それは、九月の第三金曜日のこと

 東京都内のF体育大学の近くにあるブックカフェ"ビブリオ"で働く二十二歳、の朝はいつも早い。六時に起床し、洗顔とヘアスタイルを整えることから始まり、六時半に家の周りをジョギングして七時に朝食。そして軽くメイクを施して七時半きっかりに家を出る。
 カフェのオープン時間である十時より二時間も早く到着すると、店内の掃除や下準備をさっさと済ませていざ読書。大体九時からオープン十分前までが彼女の朝読書の時間である。
 大学卒業と同時に"ビブリオ"で働くことになったのは昨年母方の伯母が亡くなったことが大きく影響している。もともと都内の商社に就職が決まっていたは伯母の訃報を受けて散々悩んだ結果、彼女が大切にしてきたブックカフェを受け継ぐことにしたのだ。どうしてなのかといえば、父も母も世界を飛び回るジャーナリストを生業にしているからである。
 母からは店を閉じてもいいと言われたのだが、実は伯母とは幼少の頃からなかなか家にいることが少ない両親に代わって面倒を見てくれた関係でが大きくなってからも仲が良く、いろいろ相談に乗ってもらったりした。とまあ、そういうわけではその恩を返すつもりで店を守るという選択をしたのだ。
 そしてこの春、カフェの最寄り駅から三つ離れた場所に引っ越して四月から店主として働いている。もちろん経験もなくいきなり店主が務まるはずがないので、昨年の秋から伯母の妹(これが母の姉になるのだが、ややこしいことに母は三姉妹の末っ子なのだ)がカフェのアルバイト経験があるとのことで、半年間を徹底的に仕込んでくれた。それはもうかなり厳しく。昼間は卒論、夜はカフェ経営の心得。自分でもよく乗り切れたと思っている。
 いきなり店主になってから早三か月。最初のうちは伯母の妹が様子を見に週一ペースで来てくれていたのも今月から月一になり、いよいよ本格的に自分の力で切り盛りしなければならない。
 現在読んでいるのはジェームズ・マシュー・バリーが書いた『ピーター・パンとウェンディ』である。小さい頃映画で何度も見た作品だが、実は原作を一度も読んだことがなかったは、ある日イギリス児童文学特集のコーナーで見つけたこの文庫本をふと手に取った。
 伯母が大の本好きだったおかげで、は小さい頃から物語に親しんだ生活を送ってきた。絵本はもちろん、文字が読めるようになった小学生のときには伯母の家の本を片っ端から読み漁った。といっても子ども向けばかりではなかったので読めない本も多々あったが。
 永遠に年を取らない少年とやがて大人になってしまう少女の冒険物語は、どちらかといえばアニメーション映画として有名で、原作を読んだことがあるという人のほうがきっと少ない。絵本も児童文学であることもあって、大人になってから読もうと思う人もなかなかいないだろう。
 は、ひとりネバーランドにいる気分で本の世界を堪能していた。しかし優雅な読書時間もあっという間に過ぎていく。カップの中身がなくなる頃、ふと時計を見上げて「わっ、もうこんな時間。急がなきゃ」
 急いで立ち上がった。
 気づけばオープン十分前。看板を出して、店内を整えなければならない。BGMにはリラックスしてもらいたい関係からクラシックやサントラをかけている。ブックカフェと名乗っていることもあり、読書や勉強で訪れる客も少なくないので集中力を妨げてしまいがちな歌詞がついている音楽は流さないようにしているのだ。
 最終チェックを終えて壁時計が十時をさす。"ビブリオ"の開店である。
 と、ほぼ同時に店の扉が開いた。入ってきたのは二人の老婦人、顔見知り。伯母が経営していた頃からの常連客だった。

「おはようございます。あれ、今日もブレックファーストですか?」
「おはようちゃん。実はねえ、このあと生け花教室があるから早めに出て朝食を取ることにしたのよ」
「じいさんたちが朝から将棋をさしに行っちゃってねえ。どうするって話してたらやっぱりここのあんバタートーストが食べたくなったの」

 窓際の二人関が彼女たちの定位置である。お互い席に座ってすぐ事情を説明してくれた。二人が来るのは毎週水曜日と決まっているのだが、どうやら今日は臨時の入店らしい。
 あんバタートーストはここの看板メニューの一つであり、客にも人気の朝食だ。水曜日にも注文していたのに今日もまた食べるらしい。

「かしこまりました」

 答えて、はカウンターの内側へ入りトーストの準備をする。
 今日もまた、至って平凡な一日が始まる。

*

 変わりばえのない日々に色がさしたのはカフェを始めてから六か月目になる九月のことだった。
 そろそろクローズ業務に取りかかる時間となり、看板をしまうため外へ出たは向かいから走ってくる人が目に入ったので避けようと内側にずれたところ、その人はなぜかの前で足を止めた。

