鈍感なきみに告ぐ

 十二月も残すところあと四日となった二十八日。東京は朝から雪が降っていた。今シーズン一番強い寒気が日本の上空に流れ込んだらしく、あちこちで積雪が観測されているとニュースで言っていた。
 カフェ<ビブリオ>もほかのチェーン店と同様に年末年始は閉店する予定だと彼女から聞いた翼は、今も付き合いがある風祭将を連れて年内最終営業日にここを訪れていた。普段であれば中学時代の仲間であるマサキたちを誘っているところだが、事情を知っているという理由で彼についてきてもらった。もうこちらの気持ちにほぼ気づいているだろうから気にしても仕方ないとはいえ、一人で行っても警戒されるだけなのでそれならせめて複数で訪ねれば彼女も蔑ろにはしないだろうという下心である。
 最終日の<ビブリオ>は混み合っていて、翼たちが着いたお昼頃にはほぼ満席の状態だった。常連客がつくようになってから、老人たちの憩いの場であったり、大学が近いことから勉強する学生など客層はさまざまだというが、ブックカフェを名乗っているだけあって読書を楽しむ客が多いようだ。翼も以前、彼女を待ちながら暇つぶしに手に取った記憶がある。
 空いているカウンター席に将と並んで座る。出会ってからまだ三か月ほどだというのに、すでに常連客なみの図々しさで翼は"いつもの"と彼女に注文した。

「風祭くんはどうしますか」
「僕はホットココアで」
「かしこまりました」

 慎ましやかに彼女が軽い会釈をして作業に取りかかった。今年から伯母の店を継いだばかりだというが、修行の成果もあってか随分と様になっている。コーヒーのような嗜好品は味や香りにうるさい人間もいるし、場合によってはクレームにつながる。今のところそういったトラブルはないというから、彼女の努力のたまものだろう。
 今日こうして翼が〈ビブリオ〉を訪れた理由は、何もコーヒーを飲みに来たわけではない。あの日のリベンジを申し入れに来たのだ。

「翼さん、それで僕に用事っていうのは何ですか」

 カウンター席は落ち着かないのか、きょろきょろしながら小さい声で将が問いかけてきた。テーブル席はグループで会話が盛り上がっているところもあるが、カウンターは一人客がほとんどなので静かだ。別に喋ってはいけないルールはないのに、声のトーンは自然と小さくなる。

「用事? ああ、あれ嘘だから」
「え」
「正確に言えば用事があるのはこっちのほう」と言って、彼女に視線を投げる。"こっち"というのが自分のことを指していることに気づいた彼女が、作業していた手を止めて呆れた表情を作った。

「まさか私に会うために風祭くんを利用したんですか?」

 最初こそ他人行儀な態度だった彼女も、今ではすっかりこの口調だ。翼としては距離が縮まった証だと思っているが、何せ彼女は妙なところで鈍いのでクリスマスも散々な結果だったのだ。だから今日はあの日のやり直しを提案しに来たわけである。

「そんなわけないだろ。将とは午前中にフットサルしてきたんだよ」
「でも話したいことがあるって」
「細かいことはいいだろ別に」
「……翼さんってお友達にも横暴なんですか。相変わらずだなあ」

 この通り平気で辛辣なことも言えるようになった彼女は、けれどどこか楽しそうに会話に参加している。少しはこちらに心を開いてくれているのだと思ってもいいだろうか。
 話している間にコーヒーとココアが出来上がり、彼女が「どうぞ」と手渡してくれる。

「サンキュ。人聞きが悪いこと言うな、将が付き合ってくれるっていうから連れてきたんだ」

「だからそれが横暴じゃないですか。風祭くんだって用事があったかもしれないのに」
「いいんです。フットサルは楽しかったし、ちょうどお腹も空いていたので」間髪入れずに将が否定してくれる。
「あ、じゃあ今日のおすすめクラブサンドはどうですか?」
「いただきます、翼さんはどうしますか」
「俺も同じの頼むよ」
「了解です」

 クリスマスを過ぎると一気に年の瀬を感じるのはどうしてだろう。店内の飾りもついこの間までクリスマス一色だったのに、店の扉にはしめ飾りがかかっていた。ここに来るまでの景色もすっかり年末年始特有の寂しさと新年を迎えるための忙しなさに包まれていて、相変わらず不思議な国だ。
 翼も年が明ければ三月のシーズン開始に向けてチームが本格的に活動を始めて合宿が入ってくる。加えて代表戦が決まれば遠征も増えるだろう。ここに来られる頻度も少なくなる。その前にどうしても翼は彼女に言っておかなければならないことがあった。

