背伸びしてキス

 が通うH高校では、一年の秋頃に文系か理系かを選択した上で二年のクラスが決まる。そう、二年からは完全に文系と理系がわかれるのだ。三年は二年のクラスがそのまま持ち上がるだけなので、高校のクラス替えは実質この一回のみ。
 二年四組から三年四組になったは文系クラスである。察しているかもしれないが、一組から四組は文系であり五組から八組が理系となる。一年のとき、ただ漠然と文系かなという曖昧な理由で選んだは、けれど進路希望調査で何を書いたらいいかわからないでいた。
 三年になって第一回目の調査は六月。ひとまず進学と書いてみたものの、特別学びたいことがあるわけではない。かといって就職するにしてもやりたい仕事があるわけでもない。そんなふうにして曖昧な回答で濁してしまいずるずると夏を迎えた。
 我が女子バスケットボール部はインターハイ予選の決勝戦まで残ったものの常勝校に負けて、三年は七月に入ると同時に部活を引退した。気づけば本格的に進路を考えなければいけなくなっていた。

は進路どうするの? 大学? それとも就職?」
「んー実はまだ決まってなくて……」

 部活のない毎日が続いて二週間。夏休みに入る直前、駅までの道すがら友人と話題にあがるのは進路のことばかりだった。仕方ないとはいえ、将来の方向が定まらないにとっては答えづらいことこの上ない質問である。
 予想通り、彼女は渋い顔をした。女バスでもクラスでも一緒の三年間みっちりコース。お互い気の置けない仲だ。

「進路調査にはなんて書いたの?」
「とりあえず、進学?」
「学部は?」
「とりあえず、経済学」
「あっきれた。あんた経済なんてこれっぽっちも興味ないでしょうが」

 さすが何でも知っている友人。私の趣味趣向を心得ている。経済学部というのは、とりあえず何か書かなくてはいけないとひねって考えた結果だった。つまり、彼女の言う通り一ミリも興味はない。ここで、バスケットボールという選択肢はの中にはないことを明記しておく。バスケは好きだが、あくまで部活としての好きであって将来仕事にしたいということではない。
 ということもあって、思いつくまま「経済学部」と書いたのだが友人には見抜かれている。担任が気づくのも時間の問題かもしれない。

「経済は確かに興味ないけど、分析とかそういうのは好きだからさー」
「ああ、試合後のビデオよく見てたよね〜なに、ってそういうのが好きなの」
「うーん、たぶん……」

 煮え切らない返事に「たぶんってなんだ」とまた呆れて笑った。
 話に夢中になっているとすぐ駅に着いてしまい、反対方面に帰る友人とは改札を入って別れた。ホームまでの階段を降りている途中で発車ベルが聞こえる。走れば間に合う気もしたけど、なんとなく気分ではなくてやめた。
 部活がないとこうも空っぽになるとは思っていなかった。周りは当たり前のように将来を見据えて行動を始めているというのに、自分だけが取り残されたように右往左往している。早くしなきゃと思えば思うほど、どうすればいいのかわからなかった。
 都心の電車は一つ見送ってもまたすぐ来るのが特徴で、ホームに降り立ってまもなく、構内に次の電車を知らせるアナウンスが流れた。陽が出ている時間に帰ることも慣れてきた今、ただ流れていく景色が初めて止まって見える。ホームを歩いている人、スピードを落とす電車、高層マンションにお洒落なカフェと雑貨屋。見落としていたものが視覚情報として入ってくる。
 乗り込んだ電車がゆっくり走り出す。窓からのぞくコバルトブルーの空に入道雲がかかっていた。揺れ動く景色を見つめながら、は自分がこれから先どうすればいいのかとぼんやり考えた。


