そこに立って

 二年になると体育館や校門前のスペースを使えるようになるので、文化祭はこの学校の盛り上がる行事の一つだ。一年の頃は、教室しか使えない――これは二、三年に場所を譲るという暗黙のルール――ので、できることは限られるし、うちの学校はなぜかお化け屋敷が禁止であり、教室で食べ物を売るのも禁止なので正直面白いとは思わなかった。
 九月初旬。夏休みの名残が微妙に漂う教室で、二年四組は十月終わりにある文化祭の出し物を話し合っていた。木曜日は週に一度だけある地獄の七時間目が存在する日で、大概の生徒は寝るまたは聞いていないのどちらかだが、ほとんどがHRにあてられるのでまあ聞いていなくても問題はない。
 は運のいいことに窓側の後ろから二番目なので、四十人近くいる教室の中では比較的目立たない場所に座している。黒板に書かれている出し物の候補は、模擬店、演劇、合唱、ミニゲーム。正直あまり興味がないので何でもいい。六時間目が苦手な物理だったせいもあり、精神的に疲れがたまっていたは机に突っ伏した。

はどっちにするー?」

 突っ伏した直後、隣から声をかけられた。気だるげにむくりと起き上がって右側に顔を向ける。楽しそうにする彼女は二年になってから仲良くなった子で、部活は違うが妙に波長が合う。
 黒板を見るとすでに模擬店か演劇の二択になっていた。どうやら合唱とミニゲームは男子によって却下されたらしい。だが、体育館も外のスペースも枠が限られているので希望クラスが多ければ抽選になる。我が校は各学年八クラスずつ。つまり全部で二十四クラスであり、そのうち二年と三年で争うので十六だ。文化祭実行委員によれば第三希望まで決めなければならないと言うから、最終的にどっちもはずれたら教室で何かすることになる。

「んーどっちでもいいー」
「なにそれ、やる気なっ!」
「だって文化祭の時期って新人戦に近いんだもん、正直そっちに手一杯だし」
「ばか。文化祭はメインイベントの一つでしょうが! 私は劇がいいかな〜」

 メインイベントだろうが何だろうが、事実新人戦は十一月の頭に開催されるのだから仕方ない。それに三年は出られない大会だから、二年であるたちが中心になって出場するものだ。昨年は数分しか出られなかった分、今年はフルで出場できるので気合の入り具合もひとしおである。
 教壇に立つ委員が「多数決とりまーす」とクラスに声をかける。騒がしさを増した教室で、は一週間後自分の身に降りかかる不運を知る由もなく流れを見守った。


*


「納得いかない!」

 駄々をこねる子どものように、は黒板に書かれた文字を睨みつけている。忌々しいその文字を消し去りたいのだが、委員の二人が許してくれない。多数決で決まったから仕方ないと言われれば反論する余地もなく、しかしわかりましたと素直に頷くには人間ができていないのだ。
 一週間前。模擬店か演劇かの二択から、四組は劇に決まった。その数日後に行われた抽選で見事当たりを引いた我がクラスは、第一希望の体育館で劇ができることになったわけである。内容もスムーズに王道のシンデレラと決まった。そこまではいい。問題はそのあとで、なぜかが大役に抜擢されてしまったのだ。それも主人公のシンデレラではなく――

「なんで私が王子役なんかっ……」
「似合うよ! てかもうしか似合わないっしょ」
「だなーと椎名の反転シンデレラ、こりゃ絶対客が沸くって」

 ほほう、君たち好き勝手言ってるくれるじゃないか。
 そう。が選ばれたのはお姫さまのシンデレラではなく王子のほうである。そして相手のシンデレラ役にはこれまた不運なことに椎名翼が選ばれてしまった。理由は言われなくてもわかるのが癪だが、脳裏で想像してみて確かに面白いかもしれないと思ってしまった自分を殴りたい。
 HRで決まってから納得がいかず、放課後残って文化祭実行委員の二人へ抗議している最中である。渦中のもう一人である椎名は、もはや関わりたくないのか仏頂面で机に肘をついていた。一応、あんたにも関係あることなんだけど……。あれなの? もうこの際どうでもいいってやつなの?

