意外な素顔

 翼と結婚して二年目の春。
 それまで居住地をスペインとしてきたのだが、仕事の関係でナマエだけが日本に戻ることになり、この春から都内のマンションの一室を借りて一人暮らしをすることになった。ありがたいことに実家から「ナマエの部屋はそのまま残してあるよ」という申し入れを受け入れようと思ったものの、翼と連絡を取り合うのは日本時間で言うと夜中もしくは朝方になるので丁重にお断りをした。
 こうして一人暮らしを始めてから一か月が経った頃、日本代表戦があるということで一時帰国をした翼がナマエの家に世話になることが決まったのはつい三日前のことである。唐突すぎて電話相手に文句を述べたが、結局言い負かされて黙るほかなかった(別に来るのが嫌なわけではなく、準備があるから早く教えてほしいというだけではあるけれど)。
 翼と出会った中学のときからこの関係性はずっと変わらない。口喧嘩をしても、決まって降伏するのはナマエである。彼お得意のマシンガントークに付き合うと、たいていこちらが疲れてしまい先に負けを認めるしかないのだ。無駄に語彙力が高いから嫌味な男だと思う。
 福島で代表合宿が始まる前々日。出発前にマサキ達も呼んで集まることになったため、翼と少し遠くの大きなスーパーに来ていた。向こうにいたときも料理はナマエが中心になって行っていたので、メニューを考えるのは得意ではあるものの、向こうと日本じゃ食材が違う。大学卒業と同時に渡西したナマエは、こっちで料理をするのはほぼ初めてに近い。
 そういうわけで、翼と手分けして料理をすることが決まり、二人で買い物中である。現在昼食の時間帯を過ぎたあたり。大型なだけあって客は結構入り乱れていた。カートを押しながら、あれもこれもと言った具合に突っこんでいくナマエより少し大きい彼に「ねえちょっと」と声をきつくして問いかける。

「つまみばっかり買いすぎじゃない? どれだけ飲むつもりなの」

 先ほどから翼がかごの中に入れているのは、スルメ・チー鱈・ビーフジャーキー・ポテトチップス・柿の種・貝柱……すべて酒のつまみだ。肝心の酒が一本も入っていないのも気になる。
 ナマエがじっと睨むと、翼は肩をすくめてみせた。

「酒はあいつらが持ってきてくれるから、こっちが用意するのは当然つまみだろ? あとはナマエが適当に作ってくれたらいいからさ」
「いいからさ、じゃないよ。現役選手ならもっと栄養になるもの食べなって」

 賢いくせに健康面に関して疎かにしようとするから困る。合宿中は専属の料理人がつくので心配いらないが、普段の翼はこちらが管理しないとすぐ体たらくになる。本当ならナマエもスペインに残って栄養面でも彼を支えるべきところを、仕事の関係でそれも叶わず同じチームの仲間やその奥さんに頼んできたわけだ。
 そもそも翼と付き合いはじめたのは中学三年の受験シーズン真っ只中だったのだが、結婚したのは二十五になる直前という長い交際期間を経てのことだ。おまけに高校が別だったこともあって、彼は高校でもプロ入りしてからも自分に恋人がいることをずっと隠していたのである。知っていたのは中学から付き合いのあるごく一部の仲間だけだ。
 ナマエも高校大学と翼に合わせて「彼氏はいない」で通してきた。隠している理由は聞いていないが、騒がれることを嫌うので単純に記者や周囲から根掘り葉掘り聞かれるのが迷惑なのかもしれない。プロになってからもそれは変わらず、たまにそういった質問をされると「そのうち」と毎回濁してきた彼がなぜ急に結婚を決意したのか。ナマエも気になるところではあった。

「もちろん、出された料理は全部食うよ」
「そうじゃなくて一緒に……まあいいや。私は精肉コーナーにいるから翼は調味料でここに書いてあるものを探してきてくれる?」
「わかった」

