何か」が。はそれが何なのか気になった。
 そうしていろいろ考えを巡らせているうちに理科教師が白衣を着たまま入ってきたので、の思考はそこで一旦途切れた。





「――って感じで、翼は愛想ないしこの人のどこがそんなにいいのかなーって不思議だった」

 シーツ特有のつるつるした感触を人差し指で楽しみながら、は隣で寝そべる男に話しかけた。
 外が白みはじめたばかりでまだ少し薄暗いが、夜明け前の空は澄んでいて綺麗だった。そんな光景を横にベッドの上で体育座りをするの脳は完全に覚醒している。はっきりと。

「初対面の奴にそんな簡単に心を開くわけないだろ」
「嘘つき。マサキたちとはすぐ打ち解けたらしいじゃん」
「……」

 男――翼が返事に詰まってたじろいだ。先ほどまで寝ていたからか無造作な長めの茶髪がさらにあらぬ方向へ飛び出ていてこの雰囲気に似合わず可笑しい。と違ってたっぷり寝ていたはずの翼はなぜかまだ眠そうだった。まあこんな早朝に起こされたのだから無理もないだろう。
 昨夜、持ち帰った仕事を遅くまでやっていたせいでがベッドに入った頃には二時を過ぎていた。翌日たまたま翼とオフが重なったのでもっとゆっくり寝てもよかったのだが、ふと目が覚めて今日打合せ予定の"内容"をどうしようか思案していたら物音に気づいた翼も目を覚ましてしまった。
 ダブルベッドというのはこういうとき不便なのだと場違いなことを思う。

「だから、同年代の女はちょっと苦手っていうか……」

 翼にしてはやけに自信がない声のような気がした。いつもならそれこそ相手を気にせずズバズバ図星をついてねじ伏せ戦力をそがせるくらいなのに。
 ……とまあ理由はもちろんわかっている。その相手が"同年代の女子"だからだ。今さら気を遣う仲ではないがの心情を察したのかもしれない。

「そうだよねー翼の好みは玲ちゃんみたいな年上の女性だもんねー」

 何の抑揚もない棒読みにいよいよ翼がゆっくりと上半身を起こした。あの頃より多少背が伸びて、今はが少し見上げる形で向き合う。

「……お前さっきから喧嘩売ってる?何が気に入らないのか知らないけど、その辺の話は別に端折ってもいいだろ」
「でもそれじゃあまとまらないじゃん。……どうして翼と私が付き合うことになったのか」

 二人は今年の秋に結婚式を挙げる予定だ。今日は披露宴の司会者と打ち合わせすることになっており、出会いから結婚に至るまでのいわゆる「馴れ初め」について話をしなければならない。
 しかし振り返ってみれば翼の第一印象はあまりいいとは言えないし、実は告白したのもからで翼は承諾してくれたものの「好き」かどうかはよくわからないまま交際がスタートしたのだ。もちろん首を縦に振ってくれたということは多少なりとも好意は持ってくれていたと思うが。
 ともかくそうなってくると紹介できる内容が意外に薄っぺらいことに気づいて居たたまれない気持ちになったのである。

「今さら言うのもアレだけど、そもそもがどうして急に告ってきたのか不思議でしょうがないね。さっきも言ってたじゃん、どこがそんなにいいのかって」
「んーそうだよねー翼って自信家だし物事はっきり言ってきてキツいし、でも頭が良くてサッカーも上手いとか逆にムカつくって思ってた」
「……お前も大概失礼だよ」

 だって本当にそうなのだ。翼は常に目立っていた存在で、周りを良い意味でも悪い意味でも騒がせていたのである。天は二物を与えずなんてことわざがあるが、二つどころか三つ四つと与えすぎだと嘆いたのを覚えている。
 態勢を崩して翼の隣に寄り添う。めくれた掛け布団を膝下まで持ってきて翼のごつごつした手に自分のそれを重ねた。

「でもさ、私ってギャップに弱いんだよね」
「はぁ?」
「まあまあ聞いてよ。話の続きを――」





 椎名翼と同じ委員会になってから気づいたことだが彼は何かと忙しい身だった。サッカー部のキャプテンをやりながら勉強もこなして、さらに委員まで務めている。もしかしたら忙しさを理由に恋人を作らないのかもしれない。
 そうして月に一度の委員会で翼と関わることになってから三か月が過ぎようとしていた頃、のクラスで席替えが行われると何の縁か彼と隣同士になった。相変わらず愛想のない「よろしく」で挨拶を交わし教室の中でも関わることになってしまったことにどうしたものかと悩んだ。この時、の中ではまだ翼にどんな魅力があるのかわかっていなかった。

