暗闇の中でゼロ距離

 地下水のにおいと嗅いだことのない複数の化学薬品が混ざったにおい。ニナはいくつもの枝分かれした細い路地を走っていた。時折上って、時折下る。高低差が激しいのは港町だからかもしれないが、段々畑が連なるこの美しい町のどこにあのような危ない物を製造している場所があるのか。
 革命軍が調査を開始して二日目、ようやく本丸と思われる工場らしき建物を見つけた直後、ちょっとした手違いによってニナは追われる羽目になった。
 一か月前。いつものようにサボを筆頭にして、コアラ、ハック、エリスの四人とともにニナも"東の海"に位置するベルン島へ向かうことになった。
 仲間からの報告によれば、そこで幻の薬草"ユキネツソウ"を使って一時的に強力な身体能力を手に入れられる薬を開発しているという。その道に詳しい薬剤師からは、この薬草自体、数十年前から存在し一度話題になったのだが、その効果と副作用から危険度Sランクに指定された種であり、以降一切の研究や開発を禁じられたのだそうだ。
 過去に服用して死者が出たと教えてくれた薬剤師は、その薬草には一定の時間筋肉増強効果を得られる代わりに体の至るところに負荷がかかり、場合によっては細胞を破壊し最終的には死に至ることもあると語った。
 製造元がベルン島の工場だと判明した段階で、ニナたち調査班が向かうことが決まり、昨日から島へ上陸していた。コアラ、エリスと共同で調査していたニナは港町にはおよそ似つかわしくない人型オブジェのある高い塀に囲まれた建物に目をつけて、サボたちに連絡を取った。それぞれ別行動していたサボとハックも合流することになり、それまで待機の予定だったのだが――

「ツイてないよね、ほんとっ……」

 下りた先が三方向に分かれていたので右端を選んだが、これが間違いだったことに気づいたのは進んだ先が民家のような個人の敷地になっているのを目にしてからだった。追手が近づいてくる足音を聞き、戻るに戻れなくなったニナはどこか一時的に隠れる場所がないか辺りを見回した。
 すると民家の斜めに使われていない空き家らしい場所を見つけた。とりあえずの隠れ蓑にはなるだろうと思い、ニナは持ち前のすばしっこさで体をくるりと反転させ、空き家に移動する。途中、「おいこっちのほうに逃げたぞ」「けど三つのうちどこに行ったのか……」「分かれて探せ」追ってくる敵の声が聞こえて、もしここが見つかってしまった場合を想像し、額の汗が頬を濡らした。
 戦闘を得意としないニナにとって、単独行動中に複数の敵と出くわすのは不利にほかならない。ある程度の訓練を積んでいるとはいえ、コアラたちに比べたらたかが知れている。だからこそサボには口酸っぱく「一人で行動するな」と言われていた。
 複数の足音が近くまで聞こえ、ニナは息をひそめた。一時をやり過ごすには好都合な場所であるが、見つかるまで時間の問題だろう。早急に次の手を打たなければ。
 空き家の中はソファと小さな洋箪笥、そしてテーブルが一つずつ置いてあるだけの寂れた空間だった。いくつか別の部屋に続いているようで、思ったより広く見える。使われなくなってからそれほど時間は経っていないように思えるが、かといって彼らがこの辺りを警戒しているので長居はやはりできない。
 ちらりと後方に目をやると、キッチンだと思われる場所に裏口のような扉があることがわかる。ある程度騒ぎがおさまったら、一度あの扉から出て様子を確かめてサボたちに連絡を取ろう。
 ひとまず体を休めるために、ソファに腰かけようとしたときだった。

「おい、ここ空き家だぞ! こっちに逃げた可能性がある」
「なら二手にわかれよう。お前たちはその空き家を、おれたちは向かい側を探る」
「オーケー」

 すぐ近くでそんな会話が聞こえてニナは呆然と入口のほうを見つめた。どうやらこの場所が空き家だと彼らも気づいたようである。思いのほか向こうの察知が早くて歯噛みする。三方向に分かれた道をこうもあっさり当たりをつけられるとは、仮にも潜入調査を得意とするチームに属する人間として少し――いやだいぶ傷つく。
 しかし悩んでいる暇はなかった。今なら裏口からこっそり出れば、敵と会わずに回避できる可能性がある。またしばらく走らなければならないと思うと憂鬱さは拭えないが、ここで捕まるよりは断然マシだ。考えるより早くニナは裏口へ向かった。

