第三者的観測

 その子に会うことになったきっかけは何てことない――代表戦で顔を合わせる椎名翼の行きつけのカフェについていったことだった。珍しくない話だが、中学時代から選抜にいたメンツは気心知れた仲であるから練習後にご飯や飲みに行くことはしょっちゅうある。だから彼女――に会ったのも、そうした仲間内で夕飯を食べに行くことになったことの結果だった。
 当初の予定ではチェーン店の飲み屋に行くつもりが、酒が入ると明日の練習に響くという理由から姫さんこと椎名翼がカフェ"ビブリオ"を紹介してくれた。彼の本音はどうやら紹介したくなかったようで、「仕方なく」とか「どうしてもって言うなら」とか散々前置きをつけて渋々という感じだ。
 翼にしては珍しく乗り気がないのを不審に思ったが、実際に会ってみて納得した。同い年のという女性はスラリとした一般女性の平均より少し大きい身長でありながら、カフェを経営している関係で手先が器用なのか料理上手な上に、知的な一面も垣間見える。それと飲食物を提供する仕事柄ネイル等はできないものの、水仕事をたくさんするせいであかぎれを起こしている指先が逆に家庭的な印象を受けて可愛らしい。
 自分がアクセサリーを好むせいか、女性に対してはシンプルに着飾ってほしいという妙なこだわりがあることも相まって彼女に対して興味をひかれたのは言うまでもない。加えて、あの翼が懇意にしている女性とくれば興味がわかない訳がない。自分のことは置いといて、人の恋路というものは気になるものである。

 十二月も半ばを過ぎていよいよ年の瀬という頃。世の中もなんとなく忙しない雰囲気が漂いつつ、クリスマスが近いこともあって浮き足立つ人々の様子を眺めながら、藤村は東京にある独り暮らしの自宅へ向かっていた。翼と同じでF体大のコーチを務める中学時代のチームメイト風祭も一緒である。昨日から翼が合宿遠征で東京不在(戻ってくるのは五日後だ)のため風祭が一人でやっているというが、二人が指導しに来る曜日は元々異なるので普段は会うことがないという。
 風祭と夕飯を約束していた藤村は指導を終えた風祭を迎えに行き、二時間ほど居酒屋で飲んで帰宅途中だった。風祭と会うことが多いのはお互いの自宅が近いという理由のほかに、やはり長い付き合いであることの話しやすさからちょくちょく飲みに行くからだ。
 電車に揺られて数分、最寄りの駅で降りた二人は自宅までの道をゆっくり歩く。今日は特に冷えるらしく、吐いた息が白い。隣で風祭がマフラーに口元を埋めて、寒いなあとぼやいている。もう少し身長が伸びるかと思われた彼は、怪我が完治してドイツから戻ってきたあとも大して変わらず、自分との身長差は中学からあまり変わっていないように思う。

「シゲさんは明日オフなんですか?」
「おう。お前は姫さんの代わりに明日も行くことになったっちゅうてたなァ」
「翼さんのほうに連絡がいったみたいで。気づけばいろいろ手配済みというか……でもお詫びにさんのところでご飯食べていいって言われて」
「ホォーちゃんとこに……ちゅうか、なんで姫さんが決めとるんや」
「僕もわからないですけど、さんからOK出てるっていうし、ご飯美味しいしいいかなって思って」
「なんやお前、彼女に気ィでもあるんか」
「そ、そんなんじゃないですって!」

 首がもげるかってほど横に振って否定するのは逆に怪しいのだが、彼の場合は本当に恥ずかしくてこういう態度を取っていると昔から知っているので事実そうなのだろう。聞けば、彼女と翼は日常的なやり取りまでするくらいの仲になっているらしい。ますます気になるところである。
 の料理は確かに美味いし、彼女の人柄もなかなか親しみを持てる雰囲気だ。サッカーに詳しくない人種と知り合う機会も少ない分、彼女のような人は珍しいのである。
 二人で軽口を叩き合いながら、お互いの自宅近辺に差しかかったところだった。この辺りはマンションやアパートといった住宅街になるため時間によっては人通りが少なくなるのだが、今日に限って何やら人の声がする。もうすぐ午後の十一時を回る頃合いであり、普段ならもの静かで不気味なくらいであるはずが一体どういうことだろうか。
 風祭と顔を見合わせて眉間にしわを寄せる。胸に広がるこの違和感はなんだろうか。なんとなく足早になって目の前の角を曲がろうとしたとき――