「店は明日から休みだよね。実家に帰るの?」
「いいえ、そのまま家で年越しして三日まで一人で過ごします。二日は友人と初売り行きますけど」
「なら、三日は初詣に付き合ってくれない?」
「……え? まあ何も予定はないからいいですけど」
「決まりね。じゃあ午後三時に○○駅集合」

 翼はつらつらと場所と時間を指定し、彼女に付け入る隙を与えなかった。予定がないからいいと言っているので嫌がってはいないはずだ。本来ならクリスマスの日に誘った時点である程度予想してもいいだろうに、彼女の行動はそれを無視して、偶然会った将たちにも一緒に映画を観ようと誘った。
 恋愛に疎そうには思えなかったが、これまでにいた恋人は高校生のときの一度きりだというから意外だ。見た目が派手ではないといってもどこにでもいる健康的な若い女性だし、高校卒業と同時にサッカー選手になった翼と違って大学にも通っていたのだから出会いはあっただろう。にもかかわらずあの調子だ。もしかしたら、アプローチされていることに気づいていないという可能性もある。だからあんな目にあったりするのだ。
 翼が難しい顔で思案していると、不意にクスッと笑い声がカウンターの内側から聞こえた。その音を発した正体に視線を向けて仏頂面を作る。

「なに笑ってんだよ」
「いいえなんでも」

 作業の手はそのままに、今度は鼻歌をはじめたのでますます訳が分からず、訝しむように彼女を見た。機嫌の良い態度にそれ以上問いただすのも馬鹿らしくなって、翼はため息をつくと尻ポケットのスマホを取り出した。
 スケジュールアプリを開いて、一月三日の欄をタップする。そこに「初詣 午後三時 ○○駅」と入力した。とりあえず約束は取り付けたので、今度こそと翼は密かに胸の内で誓った。


*


 一月三日。世間一般的には正月休みの最終日であり、早いところでは明日から仕事はじめの人間もいる。そして正月三が日の最終日である今日は初詣客も多く、近くに大きい神社がある○○駅は周辺の住民だけでなく県外の人間も多く押し寄せる。翼たちが住んでいる場所からも少し離れたところにあるので、知り合いに会うということもほぼないだろう。
 改札を出て辺りを見回すと、目的の人物はすでに到着していたようで駅周辺案内看板の前でスマホをいじりながら待っていた。今日は一段と冷えるからか、たくさん着こんでいるらしく暖かそうなダッフルコートに赤いマフラーを巻いてしっかり冬装備である。

「悪い。もしかして結構待ってた?」

 小走りで近づいて翼は彼女に声をかけた。
 下を向いていた視線がスマホからこちらに移動し、チークとは別に寒さで頬が赤い気がして若干の申し訳なさが募る。

「いえ。なんとなく早く来てしまったので気にしないでください」
「ふうん……じゃ、とりあえず向かうか」

 彼女の理由は、はっきり言って理由になっていなかったが追求することでもないので軽く流して人々の流れに沿って翼たちも歩きはじめる。
 道中の会話はいたって普通に盛り上がった。年末年始は何していたかとか、共通の知り合いである風祭、水野、藤村の話も話題に上がり、彼女が興味深そうに聞いてくる。サッカーに関しての知識は皆無だが、こちらの話を聞こうとする健気な態度には正直心を掴まれる思いだ。
 年始のサッカーといえば、元日の天皇杯や高校サッカーが有名だが彼女は「駅伝しかわかりません」と申し訳なさそうにこぼしたので、無理に話を広げることはせずほかの話題をふる。
 逆にファッションや流行ものには詳しいらしく、昨日の初売りの話になると急に饒舌になってベラベラ話し出したので呆れつつも、彼女の表情を見るのは好きでたまに相槌を打ちながら黙って聞いていた。
 夢中で話している間に、神社の入口である鳥居が見えてくる。やはり人間みな考えることは同じで、三が日最終日というのは駆け込みで初詣に繰り出す人が多いらしい。境内の中は人がごった返していた。

「混んでますね」
「まあ、ある程度予想はしてたからね。午前中よりは少ないほうだよ」
「とりあえず最後尾はこっちみたいなので並びますか」

 彼女が最後尾という看板を持った巫女さんをさして向かっていく。翼もそれに続くと、二人で列に並んだ。列の長さから考えて、参拝できるまで三、四十分ってところだろう。

「甘酒飲める?」
「え」
「待ってる間、寒いだろ。買ってきてやるよ」と、翼は一旦列を抜け出して近くの屋台で売っている甘酒とついでに隣に店を構えていた焼き鳥を数本買って戻る。屋台の数は大きな神社だからか、数が多く人がばらけていたおかげであまり並ばずに買えた。