「でもさーうちには笹川さんっていうクラス一の可愛い子がいるじゃん。その子にやってもらったほうが――」
「だからそれじゃつまんないんだって」

 いや、知らないし。と突っ込みをいれなかった自分を褒めてほしい。つまらないとは思わないが、面白さでいえばの反転シンデレラより劣るだろう。とはいえ、全校生徒に加えて他校や保護者も見に来る文化祭で恥を晒すくらいなら死んだほうがマシ……とまでは言わないけれど、とにかく断固として拒否したいところである。

「いいじゃん。もう決まったことなんだし、も諦めなって」

 これまで一言も発さなかった椎名が急に何を言うのかと思えば爆弾発言だった。あの容姿に関して人から指摘されるのを嫌う椎名が肯定している。怒っているわけでもなく、だからといって乗り気でもない。一体どういうつもりなのだろう。
 そんなの思いをよそに、委員の二人が目をきらきらさせて頷くものだから拒否しづらい雰囲気になってしまった。やめてほしい、どうしてそんなお土産を待ちわびた子どもみたいな表情をするのだ。
 たっぷりと長いため息を吐いてから、はようやく「わかった」と引き受ける返事をした。その答えを聞くや否や、二人は一目散に教室を出ていきどこかへ向かった。
 嵐のように去っていった二人を呆然と見つめていると、やがてガタンという音とともに椎名が席を立ち、同じように教室を出ていこうとする。

「ちょっと、どういうつもりよ」
「……なにが」
「だから、なんでオッケーしたのかって聞いてんの」

 わかってるくせに「なにが」と白を切る椎名はなんだからしくない気がした。まあ中学時代からの付き合いとは言っても、友人レベルで仲良くしていたわけではないので知っていることといえばサッカーが上手いのと頭が良いの二つくらいなのだが。
 一度は持ち上げた鞄を再び床に下ろした彼は、ゆっくりこちらに顔を向けてめんどくさそうに口を開いた。

「見てわかんないの? あいつらに何言ったってムダだって。余計な体力使いたくないし、俺はこのあと練習あるし、そっちも部活あるんだからここは適当に頷いておけばいいだろ」
「適当にって……」

 ますます訳がわからない。頷けば確かにこの場は納まるが、逆転シンデレラを演じなければならないのだ。根本的な解決にはなっていない。じゃあ、椎名は一体どうして……。そこまで考えを巡らせてハッとする。もしかして、椎名的には満更でもないとか……?

「んなわけないだろ、気持ち悪い想像するな」ゴンと頭を拳で小突いてきた椎名がドン引きした顔でを見ている。というか、口に出していないのになぜわかったのだろう。というか痛いんですけど。
「顔に出すぎ。大体、体育館でやるっていってもこの学校の規模でいえばほかにも見て回るところはいっぱいあるし、そんなに客は来ないと思うけど」
「そうなのかなあ。いや、まあ私は別に王子の服を着ることに抵抗はないけど……椎名くんは――」

 言いかけて口ごもる。ちらりと目線だけ彼に向けると機嫌はよくない。やはり不本意であることに変わりないようだった。
 まあそれもそうだろう、女が王子をやるのはないこともないが、男が姫役をやるのはすなわちドレスを着ることと同義だ。椎名の容姿にはさぞ似合うだろうが、彼からすれば御免こうむりたい案件である。それを律儀にやってやるというのだから、彼の並々ならぬ覚悟を感じては「わかったよ」と降参した。

