だから、これからは遠慮しない

 あのあと彼女を送り届けた翼は、深夜過ぎもいいところに藤村へ電話をかけた。時間も時間だったが、なんとなく奴が出てくれるだろう確信があってかけたので向こうから聞こえる「もしもし」という声には驚かなかった。そしてなぜか藤村もこちらがかけてくることを予想していたような口ぶりで「よう」なんて言うものだから、やはり苛立ちを覚える。どうやら彼は何か事情を知っていそうだということもわかる。
 翼の家はここからターミナルである大きい駅に出てから乗り換えしなければならない。しかしもうこの時間で帰るのも億劫になってきたので、比較的近い藤村または将の家に泊まることにした翼は彼にその旨を伝えた。幸い、明日の練習は午後だ。

『は?! 急に泊まるっちゅうたかて――』
「黙ってたくせによく言うよ。お前に話せて俺には話せない内容なのか?」
『わーったわーった。鍵開けてとくで、呼び鈴鳴らさずに入ってきいや』

 焦る藤村を牽制しながら電話を終えると、翼はすぐに彼の家の方角へ向かった。以前何度か行ったことがあるので場所は覚えている。翼は彼女の家をちらりと振り返ると、名残惜しい気持ちを抑えながら再び前を向き歩き出した。


 手ぶらで行くのも微妙かと思い、コンビニによってとりあえず適当に缶チューハイとつまいを掻っ込みレジへ持っていく。時間の割にサラリーマン風の男性やパジャマ姿の若者など意外にもにぎわっていた。駅を離れるとスーパーやドラッグストアといった生活必需品を売る店がないため、このコンビニが唯一の砦のようである。
 コンビニを出て、二百メートルほど駅より奥側へ向かった先が藤村の家だった。口調からもわかる通り彼の実家は関西だが、現在所属するチームが関東であるため都内で一人暮らしをしている。昔は実家と――というより父親と仲違いしていた関係で放浪生活をしていたというからなかなかの強者である。
 日付も変わるかという頃合いのせいか、明かりが消えている部屋が多く、加えて一定の間隔の街頭も昔ながらのものであるため暗い印象を与える。翼も一人暮らしをしているが、ここより随分明るいしコンビニもスーパーも比較的近いので多少家賃が高くても住みやすさのほうが大事だ。
 自身の容姿が女に見えてしまうことで発生するトラブルは昔からのことだった。顔のつくりと身長も相まって女と間違われることが多々あり、そのたびに訂正してきた。現在身長は伸びたものの、それでも同世代の連中と比べると低い。顔も大人になったからといって劇的に変わるということはなく、多少の変化が見られるのみだ。
 そうした理由で護身術の心得もある翼は、体格を言い訳にしないサッカーを貫いている。どうしてもフィジカルな面でなめられやすいことからこれまでにも壁はいくつかあったが、そのたびに乗り越えてきた自負があり、今後も自信を持ってサッカーをするために体格差を理由にしないよう心がけている。
 静まり返った住宅街を歩くこと数分、昔ながらの木造建築アパート(二階建て)が見えてきた。ハイツ「ヒマワリ」という名前のアパートが藤村の現在住んでいる場所だ。敷地に入ってすぐ左にポストがあり、正面に見える階段をのぼって一番奥の二〇五号室が彼の根城だが、翼に言わせれば未だにここに住む理由がわからない。
 プロサッカー選手歴も五年目だし、彼はJ1チームに所属しているのだから年収はそれなりにあるはずだ。こんな――おんぼろアパートに住まなくたって彼ならもっと良いところに住めるというのに。「古臭い感じがええやんけ」というのだから物好きな奴である。
 古いだけに少しの物音も響いてしまいそうな気がして、翼はなるべく足音を殺して二〇五まで向かった。手書きの「藤村」という表札を念のために確認してから、そっと扉を開けた。
 ギギという鈍い音とともに開いた扉を、やっぱりそっと閉めて靴を脱ぐ。トイレ兼風呂場を横目に突っ切れば、丸い形のローテーブルに頬杖をつきながらテレビを見ている藤村がいた。テレビといっても録画したサッカー中継を基本流しっぱなしにしているのが常なので、特別意識して見ているわけではないことを知っている。