「ありがとうございます。えっと、いくらですか」

 受け取ってから、彼女が肩掛けのポシェットをあさる仕草をしたので制した。別に払ってほしいわけじゃないし、屋台に出ている商品の価格なんてたかが知れている。
 翼の態度に、彼女は渋々ポシェットの中に入れた手を抜いて「ありがとうございます」と素直に受け入れた。

「甘酒買ったから、食うものは甘くないほうがいいと思ってさ」
「そうですね、私もしょっぱいものが食べたいと思っていたのでちょうどいいです」

 ふう、とカップの熱を冷ましながら彼女が甘酒に口をつけた。そして小さな口が無防備に開いて、片方の手にある焼き鳥を一口かじる。まるで小動物みたいだった。カウンターでカフェの経営をしているときはあまり感じないのに、今日はやけに彼女が小さく見える。
 翼もあれから身長は伸びたが、周りの選手に比べたらやはり小柄だ。彼女と並べば大きいとはいっても、世間の男女カップルから見ると大差ない身長差である。まあ今さら気にすることはないのだが。こちらが気にしていなくても、周りの目というのはある。
 いつ本題に入ろうか考えていたが、迷っていても始まらない。考えている間にチャンスを逃す可能性もある。

「ねえ。俺がなんで今日誘ったかわかってるよね」
「……え?」
「この前のクリスマスは散々な目に合ったわけだし。まさか忘れたとか言わせない」
「別にそういうわけじゃ……」
「いま付き合ってる奴いないんでしょ?」
「いないですけど、随分ストレートに聞きますね」

 翼の言い方に彼女は鼻白んで視線を逸らした。恥ずかしがっているわけではなく、どうやら呆れているらしい。
 よく言うよ。クリスマスデートに誘ったのを、あんな仕打ちで返してきたくせに。嫌味かと思ったね。
 翼は胸中で悪態をついて、彼女と同じく呆れた顔を作ると、はあと重いため息をこぼした。

「ストレートに聞かないと伝わらなそうだからね。誰かさんには」
「ぐっ……」唇を尖らせて、むっとした表情になる。この嫌味は通じたようだ。
「とりあえずわかってるなら話は早い。俺と――」
「あー! あんなところにベビーカステラがっ……私ちょっと買ってきます」
「あ、おいっ……」

 翼の言葉を遮った挙句、逃げるという強硬手段に出た彼女は境内の奥の露店に向かって走っていった。甘酒と焼き鳥がまだ途中だというのに、ベビーカステラを追加するつもりか。馬鹿か。いや、もちろん口実だというのはわかっているが、あからさますぎて呆れることもできない。
 もはや悪手としか言いようがなかった。買いに行ったはいいものの、帰ってきて彼女はどう言い訳するつもりなのだろう。翼は遮られて若干の苛立ちが募りながらも、彼女をどう言い負かしてやろうかと躍起になるのだった。



 たかだかベビーカステラを買うのにどれだけ時間がかかっているのか、翼はなかなか戻ってこない彼女にますます苛立ちを覚えた。まさかあのまま帰ったわけではないだろうが、中途半端なことをされた手前、心の中が晴れないのは確かだ。
 意味もなく腕時計を見てイラついていた、その時だった。男の怒号が聞こえて翼は顔を上げる。周りの参拝客も一斉に騒がしいその場所へ視線を投げる。すると、その中央で男と対峙している若い女が見えたのだが、驚いたのは今まさに自分を悩ませる彼女本人だったことだ。
 後ろに小学生くらいの子どもを庇っているから、大方絡まれたあの子どもを助けてトラブルに巻き込まれたのだろう。正義感は強そうだが、それに見合う護身術がなければ意味のない行為だ。

「あんのバカっ……」

 翼は持っていた甘酒と焼き鳥を近くの縁に置いて、彼女がいるベビーカステラの露店まで急いだ。周りの大人たちは何をしているのだろう、それとも仲裁に入っても男が言うことを聞かないのだろうか。
 騒ぎの中心まで来ると、彼女と男が口論していた。どうやら子どもが男にぶつかって持っていた飲み物で男の服を汚してしまったようだ。それを怒鳴りつけたのか何なのか詳しい経緯はあとで聞くとして――