 本格的な夏が到来しますとニュースで耳にするようになった七月のある日、友人からサッカー部の応援に行かないかと声をかけられた。そこまでミーハーに見えないが彼女もどうやら翼に興味があるようで会場が近いからと半ば無理やり連れていかれた。
 休日の朝にも関わらず校庭にはすでにたくさんの女子が集まっていて驚く。彼女たちも翼の応援だろう、気合の入れ方がすごい。友人も想像より多くいるファンを前にして肩をすくめたが、空いている隙間を見つけて試合開始を待つ。
 そわそわして落ち着きのない友人に呆れながら、は密かに気になっていることを話題にしてみる。

「みんな椎名くんのどこを好きになるの?」
「え、なに急に。まさかも翼くんのファンになっちゃった?」
「そういうわけじゃないけど……ただ、これだけみんなが夢中になる理由はなんなのかなーって気になってさ」
「理由ねぇ……」

 友人は練習を始めた翼率いる飛葉中がいるほうに視線をやって考える素振りをする。すぐ隣でも相手校がアップを始めていて校庭はにぎやかさを増していた。
 も同じように彼らへ視線を向ける。翼はやはりほかのメンバーと比べて身長が低いのだが、その分動きに柔軟性があるようでさすがキャプテンをしているだけのことはある。

「やっぱりかわいくてサッカーが上手いからじゃない?」
「それだけのこと!?」
「それだけってあんた……中学生の興味なんてそんなもんだよ」

 妙に達観した物言いは本当に中学生かどうか疑いたくなるが、翼の取り巻きを見ているとあながち間違っているとも思えない。ファンクラブの噂を耳にしたこともあるし、アイドルのような容姿はやはり注目の的になるのだろう。気持ちはわかるのだがどうもしっくりこなくて考えてしまう。
 話している間に試合開始のホイッスルが鳴り、かくして人生初のサッカー観戦を体験することになった。


 結果的には、飛葉中は一対二で桜上水中に負けた。
 土壇場で同点にされた後、まさかのアクシデントによって終了間際さらに一点を追加されてしまったのだ。けれども試合自体は非常に面白い展開を見せて観客を沸かした。小柄な翼が自分より大きな相手に互角かそれ以上に奮闘している姿は圧巻で、柄にもなく感動してしまった。なるほど、これは確かに女子の目に大層かっこよく映るだろう。
 試合終了後、両校チームがベンチに下がっていく。観客がぞろぞろ帰っていく中、ふと飛葉中のベンチに視線を向けてハッとした。
「あ……」思わず声をあげてしまい友人に「どうしたの」と聞かれたが、見てはいけないものを見た気がして慌てて視線を別の場所に移動させ何でもないフリをする。

 今のは見間違いじゃなければ、あの椎名翼が泣いていたように見えた。いつも自信に満ち溢れていて何事もそつなくこなすタイプの椎名翼という人間が、試合に負けて涙を流している。頭からかぶったタオルで表情はもう見えないけれど、小さい体がさらに小さくなった姿はの心に言い知れない「何か」を落としていった。

 その瞬間、の中で腑に落ちたことがある。翼の魅力が、見た目や普段の性格とは裏腹に情熱的で年相応に子どもっぽい一面があるということ。





 枕に頬杖をついていた翼が「腑に落ちない」といった顔でを見ていた。
 午前五時を過ぎて、辺りはすでに明るさを取り戻している。翼もすっかり目が覚めたのか、今は通常運転の"椎名翼"で好戦的な態度だ。

「全然納得できないんだけど」
「なんでよ」
「今の話が本当なら、は俺の子どもっぽいところが気に入ったってことだろ」
「……は?なに言ってんの?全然違うし。いや、まあ違うとまではいかないけど、でもそうじゃないっていうか――」
「余計意味わかんないから。俺らが桜上水に負けた試合のどこをどう見たらそういう思考回路になるんだよ」

 乙女の思考回路が理解できないらしい翼は不貞腐れて話を切り上げようとする。その上、二度寝する気なのか枕に頭を預けてそっぽを向かれた。
 翼は気づいていないのだろうか。
 こういうところなんだけど……。まあでも可愛いから教えてやらない。

 しばらく馴れ初め話に関する攻防が続き、気づけば太陽が顔をのぞかせていた。