「意外と早かったやん」
「ほら、これやるよ」
「おお、リキュールベース! 夜中だしちょうどええな。今ポチがつまみ作ってんでもうちょい待って」

 ポチという単語に一瞬頭が混乱したが、すぐに将のことだと気づいて左側のキッチン――とも言えない狭さのほうを見れば気づいた彼が「翼さんお疲れ様です」と包丁を右手に何かを切っている最中だった。
 あのあとどうやら藤村は将に連絡を取ったようだ。近い距離にあるとはいえ、よくこんな時間に――って、俺が言えた義理じゃない。ともかく藤村の向かいに腰を下ろした翼は、買ってきた缶チューハイを開けて一息つく。妙に居心地が悪く感じるのは胸の内にあるこのモヤモヤとした気持ちのせいだろう。将の料理が終わるまで藤村も話す気がないようで、早速開けた缶を呷りながら画面を見ている。
 ほどなくして中皿を抱えた将がこちらにやってきた。見れば赤紫がかった山芋のような漬物が出てきた。梅か赤しそっぽい味付けのそれは胃に優しそうな香りがした。この時間帯に脂っこいものは受けつけなくなっている。早速一つ取り口に運んでみれば、梅肉の甘酸っぱさと長芋のさっぱりした素朴な味がよく合っていた。
 しばらく酒とつまみの味を楽しんだあと、意外にも将のほうから「あの……」と切り出してきた。
 いつもなら相手の出方を気にせずぐいぐい聞いてしまう翼もこの時ばかりは躊躇いのほうが大きく、切り出し方をずっとうかがっていた。
 そうして将が語り始めたのは、一週間と少し前の出来事だった。


*


 翼はF体大のある大きな通り沿いを歩いていた。今年のクリスマスイブは土曜日だからか、昼間から出歩いている人間が多い印象を受けた。
午後からの練習を終えて、七時過ぎ。これからが本番とでも言うように、辺り一帯が色めきだっている。街路樹に取り付けられた電飾が一層クリスマス感を醸し出していた。
道行く人々の幸せそうな表情とは逆に複雑で難しい顔を作って歩いている翼は、時計をちらちら確認しつつ閉店まで三時間もあることにため息をつく。時間をつぶそうにもこの辺りは定食屋や飲み屋、コンビニといった小規模な店があるだけで、たとえばスポーツショップとか映画館とか翼が興味を持つような場所はないのである。かといって今店を訪ねてもほかの客がいるだろうから話をするのは難しい。
翼にしては珍しいが、あのあと将と藤村から話を聞いてすぐ、もう寝ているかもしれないというのに彼女にメッセージを送った。まるで脊髄反射のように無我夢中で打った気がする。

 "明日会って話したい"
 "随分とまたいきなりですね。お店が終わった後ならいいですよ"
 "サンキュ。じゃあおやすみ"
 "おやすみなさい"

 意外にも起きていたらしい彼女は翼がメッセージを送ってから一分と経たないうちに返信を送ってきた。どんな思いで打ったのか、翼には推し量ることもできない。だからこそ、踏み込みたい。彼女は隠したいのかもしれないけれど、翼はその心に触れたいと思っている。
 そうして複雑な心境を抱えたまま歩くこと十五分。結局、店の前についてしまったため突っ立っているわけにもいかず、扉を開けて中へ入ることにした。話はできなくても一人分くらいの空席はあるだろう。幸い、ここはブックカフェだ。読書をしながら閉店まで待つこともできる。
 "ビブリオ"の扉を開けると、開閉した音に反応した彼女がこちらに視線を寄こした。早すぎません?という表情が手に取るようにわかって翼は苦笑を漏らした。まあその通りなので返す言葉はないが。
 ちょうど奥のソファ席が空いていたので、翼はそこに腰かけてブレンドコーヒーを注文する。クリスマスイブだからか客の数は少ないように見えるが、よく考えてみれば土曜日に来るのは初めてなので普段の混み具合を知らない。
 数分後、彼女がコーヒーカップをテーブルに置く。そのまま戻るかと思いきや小声で「ちょっと翼さん、早すぎません?」と実際に口にした。

「練習終わってそのまま来たからね」
「はあ。こんな日にカフェに一人でいるなんて翼さんも暇ですねえ」
「その言葉そっくりそのまま返すね。あんたこそ今日くらい休業すればいいのに」
「なっ……私は好きでこの仕事してるからいいんですっ」
「あっそう。まあ適当に待つからそのつもりでよろしく」