「おっさん、こいつに何か用?」翼は彼女と男の間に割って入り、声をかけた。
「あ?」
「翼さん!?」

 突然現れた翼に彼女だけでなく、男も目を丸くさせた。だが相手は翼を上から下までなめるように見てから鼻で笑うと、「嬢ちゃんの姉妹か? 似てねえな」と小馬鹿にした台詞でもって一蹴した。
 翼もあれから大人になったし、むやみやたらに相手へ突っかかるような真似はしない。理不尽なことでもない限り。そう、理不尽なことでもない限り、である。

「ふうん。言いたいことはそれだけか? 大の男が女・子ども相手に大声出して説教とかみっともないね。そもそもガキが謝ってんならそれでいいだろ、目くじら立てて怒るのは大人げない証拠だ。俺にはおっさん、あんたのほうがガキに見える」

 あと、人を見た目で判断する浅はかな思考回路もどうにかしなよ。馬鹿なの?
 久々に一息でこれだけの罵倒を浴びせた気がする。翼の性格上、思ったことははっきり言うのが常だ。相手に遠慮することはない。それで人間関係が崩れるなら、その人とはそれまでだというある意味、潔い関係を築いている。
 翼の言葉に彼女もまたぽかんとしていた。そういえば、彼女の前でもここまで言ったことはなかったと思う。唖然としたまま、けれど数秒後に我に返って翼のコートの袖をぐいっと引っ張ると、「なに煽るようなこと言ってるんですか」と小声で怒った。

「いいんだよ。こういう奴は大勢の前で一度恥をかかないとわからないんだから」
「んだとてめぇ! 言わせておけば好き勝手言いやがってっ……」

 男が翼の右腕を掴んで殴りかかろうとしてきたので、持ち前の身軽さで拳を回避し、逆に相手の腕をひねりあげる。そのあと、手のひらを自分の胸の方向に返して引き寄せ、左手を使って相手のひじの関節部を真下に極める。
 こうすると、どんな相手も痛みで屈みこんでしまう。護身術の一つであり、翼が持って生まれた容姿の関係で身につけたものだ。

「あ、お巡りさん、こっちです!」

 翼が応戦している間に誰かが警察を呼んできてくれたらしい。制服警官が駆け寄って、男の身柄を確保する。
 そのあとは流れるように事が進んでいった。
 駆けつけたもう一人の警官に経緯を聞かれて事情を説明し、子どもは迎えに来た親とともに帰っていった。母親が彼女に何度も頭を下げていたが、人の良い彼女は「気にしないでください」とあんな目にあったにもかかわらずどこか他人事のようだ。
 ようやく人心地ついたところで、彼女が安堵のため息を吐いた。

「あーびっくりした。あんなことってあるんですね」

 加えて呑気なこの発言である。

「……あのさあ。少しは自覚しなよ、あんた先月夜道で襲われたばっかだろ? 女なんだから男の前に出るんじゃなくて、助けを呼ぶとか周りの大人を頼るとか――」
「仕方ないじゃないですか、あの子が怯えてたから体が勝手に動いたんです。周りもお年寄りや女性客が多くて助けに入りづらかったんだと思いますよ」

 あくまで周りを庇うらしい。とんだお人好しで、呆れて物も言えない。なんだか怒るのも馬鹿らしくなった。きっと彼女はこういう性格なのだろう、翼が歯に衣着せぬ言い方をするのが常であるように。
 今後も妙な正義感で危ない橋を渡られるのは困る。翼は今この瞬間が彼女に伝えるべきときだと、自分の中の直感が言っていると感じた。

「わかった。じゃあ一つ提案がある」
「……?」
「お人好しなのは百歩譲っていいとしても、ああいう危ない場面を見過ごすことはできないわけ。あんたのことが好きだから」

 先ほど中断された告白の続きを突然再開した翼は、彼女の戸惑う表情を見ながら一切そらさずに言葉を続ける。

「だからさ、守らせてくれない?」
「えっと……」
「言っておくけど、クリスマスも初詣も出かける承諾しておいて断るなんてことないよね?」

 にっこりという効果音がつくほどの笑みを彼女に向けた。
 クリスマスの誘いを断らなかったのも今日のことも、彼女は翼を拒んでいるわけではないことはわかるので、後は押せばいいだけなのだ。きっとあと少しのことで彼女は頷いてくれる。
 日没に向かう西日が彼女の後ろに見える。逆光になっているが、その頬が赤く染まっていくのがわかって翼はほくそ笑んだ。
 参拝の列から二人して外れたことは、もうどうでもよくなっていた。