このままでいいはずだった

「そっちが浮気してたくせに、"お前は独りでも生きていけそうだよな"とかムカつくと思わない?」

 カウンターにグラスを置く音がドンっと響き、思わず隣の客がこちらに目を向けたので「そのくらいにしとけって」彼女の前に置かれたロックグラスを取り上げた。「あーちょっと何すんの」と舌足らずな喋り方で翼の手の中の物を取り返そうとするから強引に制してやった。
 すでに午後の十一時を回ったところである。都内のカクテルバーに呼び出された翼は幼なじみに付き合わされて二杯ほど飲んでいるが、その幼なじみである隣の女はもう五杯目だ。度数は高くないものの、特別酒に強いわけでもないくせに何してんだバカと罵るのを我慢して、仕方なく水の入ったコップを渡す。

「お前、もう少し加減して飲めよ。三十過ぎた女がだらしない」
「なっ……翼までそんな酷いこと言うんだ」
「あーもう面倒くさいな。泣くなって」

 しくしくとわざとらしく泣きはじめた彼女に、「だからやめとけって言っただろ」と苦言したがどうせ聞こえていないだろう。バーのマスターも苦笑いだ。
 なぜ呼び出されたのかというと、"恋人が浮気した挙句フラれたから"といういかにもな理由だった。スマホには「付き合って」しかメッセージが入っていなくて、翼は一瞬動揺したがすぐにいつものヤケ酒だと気づくと嘆息した。懲りない奴だ。
 幼なじみの彼女はよく言えば面倒見がよく、悪く言えば器用で何でもできてしまうせいで男からは逞しく映る。それが「独りでも生きていけそう」という発言に繋がるが、多少頼ればいいものをすべて自分でやってしまうから結局こうなる。
 要領がいいから仕事はできるし、家のことにも一切気を抜かない。男からすると、隙を見せてほしいのにそれがまったくない女なのだ。自分がいなくても大丈夫、と思われて当然である。手先は器用なくせに、そういう加減ができないところは不器用だから恋愛はこれまで上手くいったためしがない。

「もう一生結婚できない気がしてきた」

 カウンターに突っ伏して嘆く彼女に、翼はどんな言葉をかけてやるべきか迷う。結婚できないことないと言ってやりたいが、慰めたら慰めたで変に元気を取り戻してまた訳の分からない男を引っかけそうで困る。こんな性格でも見た目が綺麗系なので寄ってくる男は多いのだ。
 中学を卒業したあと、お互いの夢のために別々の高校へ進み、さらにそのあと翼はスペインへ渡り、彼女は翻訳家を目指すため大学へ進学した。いっときは疎遠になったものの、大人になってしばらくしてからとあるきっかけで再会し、こうして何かと会う機会が増えている。
 正直に言うなら、翼は彼女に好意を抱いていた。幼なじみとはいえ最初から好きだったわけではなく、不思議なことに再会してからなんとなく気になっていったという経緯があった。

「とりあえずタクシー呼んでやるからちゃんと帰りなよ」
「……うん」

 急にしおらしくなって返事したので、翼はほうっと小さくため息をついてからスマホでタクシーアプリを開いた。この調子じゃ支払いもまともにできそうにないので、仕方なしに翼も同乗することに決める。十分後には到着できるというから外で待っていたほうがいいだろう。カウンターに万札を置いて釣りはいらないと告げると、気怠そうにする彼女を支えてバーを出た。
 外気はアルコールのせいで火照った頬を冷ましてくれるのにちょうどいい冷たさで、翼は幼なじみとガードレールに腰を下ろす。ちらりと隣の様子を見ると、大人しくスマホでSNSをチェックしていた。酔っ払っているのは間違いないが、どうやら酷い酔い方ではないらしい。

「翼は次いつ試合なの?」
「……なに急に。応援に来てくれんの?」
「私がサッカーのことわかるわけないじゃん。画面越しに決まってるでしょバカ」

 突然、話しかけてきたと思えば試合の日程確認など少し期待したが、単純な興味本位だったようで相変わらずな態度だ。気軽に話せる間柄は、逆を言えば発展しない可能性もあるので難しい。
 彼女が翻訳家の夢を叶えたように、翼はサッカー選手として活躍している。高校卒業後はスペインのマラガCFと契約していたが、現在Jリーガーとして京都のチームに籍を置いていた。週末は試合場所によってあちこち遠征するので熱心なサポーターはついてくるし、彼女のようにサッカーのことをまったく知らなければわからないだろう。翼に対して「バカ」と言える女は、今も昔も隣の幼なじみだけだ。

「バカはお前だよ。特別な試合でもない限り、地上波でJリーグの試合は放送しないの」
「なんだ。つまんない」

 口を尖らせていじけた彼女の興味はすでにサッカーからそがれ、再びスマホへ戻っていた。
 そのままお互い無言で待つこと五分、タクシーが現れたので二人で乗り込み彼女の自宅の住所を告げる。今年に入ってすぐ引っ越しした彼女の家は、都内の喧騒から少し離れたところにある。かといって都心に出るのが不便というわけでもなく、駅からも近い彼女の家はそれなりの家賃だろうが、独身で順調にキャリアを積む彼女の懐はきっとそれなりに潤っているのだ。
 ふと、肩に重みを感じてハッとする。彼女がもたれかかっていた。うつらうつらしていた様子はあったが、こうもあっさり異性の前で寝顔を晒すとは警戒心の薄い女である。

「人の気も知らないでよく寝れるよな」

 小さく呟いて、翼は窓の外に視線を移した。高層ビルやマンションを次々に通り過ぎていく都会の夜景を眺めながらどうしたものかと考える。彼女と気が置けない仲であることは間違いないが、だからといってそれが恋愛に繋がる気配は今のところない。
 男女の友情はない。テレビや本の中じゃそういうことをよく耳にするが、小さい頃からの付き合いというのはなかなか殻を破るのが難しい。どこで意識に変化が生まれるのかわからないし、そもそも翼だって気になりだしたのは再会したあとなのだ。彼女が自分をただの"友人"として見ているなら、そのフィルターを変えるきっかけを作る必要がある。

「ちょっとお〜なんで勝手に変えるのつばさのバカっ……ん」

 寝ているかと思えば、突然しゃべりだしたのでぎょっとして彼女に目を向ける。むにゃむにゃと口を動かしているものの、目は閉じているのでやはり寝ているらしい。呆れた翼は嘆息した。

「寝言かよ。夢の俺にまでバカって何見てんだか」

 彼女の頭を優しく小突いて、翼はもう一度視線を窓に戻した。自分の顔とのんきに眠る彼女の頭皮が反射して映る。物理的な距離はこんなにも近いのに、思うようにいかないのがひどくもどかしい。そして近くにいる男を放っておきながら、堂々と知らない男の愚痴を呟く彼女が憎らしかった。けれど、それこそ燃えるというものだ。
 翼はひとり決意すると、隣の幼なじみに温かい目を向けて自分も目を閉じた。