 相変わらずだなあ。と、ほっとしたような笑みを浮かべながら仕事に戻っていく彼女の背中はどこか頼りなく、それでいて頑なに揺るがない壁に覆われているように見えた。


 久しぶりに読書に没頭していたせいか、彼女に声をかけられるまで午後九時を過ぎていたことに気づかなかった。短編集ではあるものの、一つひとつの構成がしっかりしているから読み応えがあり、普段「ミステリ」というジャンルは読まないがつい時間を忘れて読んでしまった。
 彼女に「残ってるのは翼さんだけですよ」と指摘されて初めて周りを見回した。いつの間に出ていったのか、確かに店内は自分ひとりだけが座って本を読んでいたらしい。ドアベルにも気づかず、随分と集中してしまったようだ。呆れながら言う彼女は、しかし「気持ちはわかりますけど」と付け足してカウンターに戻っていく。クローズ作業に入るようで、翼も本をもとの場所に戻しテーブルの上のカップを彼女が作業する流し台へ持っていった。

「ありがとうございます」
「……」
「……」

 お互い沈黙したまま、翼は勝手知ったる店であるように床の掃除を始めた。頼まれたわけではないのだが、閉店時間を過ぎて居座るのなら片づけは手伝うべきだと将がうるさいのでやるようになった。
 向かいで洗い物をする彼女の視線は食器に注がれている。カチャカチャという食器同士がぶつかる音と水音。そして店内を包むように流れるクラシック。この前と変わらない空間なのに、なぜか前より居心地が悪い気がしてどうも落ち着かない気分だった。
 話があると伝えてあるので、彼女は薄々察しているだろうにどうやら向こうから話す気は一切ないらしい。まあ期待はしていなかった。そもそも話す気があるなら、こんな先延ばしにする必要がない。もっと早くわかっていたはずだ。
 彼女がそう選択したのなら納得して受け入れてやるべきかもしれないが、あいにく翼はそれに応えるほどできた人間ではなかった。

「ねえ、俺に何か言うことあるんじゃない?」
「なんですか、藪から棒に……話があるって言ったのは翼さんじゃないですか」
「そっちが話すの躊躇ってるみたいだから機会を作ってやったんだろ」
「作ってやったって。そんなの別に頼んでません。翼さんに言うことなんか何もないです」

 ぴしゃりと言い放った彼女は一度顔を上げてこちらに視線を寄こしたが、またすぐに手元へ戻してしまった。ちょっと仲良くなれたと思ったらこの態度。まるで猫みたいである。
 じゃあなんであのとき安心したような、そんな表情をするんだ――翼は昨日の夜のことを思い出していた。送り届けると言ったとき、彼女はあからさまにほっとしたような顔をしたのだ。あれはどうみても緊張から解放されて肩の荷が下りたという表情だ。
 だから遠慮しないで畳みかける。

「俺が何も知らないとでも思ってる? だったらとんだ思い違いだね。言っておくけど、あいつらは関係ないよ。俺が無理やり聞き出したことだし。いつまでしらばっくれるつもり? 今日はちゃんと言うまで帰さないから」
「なんでっ、翼さんにそんな権限っ……別に放っておいてくれていいのに」
「なんでってわからない? 気になる奴が困ってたら助けたいって思うのはおかしいことか?」
「……っ」

 カウンター越しに近づいて彼女の目を見据える。身長差はあるものの、そこまで大きな差ではないから藤村や水野のような威厳は出せないが、少なくとも彼女にとっては効果的だった。動揺したのか手が止まっている。

「そ、そんなの、急に、言われても……わからないです……」
「ふうん。仲良くなれたって思ってたのは俺だけってことね。まあいいよ、これからは遠慮しないから」
「えっ、あ、ちょっと……」
「日曜日は確かいつもより早く閉める日だったよね。三時終わりだっけ。とりあえず迎えに来るから」
「……?」
「クリスマス暇なんだろ? 映画に付き合ってくんない?」

 首を傾げる彼女に翼はそう強く問いかけた。しかし、問いは問いでも「イエス」しか受けつけない強引な聞き方だった。鈍感な彼女にはこれくらいがちょうどいい。
 見る見るうちに頬を赤く染める彼女が面白くて、翼はやっと心のトゲが和らいでいくのを感じた。