「椎名くんが意外とクラス想いであることに免じて、こうなったら私も真剣に取り組みます」
「意外とは余計だ。こっちは恥を忍んでやるんだから、もちゃんとやれよな」

 こうして、椎名と二人恥を覚悟で逆転シンデレラに挑むことになったのである。


*


 だが、椎名の予想とは裏腹に当日の体育館は溢れんばかりの人で、パイプ椅子が不足し立ち見客までいるほどだった。十月の終わりだというのに、まるで季節が逆戻りしたかのような暑さである。当然室内も暑いのだが、密室であり人口密度の高い今の体育館は外の比ではない。
 開演まであと三十分もあるにもかかわらず、なぜこんなたくさんの人が集まっているのか。理由はなんとなく想像がつく。あのパンフレットのせいだ。
 文化祭委員が自分のクラスの出し物について一生懸命なにかを書いているのは知っていた。その"なにか"の正体がわかったのはパンフレットが配られた三日前のことだ。体育館のタイムスケジュールや各クラスの出し物が書かれたそこに、我が二年四組は『逆転シンデレラ』とどこのクラスよりも目立って載っていたのだ。おまけに誰が考えたのか「学年一大きい女子と学年一小柄な男子椎名翼による」という修飾語がついている。どこかで聞いたことのある表現に眩暈がしそうだ。別に今さらどうということもないのだが。
 ともかく抗議する暇もなくあっという間に当日を迎えてしまったので、こうなったらヤケになるしかない。
 練習も重ねて恥ずかしい台詞をこれでもかと言っていると、逆に開き直ってくるものである。椎名のほうも脚本を前に最初は眉をひそめていたものの、慣れてきたのか様になっていた。何しろ顔の出来が完璧なので、そこに演技が入るともはや本当に姫なのではと錯覚を起こしそうになり、変にドキドキするのだ。
 一年の電車でのことがあってから、はなぜか椎名に対してむず痒さを覚えていた。別にあれから特別仲良くなったわけでも、かといって中学の頃みたいに必要以上にいがみ合うということもなく。ただ、用があれば話す程度だったのだが。
 進級してからも同じクラスになったのは何かの縁だろうか、向こうも前より刺がなくなった……ような気がする。相変わらずお互いバスケとサッカーの毎日で、プライベートでの交流はない。だが、椎名の姿が視界に入ると胸の奥がぎゅっとなるようなそれでいて幸福感みたいなものが心を占める。自分には決して似合わないふわふわした気持ちに戸惑いつつも、これが何なのかわからないほど疎くもないから困っていたりするのだが。

 王子の衣装に着替えをすませたはふと椎名の姿が見えないことに気づいて辺りを見回した。そろそろ舞台袖にいたほうがいいというのにどこに行ったのだろう。そこで、舞台袖から外へ通じる扉が少しだけ開いているのを見つけた。もしかして外に……?
 体育館の舞台袖は上手側と下手側両方に扉があるのだが、下手側のほうは通路を挟んですぐテニスコートがある。がそっと扉を開けて外の通路に顔を出すと、果たして通路を左に行った先にある段差に腰かけていた。着替えはすませているようだが、仮にも本番衣装で外履き座っているのはどうなんだ。

「なにやってんの? もう舞台袖で待機の時間だけど」

 声をかけてみたものの、椎名の後姿がなんとなく元気がない気がして尻すぼみになった。とりあえず隣に座って顔を覗きこむと、元気がないというより不機嫌な感じに読み取れた。この期に及んで何が不服なのか。そもそもそっちが先に承諾した案件であって、は元から乗り気ではない。

「諦めなって言ったのはどこの誰だったっけ」
「……うるさいな」

 やはり不機嫌だ。この男、不機嫌のくせに顔が良いとはまったく女の敵である。
 そして女装した椎名もまた、王子姿が似合うと同様似合っていた。なるほど、これを全校生徒に晒すのは確かに抵抗を感じるのも無理はない。とはいえ、一度やると決めたらやり通すのが筋というものだ。クラスの雰囲気が悪くなるのも御免だが、土壇場でノーと言えるほどに度胸はない。

「開き直って演じるしかないでしょ。もうここまで来たら」
「わかってるよ」
「わかってるならほら、さっさといくよ」
「……」

 それでも椎名の腰は重く、動きそうになかった。意外と面倒だなあとため息をつきそうになったところで、「あ!」とあることが頭に浮かんだ。こうなったら一か八かだ。

「椎名くん、ちょっとそこに立って」

 は、やにわに段差を降りると椎名の目の前に立った。仏頂面の表情が今度は訝る表情を作る。「はやく」促して彼を無理やりその場に立たせると自分は段差分の距離を縮めるように少し近づく。
 ますます不審がる椎名を余所には目線の高さが同じ――いや、ちょっとだけ椎名のほうが高くなっている、になったことにどきりとした。はやる鼓動を抑え勢いに任せてさらに近づいていき、吸い寄せられるように"そこ"へ唇をあてがう。

「なにすっ……」

 寸秒呆けていた椎名が我に返って自分の頬をさすった。羞恥心はどこへいったのやら、今のは気分がよかった。目を見開く椎名の顔も普段見られないから貴重である。

「ジタバタしないで根性見せなさいよ。私の知ってる椎名翼はこんなことでうじうじする人間じゃないんだけど」

 言いつつ、椎名の横を通り過ぎ体育館のほうへ戻る。そこまで言われた椎名が黙ってるはずもなく、ダンッと大きな音を立てて追いかけてきた。
 なんだよ、段差で気を遣ったつもりか? のくせに調子に乗るな。……とかなんとか言いながら横に並んだ彼の顔は、もう不機嫌ではなくなっていた。