「もしかしてもう閉店準備?」
「え……あ、そうですね。そろそろ閉める作業に入ろうと思ってましたけど、一人くらいいいですよ」
「マジ?」
「ええ。カウンター席にどうぞ」

 は扉の札をクローズドにしてから中へ案内した。物珍しげに辺りを見回すその人を見やるも、心中は複雑な思いだった。
 初対面なのに随分話し方がくだけている人だな――という第一印象は、正直よくないほうである。ただ有無を言わせないオーラでも放っているのか、なんとなく服従してしまいそうな雰囲気が漂っていて苦手なタイプだ。それから無地のTシャツにナイロンのハーフパンツからしてスポーツをやっていることは明白だった。もしかしたらすぐそばのF体大の学生かもしれない。身長はより上だが、男子の平均より下のような気がする。
 だが、一番目を引くのが彼(性別はたぶん男だろう)の端正な顔だ。前世でどんな徳を積んだらそんな顔で生まれてこれるのか教えてほしいくらいには綺麗な作りで、じっと見るのも憚られる。場合によっては女性と間違えられてもおかしくないが、手足の骨格からしてきっと男だ。さらに言えば、この手のタイプはきっと散々同じ質問をされて辟易している。だから触れないのが一番いい。

「えーっと、何を注文されますか?」
「閉店間際だろ? そっちが作りやすいものでいいよ。あとアイスコーヒー」
「わかりました」

 敬語がない割に礼儀はあるのか、一応気を遣ってくれたらしい。その言葉に甘えて、は自分の賄いにする予定だったチキンライスを温めて卵をのせることにする。オムライスだ。
 手際よく(実はこれまでに何回も練習したのだが)卵をのせて、彼の前にさしだす。もちろんアイスコーヒーも忘れずに。

「どうぞ」
「サンキュ」
「……」
「……なに?」
「いや、えっと……F体大の学生なのかなって」

 思わず彼の顔をまじまじと見てしまったからか、何か言いたいことがあると思われたらしい。苦しまぎれに質問したが、見ればわかるだろとか言われそうでちょっと身構える。口調から察するに、物事をはっきり言うタイプの人であると考えたは一体なにを言われるのか恐々として相手の出方を待った。
 緊張感の漂う空気の中、しかし彼は「ああそういうこと」と合点がいったような顔をしたかと思うと「俺は学生じゃなくて指導しに来てるコーチみたいなもんだよ。もしかして学生に見える?」意地悪そうに付け足した。

「えっ、あ、そうなんですね……すみません。てっきり大学生の方かと」
「別にいいよ。それより、これからもこの時間に来てもいい? 練習時間の関係でこの時間帯しか来れなくてさ。なんなら料金増してもらっても構わないし」

 どうやら彼は月曜と金曜の週二日F体大へ通っているらしく、練習が終わる頃には空腹で家に帰ることになるが、最近になってここの存在を知ったのだという。ただ、毎回練習後に行くと閉まっていて、今日たまたま開いている(といってももう閉店間際だったが)ところに滑り込めたのだとか。
 確かにこのあたりは、体育大学生向けに多くの店が存在するがそのどれもが夜の十時以降はやっていない。やっているとすれば飲み屋だ。

「そういうことでしたら構いませんよ。ここは私一人でやっている店ですし、閉める時間は自由ですから」
「助かるよ」
「ただ、ほかのお客様も来られると困るので看板はクローズドにしておきますから、勝手に入ってきてください」
「了解。そういえば名乗ってなかったけど、椎名翼二十三歳。サッカーやってる、よろしく」
です。新米ですが、見ての通りここのマスターやってます。普通の会社員の予定が、伯母から引き継いで続けることにしました。今年で二十三です、よろしくお願いしますね」
「同い年か。敬語なくていいよ」
「えっ、いきなりですか……同い年といってもお客様ですし」

 自己紹介をして再び驚いたのは彼が同い年ということだった。学生じゃない時点で可能性を考えるべきだったが、どうもやっぱり自分より年下に見えてしまうのはきっと身長と顔の作りのせいだろう。本人の前では言えない言葉をのみこんで、は遠慮を示した。

「ふうん、案外固いんだ」
「固いって……普通だと思いますけど。椎名さんが変わってるんですよ」
「翼でいいよ」
「はあ……」

 強引な人だなあ、と胸中で毒づいてはため息をついた。こうしてとりとめのない会話をしながら九月の第三金曜日が過ぎていく。
 これがと翼のファーストコンタクトだった。