*


 転機が訪れたのは夏休みに入って一週間が経った頃である。家で集中できない――というのは建前で、単に気分転換をするため図書館で勉強しようと外に出たときのこと。
 自宅から図書館まで自転車をこいで十分程度。駐輪場に停めたあと、何やら歓声が聞こえてそちらに引き寄せられた。そういえば図書館の裏にはテニスコートやフットサルコート、運動場があったのを思い出して合点がいく。夏休み中だし試合をしているのかもしれないなと思った矢先、の目に見知った顔が映り込んだ。
 ――あれは、椎名?
 男子にしては長めの茶髪で、高校三年になっても相変わらず身長は平均のそれより小さいからすぐにわかる。運動場ではサッカーの試合が行われているようで、長方形のフィールドを囲むように応援する人たちの姿があった。なんとなく興味をひかれて、の足は運動場に向かう。
 観客の合間を縫って試合をみてみれば、椎名の所属するチームが一点入れて同点になったところだった。近づいてみて今度ははっきりと椎名の姿がわかる。小柄の特性を活かして身軽に相手を翻弄し、ボールを奪って味方へ送っている。二十二人いるうち、一番低いにもかかわらず動きは一番俊敏で巧みだった。

 ここで椎名翼とのつながりを補足する。彼とは遡れば中学からの付き合いになるが、だからといって仲が良いというわけではなく口を開けば喧嘩ばかりしていた。そんな彼とまさか同じ高校になるとは驚いたものの、中学より少しだけ大人になった二人の間には喧嘩することとは別の、何か甘さを含んだ雰囲気が時折漂っていた。
 がそれを意識しだしたのは高校に入学して三か月が過ぎようとしていた頃だ。身長差を理由に何かと椎名と比較されることが多かったは、けれどとあるハプニングによって急に異性として認識してしまう事態になった。
 高校生によくある甘酸っぱい青春の一ページと言われてしまうとぐうの音も出ない。まさにその通りなので反論の余地はないが、かといって今さら自分から何か行動を起こすのも気恥ずかしくてできずにいた。そのまま二年になって再び同じクラスになっても、近いようで近くない関係性は変わらないまま過ぎていく――そう思われた年の文化祭。
 学年一デカい女と学年一小さい男で逆転シンデレラの主演を命じられたと椎名は、不本意ながらその役をまっとうすることになる。土壇場で沈んだ椎名を、のとっさの思いつきで救ったのは記憶に新しいが、思いだしても恥ずかしさで喉をかきむしりたい衝動に駆られるときがある。
 椎名本人はどういうわけか特に掘り返してこないまま普通に話しかけてくるので、こちらとしてはありがたく思いつつも若干傷ついている自分がいることに、は戸惑うばかりだった。そもそも椎名とどうなりたいのか、自身よくわかっていないのが本当のところなのだが。

「そんなことより進路、だよねえ……」

 自陣へ攻めてくる敵を食い止める必死な椎名を見ながら、やっぱり脳を占めるのは将来のことだった。
 ふと思う。無我夢中になる、このサッカー少年たちの中で一体どれだけの人がプロを目指すのだろう。そしてどれくらいの人がプロになれるのだろう。クラブチームにいるくらいだから相応の実力を持っているのだろうが、はたして。例えば、椎名はどうなのだろう。
 中央に置かれたデジタル式のストップウォッチは後半の四十分になろうとしていた。サッカーはバスケなどと違って、前半後半それぞれにアディショナルタイムというケガ人や交代で費やされた時間を補うための試合時間が存在する。
 審判から提示された時間は三分。このまま両チームに点が入らなければ引き分けである。延長戦があれば別だろうが、トーナメントでもない限り勝敗をはっきりさせる必要はない。
 はフィールドに目を向ける。実力的に大差はないように見えた。つまりどちらにも点を入れるチャンスは起こり得るし、このまま引き分けで終わる可能性もある。けれど、体力的に消耗しているのは椎名のチームと戦っているほうに見えるし、数十分で判断するにはどうかと思うが向こうの十番はどうも右サイドにボールを集める傾向が強い。
 という具合に、気づけば本来の目的を忘れて見入っていた。サッカーの詳しいルールは知らなくても、体育の授業における知識である程度は理解ができる。ここで、は初めて自分がこうした選手の動きを分析するのが意外と得意であることに気づいた。