「やめっ……」

 切羽詰まった女性の声だった。これはただ事ではないと判断した藤村と風祭はすぐに声のする角の曲がった先へ向かった。
 目に飛び込んできたのは道端で男が女に馬乗りになっている光景だった。風祭より小柄な女はどこかで見たことある顔だと思えば、先ほど話題に上がっていたではないか。男から必死に逃れようと抵抗しているものの、力では敵わないのだろう。両手の自由を奪われ、口も塞がれて八方塞がりの状態だった。
 すぐに状況を把握した藤村は風祭とともに気づけば走り出していて、男を羽交い絞めにして彼女から引きはがしていた。突然のことに男は「なんだお前ら」とか「やめろ」とかいろいろぶつぶつ独り言でわめいていたが、風祭の「警察を呼んだ」という言葉に顔を真っ青にして(実際は暗がりでわからなかったが、まあ似たようなものだろう)その場を去っていった。

「ケッ……男の風上にも置けん奴やな」

 逃げ去る男の背中に吐き捨てて、藤村はくるりと振り返った先に横たわったまま動けないでいる彼女に駆け寄った。どう声をかけるべきか迷っていると、電話を終えた風祭が我先にと彼女に近寄って心配そうな顔を作り、いろいろ確認する。衣服が多少乱れているものの、どうやら最悪の事態にはなっていないようで安堵のため息を吐く。
 こういうとき、風祭は意外にもすぐに行動ができる人間であることを藤村は知っていた。肝が据わっているといえばいいのか、この小さな体は時折藤村よりも頼もしいのだ。
 遅れて藤村も彼女の傍まで行き、無事を確認する。風祭に支えられながら上体を起こした彼女は先ほどから何も言わずに茫然と一点を見つめているだけだった。

「ええっと、ちゃん……?」
「……っ」

 名前を呼ばれてハッとしたように我に返ると、彼女はこちらに視線を向けて笑顔を作ってみせた。それはカフェで見た気さくで明るい彼女とは到底かけ離れた――感情を一切押し殺した笑顔だった。
 無理やり笑わんでええのに。と、胸中では苛立ちを覚えつつこの場は彼女の見栄に合わせて「無事でよかったわ」と笑みを返した。

「シゲさんと将くんが来てくれて助かりました。ありがとうございます……」
「俺らもこの辺に住んどるで気にすんなや。ちゃん確か一人暮らしやったよな? ひとまず警察来るまでどこか移動しよか。カザ、支えてやり」
「もちろん。さん立てますか?」
「あ、ごめんなさい。ありがとう」

 いつもは風祭のことを小さいとかポチとか揶揄するが、こうしてスポーツをやらない女性と並ぶと彼が大きく見えるから不思議である。彼女も小さいわけではないが、どうしても体のつくりがスポーツをやっている人間のそれと異なるので華奢に見えてしまう。風祭に触れる指先が微かに震えているのは見間違いではない。
 近くに公園があったと風祭が言うのでひとまずそこに移動して警察を待つことにした。肩と腰を支えながらゆっくり歩く。街頭が一定の間隔であるとはいえ、やはり住宅街なだけあって夜は暗いし女性の一人歩きは危険だといえた。だが、今までも同じようにカフェでの仕事を終えて帰宅していたのだから今日は運悪くあのような暴漢に襲われたのだろう。しばらくは一人で帰らないほうがいいかもしれない。

ちゃん。明日はこいつおるけど、明後日以降は誰か来てくれそうな知り合いいてる? 姫さんが戻ってくるんは五日後やしなあ」
「そうだ。翼さんにも一応連絡――」
「いいです! 彼には言わなくて……」
「けど……」
「ほら、いま合宿中じゃないですか。こんなことで連絡したら迷惑ですよ」

 頑なに拒否する彼女を、これ以上追い詰めるのも野暮な気がして藤村は風祭に首を横に振ってやめるよう暗に伝えた。翼とは結構イイ感じに見えたのだが、違ったのだろうか。まあ今は詮索するより、彼女の不安を少しでも取り除くことが優先だ。彼とのことは一度置いておいて、藤村は警察の到着を待った。