 翼がひょいとナマエの手からリストを奪って中央の調味料売り場へ向かっていく。その背中は細くて男性にしては華奢だ。あの頃よりだいぶ大きくなった彼だが、それでも周囲の選手に比べたら低い。身長を理由に”できない”と弱音を吐かない彼は、小柄という武器とその頭脳でもってフィールドを駆け抜けるディフェンスのブレインだ。口が達者なのでたまに相手をイラつかせることもあるが、海外では自分の意見をはっきり言う日本人は珍しいようで逆に「イイネ」と言われているのだとか。まあ言葉はオブラートに包んだほうがいいこともあるけれど。
 カートを押しながら精肉コーナーに移動し、ナマエは考える。無難に焼き肉がいいだろうか。スポーツ選手はかなりのカロリーを消費するので、翼だけでなくマサキたちもいるとなると2キロは平気で平らげる。あとは白米に野菜もいる。あとで翼にかぼちゃとピーマンを取りに行ってもらおう。
 大きなスーパーなだけあって肉の種類も豊富だった。カルビやモモ、ロースといった定番な部位はもちろん、イチボやカイノミなんてのもある。値段は張るが、旧友が集まるなら特別だ。ナマエは迷わず希少部位もカートに入れて、ナオキの「ナマエのくせに大盤振る舞いやな」とか感謝の欠片もない言葉を想像しかけたときだった。不意に誰かによって進路方向を遮断されて、ナマエの足は立ち止まる。

「へぇ。こんなスーパーにもモデルのミョウジナマエが来るんだな」

 興味深そうにじろじろ見られてナマエは居心地の悪さを感じた。フルネームで呼ばれることなど滅多にないが、ナマエがモデルもしていることを知っているとなると十中八九スポーツに詳しい人間だろう。見たところ、筋肉が程よくついていて普段からスポーツをしていそうな体型だ。ナマエとさほど変わらない二十代の男。
 ナマエは国内有数のスポーツ雑誌の編集者だ。サッカーや野球といった固定のスポーツではなく、あらゆるスポーツの情報を集めた月刊「スポーツニュース」の現役選手インタビュー欄を任されている。しばらく海外で活躍する日本人選手を追いかけていたのだが、今年は国内で活躍する選手のインタビューになるので日本に帰ってきたわけである。
 男の言う「モデル」とは二年前から手掛けているスポーツウェアのことだ。トレーニングやウォーキングなどで一般人でも使えるリーズナブルの商品を販売することになり、雑誌に掲載するためモデルが必要になった。当初は現役選手に依頼する予定だったが、予算の関係でできなくなり、編集部が打ち出した結論が社員を使うという強引な手だ。
 身長百六十二というモデルをするには大した身長ではないのだが、昔演劇をやっていた話をしたらなぜか「お前がやれ」という流れになり現在に至る。それからというもの、新しい商品が出るたびに女物はすべてナマエがモデルをする羽目になってしまい、編集者兼モデル(ただし自身の雑誌のみ)という不思議な肩書きを持っている。男がそれを知っているということは、少なくとも三か月前に出した商品を掲載していたときから愛読していることになる。別にモデルが本業ではないのに、なぜかこうして声をかけられることが増えた。
 ナマエは営業用スマイルで男に声をかける。

「こんにちは。スポーツに精通している方ですか?」
「あ? まあそうだな、アマチュアのスポーツクライミングをやってる」
「そうなんですね。雑誌の読者さんみたいで、ありがとうございます。では、私は買い物の途中なので」

 読者に対して礼を言うのは当然だが、あくまでナマエは編集者であり一般人だ。翼のように世界で活躍する現役ならまだしも、ただの雑誌編集者に熱を上げるのは酔狂というものである。しかし、そういう酔狂な人間もいるのだということをナマエは思い知る。

「待てよ」
「……っ」
「雑誌で見るよりずいぶん綺麗だな。どうだこのあと一緒にメシでも」
「あいにくこのあと友人たちと食事の予定です。今はその買い物途中なので遠慮させていただきます」

 掴まれた腕を不快に思われないようさりげなく振り払ったナマエは、男の前を強行突破しようとカートを押して進んだ。しかし、進路を塞ぐように男が前に立ちはだかる。思わずナマエの眉間にシワが寄った。プライベートで来ているのだからそっとしておいてほしいのにどうして伝わらないのだろう。
 再び腕を掴まれたナマエは男によって強引に引き寄せられた。周囲の人間も何事かとちらちら視線を送ってくるが、関わりたくないとでもいうようにナマエたちを避けて通り過ぎていく。

「ちょっと。人の女に何してんの?」

 ナマエと男の間に別の誰かの腕が割り込んできて、ようやく男の腕から解放されたナマエはその誰かによって庇われる形になった。もちろん調味料売り場から戻って来た翼である。
 どう見ても彼のほうが小さいのだが、男の腕をひねり上げたかと思うと持ち前の俊敏さで相手を翻弄し、すかさず距離をとって睨みつける。サッカー選手だと思って侮ることなかれ。彼は護身術を心得ている。