 試合を終えた両チームがその場で解散するのを待って、は椎名に声をかけた。黙って立ち去ってもよかったのだが、実は試合中椎名がこちらに気づいていたので無視するのも変だしせめて挨拶だけはしようと――というのは建前で、本当は少し椎名と話したかったのだがそれは胸中にとどめておく。

「偶然だから」
「……別に何も言ってないけど」
「なんでいるんだよって顔してたじゃん」
「まあ最初はね。けど図書館があるからすぐにわかったよ」

 チームメイトとわかれて椎名と二人、運動場のベンチで座って話す午後。気まずい雰囲気こそないものの、あの頃のような応酬ができないでいる。それもこれも自分の気持ちの問題なのだが。
 とはいえ、せっかくの機会だから椎名にも聞いてみたいことがあった。

「椎名はさ、将来プロを目指してるの?」唐突すぎたかもしれない。驚いた顔でこちらを見るものだから「いやほら、私たちもう三年でみんな進路を決めなきゃいけないでしょ。でも私なかなか決められなくてさ……」慌てて取り繕うように付け足した。
 の言葉にしかし椎名はしばらく無言のまま答えなかった。考えこんでいるようにも見えたし、返す言葉を探しているようにも見えた。そうしていくらか悩んだ末に彼は言った。

「別に今すぐ決めなくてもいいんじゃない?」

 それは適当に言った言葉ではなく、椎名が本当にそう思っていることがうかがえる優しい言い方だった。視線はすでにそらされていて、真っ直ぐ運動場を見つめている。

「俺はプロになるつもりだけど、みんながみんな将来やること決まってるって奴らじゃないだろ。大学だってやりたいことを見つけるために通ってる奴もいる」
「やりたいことを見つけるため……」
だって、まったく何も”ない”わけじゃないんだろ? 試合みながらニヤニヤしてたくせに」
「はあ? ニヤニヤなんかしてないし、勝手なこと言わないでくれる?」

 立ち止まって見入っていたことは認めるが、指摘されるほど変な顔を晒した覚えはない。思わず大きな声を出して立ち上がったを、しかし椎名は真剣な表情で見つめ返してきた。話に夢中になっていて気づかなかったがお互いの距離がものすごく近い。変に意識しているのは自分だけなのが癪だけれど、まあそれは置いておくとして……
 なぜか椎名も立ち上がり体をくるりとこちらに向けてきた。相変わらずより身長が低いので、目線はどうしても彼のほうが見上げる形になるものの、もうただのいがみ合う間柄ではない。急に恥ずかしさがこみ上げてきて顔をそらしたは、早く何か言わないとと焦る。ああ、情けない。昔の私はどこへいったのか。
 と、「」急に名前を呼ばれてもう一度顔を上げた。なに、と返事をする前に視界が遮られてしまってぼうっとしている間に再び視界は開けた。あれ。今、口になにか当たらなかった……? 柔らかい、何かが。

「スポーツアナリスト。科学的に分析して、効率的な戦略を練ったり勝利を導くサポートする仕事。あんたに向いてるんじゃない?」
「……っ!?」

 我に返ったとき、椎名はすでに踵を返して運動場を後にしていた。
 やられた。唇に手を添えてわなわなと震えながら、顔に熱が集まっていく。とっさのことでわからなかったが、あの感触はもしかしなくても――

「やられっぱなしは性に合わないからね」

 借りは返した、とでも言いたげな椎名に沸々とわきあがるのは怒りなのか恥ずかしさなのか。得意げに笑って自転車に乗った彼は、いつもの憎らしい椎名翼だった。