額に口づけ

 高校に入学してからもバスケは続けていた。さすがにすぐにレギュラーとまではいかなかったが、中学で身につけた技術とこの身長のおかげで新人戦には出すかもしれないと顧問から言われて日々練習に励んでいる。
 高校生になったからといって特別何かが変わったということはなく、至って普通で平穏な毎日だ。朝練して授業を受け、放課後はまたバスケ。流れゆくように、変わりない日々が過ぎていく。

「うわ、こんな混んでるのか……」

 プルルルという発車ベルに駆け足で乗り込んだ電車は想像以上に人で溢れていて辟易した。
 都内の高校に通うにあたって一番の苦痛は電車の混み具合だろう。通学時間は通勤時間ともかぶっている。いつもなら朝練でこの電車より一時間以上前なのだが、生憎テスト期間中は部活停止になるので周りと同じ時間帯になってしまう。
 なるべく奥のほうへ行こうと試みたものの、周囲の鞄が邪魔をして進めず結局ドアの近辺で留まることになった。しかもこっちってあと五駅は開かないんだよなあ……。

もこの電車だったんだ」

 リュックを前に背負って一息ついたところで近くから名前を呼ばれた。なるほど、同中から同じ高校に行くということは通学の道中で出会う場合もあるということに直結する。
 無視するわけにもいかないので渋々といったていで振り向いたは、予想通りの相手に眉間に皺を寄せた。

「椎名くんこそ」
「俺はいつもこの時間帯に乗ってるんだよ」
「ふうん……」

 話しかけてきた相手、椎名翼はの中学時代からの同級生である。高校が同じであることは入学してから知ったことで、別に示し合わせたわけではなかった。むしろ彼とは犬猿の仲であり、お互い顔を合わせれば憎まれ口を叩き合うのが常。特別仲悪くしているつもりはないが、なぜか悪態ばかりを口にしてしまうのだ。
 が都内のH高を選んだのは通いやすさはもちろんバスケも積極的に活動している上、学習にも力を入れていることだった。だが、彼がここを選んだ理由として偏差値はわかるにしても、サッカー部に関してはそれほど活発ではなかったような。……あれ? ちょっと待って、今いつもこの時間帯って言ってなかった?

「って、サッカー部って朝練ないの!?」
「今さら? もう入学してから三か月も経ってるだろ」
「いや、だって知らないし」
「俺は部活じゃなくてクラブチームにいるんだよ。中学時代の監督のツテで入団テストを受けたんだ」
「あーそういうこと。まあサッカーだけは上手いもんね椎名くん」

 サッカーだけは余計だ。ムッとして椎名がすかさず訂正する。
 こうして瞬時に言い返すことができるのは彼の頭の回転の速さが関係している。小柄だが、その頭脳を武器にしたプレイで数々の試合に貢献してきたということは犬猿の仲のでさえ知っていることだ。
 彼が転校してきてから、身長差を理由にとセットで扱われることが多かった中学時代。"女の子"からかけ離れた高身長のは、自分より女の子らしい彼に嫉妬していた。比較しては変にくさくさして、無意味に八つ当たりしたこともあった。思えば子どもっぽいことをしてきたのだが、案外彼のほうも似たような感情を抱いていたと思う。お互いに自分にはない身体的特徴だからこそ、逆に気になって仕方がなかったのだ。
 一つ駅が進み反対側の扉が開くと、降りる人より乗ってくる人が多いためさらに車内は人口密度が高くなった。自然と椎名との距離も近づいてしまい居心地が悪くなって視線のやり場の困る。彼のほうはまったく気にしてないみたいで、それはそれでイラっとするが。
 電車が次の駅に向けて走り出した。ここから次の駅まで、この路線で一番駅と駅の距離が長いところである。空調は効いているものの梅雨の季節でじめじめしていることもあり、人が多い車内はサウナに近い。それを数分の間とはいえ我慢しなければならないとは、世の中の通勤通学は何かの試練だとは思う。
 ふと椎名のほうに視線をやると、小柄のせいか窮屈そうにしていた。彼にとってもこの通学時間は苦痛なのかもしれない。小さいというのはこういうとき不便だとつくづく思う。ともすれば潰れてしまいそうな椎名を見て見ぬふりができなかったは、仕方なく自分がいるドア側のほうへ引っ張ろうと手を伸ばした。が、その刹那――
 ガタン!
 電車が大きく揺れて体が傾いた。驚く間もなくは、向かいにいる椎名を引き寄せるどころか自分の体がそっちへ吸い寄せられるようにつんのめる。
 あ、と思ったときにはすでに事が起きていた。むさ苦しい車内なのに、ふわりと掠めたシャンプーの香りとくすぐったい感触。音こそしなかったものの、の唇は確かに椎名の額へ触れた。長い前髪からのぞくそこは、秘密の花園のようで急に恥ずかしさがこみ上げ頭が混乱を起こす。

「っだ!?」

 すぐに体勢を整えようと上半身をおこしたら、焦っていたせいか今度は背中側のドアに頭をぶつけた。めちゃくちゃ痛い。朝から踏んだり蹴ったりである。

「何してんの」

 ジト目でこちらを見つめる椎名の瞳はやはり気にしているふうもなく至って普通だった。だけが無駄に意識しているみたいで納得いかない。そしてそれを認めるわけにもいかないのだが、「べべ、別に? 何でもないし」うまく切り返しをしようとしたのにあっけなく撃沈した。

「ったく、デカいくせにどんくさいとかやめなよ。いつもみたいな俊敏さはどこいったわけ?」
「うるっさいなあもう」

 さりげなく手を引いてバランスを整えてくれた椎名にこのときはなぜか男らしさを感じてしまい、はぶわっと鳥肌が立って居ても立っても居られなくなった。心がざわざわする。よくわからないけれどむず痒い。
 が必死でこの例えるのが難しい感情と戦っている最中、しかし椎名は変わらず呆れた視線を寄越すのでなんだかもういろいろなことがどうでもよく思えてくる。
 このあと授業って、キツい。