「クソッ……なんだおめェは――」
「だからこいつは俺の奥さんだって言ってんの。人妻ナンパする暇があったら、鏡見直してきなよ。まあ相手が怖がってることにも気づけないんじゃ難しいかもね」
「んだとっ……」
「いいの? こんな街中のスーパーで騒ぐと、不利なのはそっちなんじゃない?」

 翼の言葉で買い物客たちが次々と集まってこちらを見ていた。喧嘩だと思われていたのか、客の一人が店員を呼んできてくれたらしく駆けつけてくる。「大丈夫ですか? 何か問題でも?」おろおろしながらも、中年の男性店員が間に入って声をかけてくれる。
 チッと舌打ちをした男は「別に何でもねえよ」と乱暴に店員の手を振り払うと、鼻を鳴らして鮮魚売り場へ消えていった。店員も深追いしないほうがいいと判断したのか、ほうっと息を吐いてからナマエたちに向かって、

「大丈夫ですか?」
「あ、私たちは特に何ともありません。お騒がせしてすみませんでした」

 ぺこりと頭を下げて謝罪する。無事ならよかったですと店員が苦笑して仕事へ戻っていく。気になって見物していたまばらの客たちもぞろぞろと自身の買い物に戻っていき、残されたのは翼とナマエだけになった。気まずい空気の中、相手が口を開く前に弁解しておかないと長ったらしい説教を聞くのは勘弁してほしい。

「ごめん。まさかスーパーで声かけられるとは予想外だった」

 明らかに不機嫌そうな顔をする翼に、ナマエは言い訳をせず素直に謝った。本当ならこちらに非はないのだが、余計なことを言うとぐちぐち言われるのが目に見えているので控える。
 相変わらず渋面を作ったまま、目線だけじっとこっちに向けてくるので居心地が悪い。ああいう声をかけてくる人間はモデルをやり始めてからたびたびあるのだが、それでもスポーツ雑誌なんて一定層の読者だろうに物好きはいるものだなと思う。この二年間、休暇で帰国すると街中で「ミョウジさんですか」と言われ、なぜか別の雑誌モデルを紹介される始末。結婚前だったので、なるべく翼と外を歩くことはしなかったせいもあり、ナンパも数回経験がある。
 翼の反応を待つ間、ナマエは視線を自身の指先に向けた。
 一年と半年ほど前。翼が唐突に「結婚するか」と前置きもなくぽろっとこぼして、あれよあれよという間に婚姻届や式やらいろんなことが目まぐるしく過ぎていき、気づけば結婚二年目という年。左の薬指にあるこの指輪も式の前に二人で選んだもので、どうにか間に合わせることができた。そんなふうにしてバタバタと結婚の準備を進めてきたわけだが、そもそも彼は形にこだわりがなく、いわゆる事実婚のようなものでずっと過ごしてきたのにどういう風の吹き回しだったのだろうと今更ながら考える。

「指輪してる女に声かけてくるなんて、やっぱりモデルやめたら? お前じゃなくてもできる奴いるだろ」
 翼がようやく口を開いたのに、考えごとをしていたせいでいまいち話の流れをのみ込めなかった。
「……え、ごめん。話がよく見えないんだけど……」
「いい加減気づけよ。何のために結婚したと思ってるわけ? こっちは形なんてどうでもよかったけど、周囲の虫を追い払うにはこれが一番手っ取り早いと思ったのに結局この有様で気分悪いんだけど」

 くどくど文句がとめどなく溢れてくる言葉の中に、ナマエは首を傾げる。
 何のために結婚ってそんなの私が知りたいんだけど、と言い返そうとしてから口を噤んでもう一度翼の言葉を噛み砕く。形はどうでもよかったということは、やっぱり夫婦という括りにこだわりはないのだ。けれど、周囲の虫を追い払うというのは、つまり今のようなナマエに声をかけてくる相手に既婚者であることをわからせるため?
 そういえば結婚すると言い出したのはナマエがモデルをやり始めてから三か月くらい経った頃だったような――見る見るうちにナマエの表情が驚愕に変わっていく。

「えっ、えっっ……えええええ!?」
「うるさい。もういいよ、思ったよりナマエは察しが悪いってわかったから」
「いやいやわかるわけないって。そりゃあ急すぎるとは思ったけど、そんな虫よけなんてわかるわけないじゃん!」

 カートを奪って押していく翼を追いかけながら、ナマエはあーだこーだと抗議する。聞く耳を持たない彼は面倒くさそうに「だからもういいって」とナマエを押しやる。恋愛に淡泊なふりして、翼が実は自分にゾッコンだということを改めて思い知るのだった。