縮まらない距離
五日間の合宿は毎年行われるチームの恒例行事みたいなもので、あえて冬の寒い時期を選び温泉地へ出向くのが選手たちからは好評らしい。日本人たるもの、温泉という言葉に惹かれてしまうのは仕方ない。その界隈じゃ結構有名な温泉地だというので、翼も先輩選手に穴場を聞いて練習後にあちこちをはしごした。
こうしてみっちりしごかれた合宿を終えて、久々にF体大へ指導に行ったのはそれからさらに三日後だった。彼女に会いに行くのも一週間以上ぶりということになる。
自身が指導に行く大学の近くにあるカフェ"ビブリオ"は、夏に見つけた大きな通り沿いにある本に囲まれたクラシックなカフェだった。毎日騒がしい連中とスポーツをやっている反動か、独りになったときはゆったりとした空間で食事をしたい思いがあって見つけた場所だった。しかし、指導を終えて帰る頃には毎回閉店時間を過ぎているため九月の半ばまで一度も入れたためしがなく、かといってほかの曜日に来ることは自身の所属するチームの練習と重なって余計に難しいという始末。気になるのに、暗くなった店の前を通り過ぎるだけのもどかしい日々が続いていた。
ところが、九月の第三金曜日になって運よく練習がいつもより早めに終わったことで、翼はようやく閉店間際の瞬間そこに居合わせることに成功した(閉店間際と言ってもほぼ閉店の時間だったのだが、店主の厚意で了承を得られた)。
店主の名は、二十二歳。翼と同い年であることが判明した彼女は、しかし当初の予定は都内の商社に勤務予定だったそうで、昨年急逝した伯母の店を引き継ぐことを決めた結果、現在カフェの店主に落ち着いているらしい。世話になった伯母への礼も兼ねて、彼女は慣れないカフェの経営をしているという。
の第一印象は、至って普通の――悪い言い方をすればどこにでもいそうな女性だった。本が好きで、スポーツには疎くて、けれど話せば結構食いつく。翼のような物言いがはっきりしている人間は苦手なのか、最初はおっかなびっくり話しかけてきたものの、最近は軽口が叩けるくらいには慣れてきたようで、カフェの外でも(メッセージでのやり取りではあるが)話すことが増えた。
クリスマス直前。F体大近辺もイルミネーションが点灯し、浮かれ気分で歩く若者たちの高揚する気持ちがわからなくもない。午後の十時を回った頃だが、金曜日ということもあって人通りが多いような気がする。
いつものごとく、クローズド看板がかかった"ビブリオ"の少しさびれた扉を押して中へ入る。カランコロンというあの特有の音が鳴って、客が来たことを知らせるとカウンターで料理していた彼女がこちらに視線を向けた。
「こんばんは翼さん。練習お疲れさまです」
いつも通りの挨拶だったが、最初の違和感は声のトーンが心なしか低い気がした。もともと感情の起伏が大きい彼女ではない。気にすることはないのかもしれない。そう思って、定位置のカウンター席に腰を下ろした翼は今日のメニューであるフレンチトーストを待つ。
数分して置かれた甘すぎず、かといって苦すぎないちょうどいい味のコーヒーをつけて出されたフレンチトーストは、メープルシロップが適度にかかった定番の味付けに、苺と生クリームが添えられていた。ここでいう生クリームは甘くないものだ。メープルシロップが甘い分、ちょうどいいバランスだった。
サッカーで疲れているとスタミナがつく料理を食べたくなるものだが、夜遅くまで練習ともなるとカロリーを気にしたくなるので軽食が多い。
そうして食事しながら合宿の話をしたり、彼女の近況を聞いたり、翼の中ではいつも通り接しているつもりだった。しかし、彼女のほうは視線がさまよいだり、意味もなく指先をいじりだしたりとどこか落ち着かない様子で応対していた。
だから何気なく、特に深い意味はこめずに聞いた。
「……なんか変わったことでもあった?」
「……変わったことって、たとえばなんでしょう。別にいつも通りですよ、ただちょっと寝不足なだけです」
少し間の空いた言い方が気になった。寝不足というのは本当だろう、入ってきたときは気づかなかったがよく見れば目の下にクマができている。無理やり作った笑顔も正直痛々しく見えて、何かあったことは間違いないはずなのに打ち明けてもらえない苛立ちが募る。
とはいえ、彼女と自分は知り合ってからまだ三か月ほどなのだということも痛感した。ここに通うようになってから日常の些細なこともやり取りする間柄になったといっても所詮は赤の他人。同性の友人なら別だろうが、翼には言いづらいこともあるのかもしれない。
結局「今日は早めに帰る」というとりとめのない返事をしてその場は切り上げた。マシンガントークと揶揄される得意の術も、相手がこれでは喋りようがなく沈黙のまま時間だけが過ぎていく。居たたまれない静寂が流れていき、いよいよ帰るべきかと翼が腰を上げたとき――尻ポケットに入っていた携帯が震えた。
――藤村……?
通知欄には顔なじみの名前が表示されていたので、気にせずアプリを開いて確認する。
"今日ちゃんとこ寄ってるって聞いた。帰り遅いやろ、彼女のこと家まで送ってくれへん?"
……なんでお前にそんなこと頼まれなきゃいけないんだ、と翼は忌々しげに携帯を睨みつけた。どうもしっくりこないが、思えば遅くまで仕事をして当たり前に一人で帰宅していたからあまり気にしてこなかった。彼女の自宅が割とここから近いほうだと聞いていたとはいえ、閉店時間を過ぎて奉仕させているのだから確かに自分が責任をもって送り届けるべきだろう。
「もう遅いから送ってく。手伝うから片付けしなよ」
「……」彼女の瞳が意表を突いたかのように見開かれる。
「なに。なんか変なこと言ってる?」
「ちがっ……いいのかなって思ったので」
「いいも何もこっちが無理やり閉店後に来てるんだし、そのくらいするって」
その言葉に納得したかどうかはわからないが、ほっとしたようにありがとうございますと告げて片付けを始めた彼女に翼もようやく笑顔を見せた。
しかし根本的なことは何一つ解決していない。彼女が話してくれないのなら仕方ない。不本意ながら事情を知っているであろう"彼"に聞くしかないだろう。
翼は食器を洗い始めた彼女の隣に立って指示を仰いだ。