「わっ――」

 ところが、突然横から強い力で腕を引っ張られた直後に口を塞がれた。叫ぶ間もなく、ニナは狭くて暗い空間の中に押し込まれ、その原因を作ったと思われる人間に行く手を阻まれるように体を拘束される。突然のことにパニックになり慌てふためくニナに対し、その人は「静かに」と至って冷静な口調で囁いた。
 その声にびくりと体が反応したのは反射とでもいうべきか、日頃から従わなければならないと染みついた習性からくるもので、ニナは硬直したように身を硬くした。
 直後、家の中が慌ただしくなり、金属同士がぶつかる音や忙しない会話が聞こえる。「裏口をあけろ」「二階には誰もいません」「隠れられそうな場所はないのか」「物が少なすぎてそういった場所はなさそうです」彼らのやり取りを黙って聞きながら、ニナは暗闇の中であれと首を傾げた。
 隠れられそうな場所がないと彼らは判断したようだが、じゃあ今ニナがいるここは一体なんなのだろう。自分はどこに身を潜めているのか、不安を拭えないまま彼らが出ていくのをひたすら待った。何より、いくら暗くて何も見えないからといってこんな近距離でずっと密着していることのほうが耐えられそうにない。
 しかしそんなニナの思いとは裏腹に彼らはなかなかここを出ていかなかった。どういうわけか、仲間が戻ってくるのをここで待っているようだ。その様子にしびれを切らしたニナは、我慢できなくなって小声ですぐ後ろにいる彼に話しかけた。

「そ、総長」
「……」
「あの、」
「静かにしろって言っただろ」
「そんなこと言われても狭いし暗いし……あとちょっと息苦しいです」

 はあ、と呆れたような吐息を小さく漏らした上司のサボは、拘束を解いたかと思うとその場にしゃがみ込み、ニナにも座るよう促した。相変わらず暗くてよく見えないので、座る場所を手探りしているとサボの膝らしき部分にあたってしまい、「何してんだ」とやっぱりちょっと呆れ口調で彼が言った。
 いつもは身軽なはずが暗いせいでどんくさい動きを晒して恥ずかしくなり、すみませんと謝りつつ今度こそ腰を下ろしかけたのだが、
「少しの間だから我慢してくれ」
「あ、ちょっ……」
 腕を引っ張られた拍子にバランスを崩し、サボの懐に背中からすっぽり入り込むような形で座ることになってしまったニナはそれ以上動くことができず、騒ぐこともできない状況なので大人しくそこに収まることにした。とはいえ、この体勢はいくら上司とはいってもまるで――

「……ッ」
「ったく……あいつら全然出ていかねェな」

 壁の向こうにいるであろう敵に向かって恨めしげに呟いたサボは、こちらのことには一切触れずまるで気にしていない様子だった。
 今のニナはサボの足の間に縮こまるようにして座っている。かろうじて背中を預けないようにしてはいるものの、他人から見ればすごく恥ずかしい光景な気がして居たたまれない。幸いここには二人だけで誰にも見つかる心配はないし、暗いから互いの表情もわからないのが救いだ。サボを特別意識しているわけでもないのに、ニナの心臓はやけにうるさくて困っている。
 汗臭くないかとか、うなじにかかるサボの吐息がくすぐったいだとか。早く出て行け、と敵に念を送る一方で何も考えまいと無心でいることに努めた。
 そうしてどのくらい待っただろう。辺りが静かになり、そろそろ出てもいい頃合いかと判断したニナは一応小声で話しかけた。

「総長、もう出てもいいんじゃないですか」
「そうだな。声もしねェし、大丈夫だろ」

 その言葉を待ってましたと言わんばかりに、ニナはこの状況から一刻も早く逃れるべく細く差し込む光を頼りに抜け出した。数十分ぶりの光を浴びて目が眩んだが、もともと空き家だったので人工的な明るさではなく窓から入り込んだ薄日だけで済んだのはよかった。
 目元を隠しつつ、自分が今までどこにいたのかをやっと把握したニナはどうやらここがただの空き家ではなかったことを察する。キッチンに向かう途中にある二階へ続く階段の下には、隠し部屋と思われる小さな空間が奥に存在した。本来その場所は棚で隠されている――というか、棚があることで奥の空間の存在を気づかせない作りになっていた。棚のある部分を押すと横にスライドする仕組みらしい。よくある隠し部屋のそれである。
 しかし、どうしてサボがここにいたのかという謎が残っていた。確かに彼は一人で行動していたはずだが、偶然あの隠し部屋にいたというのはいささか不自然さを拭えず、まさかとは思うがニナは恐るおそる疑問をぶつけた。

「もしかして総長、ずっと私の後をつけてたなんてことない、ですよね……?」
「んなわけねェだろ。ここにいたのは本当に偶然だよ。この近辺一帯が地下で工場と繋がってるみたいだから詳しく調査してたんだ」

 そこに突然お前が現れたから、とサボは本当に驚いている様子だった。どうやらニナがあまりにも不甲斐ないから見張っていた、というわけではないらしい。さすがにそこまで見限られてはいなくて胸をなでおろす。
 潜入調査において一番致命的なのは相手に自分の存在が知られてしまうことだ。これまでそういったミスがまったくなかったといえば嘘になるが、仲間に多大な損害を与えるような結果になった覚えはない。いくら彼から頼りなく見えているといっても、仕事を任せてもらえないほど能力が劣っているとは思わなかった。
 とはいえ今回はその「相手」に見つかってしまった案件になるのだが、すでにコアラから連絡がいっているはずなので、サボが指摘する前にニナはすみませんと一言謝罪してから事情を打ち明けた。

「敵がいる位置を間違えたんです。見張りがいる場所といない場所を」
「ああ、その件ならエリスが謝ってたから気にするな。伝達ミスがあったんだろ? まあ自分でも確認してから向かうのが確実だけどな」
「はい」

 なるほど、コアラからの連絡が入ったときにエリスがそのまま報告を入れたのか。どうりで最初から彼の態度が穏やかなわけだ。
 女三人で行動していたニナだが、途中で二手にわかれて待機していた。エリスからニナがいる側に製造現場へ続く通路があると教えられ、言われるまま進んだ先で、工場で働くおそらく敵と判断できる人たちに出くわしたのだ。工場内の地図は頭の中に入れてあったからという驕りで地図を持ち歩いていなかったのもよくなかった。
 こうしてニナは潜入調査から一変、追われる身となったのである。

「さて、と。ひとまずハックと合流して、そのあと工場に向かうのが無難だろうな」

 服装の乱れを直していたサボが小型の電伝虫を取り出した。プルプルプルという独特の鳴き声のあとにハックの応答する声が聞こえ、サボと短いやり取りを交わしてすぐに切れる。電伝虫の向こう側でハックが何かを言いかけていた気がしたが、切られてしまったために確かめることは叶わなかった。

「多分ですけど、ハックさん最後なにか言ってませんでした?」
「ん?」
「あーそうやってすぐ切るのやめたほうがいいですよ! コアラちゃんも文句言ってました」
「そうか? まあなんとかなるだろ」

 少年のような笑みを向けられて言葉に詰まる。この笑顔に弱いニナは、結局言い返さずに反論の言葉をのみ込んだ。コアラやハックに申し訳ないと思いつつ、この人の自由人っぷりは今に始まったことではないので今更ではある。それに言ったところで彼はきっと直す気がない。総長という肩書きでありながら、こういう少し困った部分もある。あるのだが――

「人の声がすると戻ってみれば、さっき工場から逃げた女だな? そっちの男は仲間か」
 と、そこに先ほどの敵がニナたちの声を聞きつけて戻ってきたらしい。早々に見つかってしまい万事休す。
 しかしサボのほうはまったく意に介していない様子で、「おっと、もう気づかれちまったか」慌てるどころか不敵に笑ったかと思うと、突然ニナの手を掴んで裏口まで駆けだした。

ニナ、逃げるぞ」
「あっ、ちょっと総長!? そんな急にっ……」
「いいじゃねェか、たまにはこういうのも」
「たまにはって、総長は大体こんな感じじゃないですかッ!」
「スリルがあるだろ? スピード上げるからしっかりついてこいよ」

 こちらの意見に耳を傾ける気はないらしく、言葉通りサボは走るスピードをぐんぐん上げていく。ついていくのが精一杯だが、繋がれた手を一層強く握りしめた彼に合わせるようにしてニナも先ほどより少し強めに握り返した。
 スリルがあるなどと、彼はときどき子どもみたいなことを言うのに、前を走るその背中が誰よりも逞しくそして頼もしいのだとニナは知っている。スピードを上げつつ、けれどこちらの体力に合わせて若干足を緩めているのがわかり、追われている状況を忘れて心が弾んでしまいそうになるのを必死で隠しながら異郷の地を走るのだった。