ざらざらの心臓に触れる手つき

 その瞳は警戒心が強く、まるでこちらを敵視しているような強い意思を感じさせた。体中のあちこちが包帯で動き回るのもまだ早いだろうに、どういうわけか船医から「お前が面倒を見る係だ」と強引に任命された結果、少年は今アリーシャの前で仏頂面を作っている。
 照りつける太陽の下、本部へ帰還中のヴィント・グランマ号の甲板。世話係を引き受けた手前、部屋に放置するわけにもいかず連れてきたはいいものの、どうやらあまり信頼されていないようだ。やれやれ、とアリーシャは嘆息して少年を見据える。
 黒い帽子とゴーグル。服もここへ連れてこられたときのものみたいだが、少年は記憶喪失で自分のことさえわからないらしい。持ち物に「サボ」と書かれてあったので名前は間違いないだろうとのことだが。何でも記憶がないのに家には帰りたくないらしく、ここに身を置くことになったという。
 そういうわけで、面倒見がいいという安易な理由からアリーシャが選ばれてしまい、目が覚めてから船医の診察を終えて数時間しか経っていない彼と一緒にいる。

「今日から私がキミの師匠だ。よろしくサボくん」

 世話係でありながら戦闘における身のこなし方を教授する役目も担っているので、アリーシャは少年サボに向かって右手を差し出した。性別は女だが彼より六歳年上であり、これでも一応来年から革命軍の戦士として前線に立つことを許された身である。

「女に教わることなんかねェ。一人でトレーニングする」

 ところがサボは「女」のアリーシャには教わることなどないと豪語して甲板を離れようとするので、包帯が巻かれた痛々しい手をそっと掴んで引き止めた。

「へェ、そういうこと言うんだ。なら、試してみる?」



「くそッ……もう一回だ!」
「何度やっても同じだ。それにキミは病み上がりでしょ、今日はもう終わり。また明日」
「絶対だぞ!」
「あはは、わかったわかった」

 サボの悔しそうな顔が懐かしい誰かの顔と重なって見えて胸が痛んだ。しかしそれもすぐに消えて、アリーシャは誤魔化すように彼の手を握って医務室に戻る。怪我が落ち着くまではここで寝起きするよう船医から言われているので、しばらくアリーシャも自身の部屋と医務室を行ったり来たりすることになる。
 身の回りのことはもちろん体を動かす程度の特訓にも付き合うよう依頼されていた。本部に到着すれば魚人空手の達人ハックから指導を受けることになるが、着くまでにはまだ時間がかかる。その間、リハビリと称して彼の身体的な面も一任されたアリーシャは、しかし想像以上に喧嘩慣れしている動きに目を剥いた。
 何度やっても同じだ。そう言ったが、この分だといずれ革命軍でも一、二を争う実力者に成長するだろう。ドラゴンから聞いた話では、高町にいたからどこかの貴族ではないかということだったが、どう見てもやんちゃ坊主そのものだ。
 医務室に戻ると、船医は離席中のようで無人状態だった。サボの包帯を巻きなおしてもらおうと思ったのだが、待っている時間がもったいないのでアリーシャがやることにした。専門知識はなくても応急処置の経験はあるので包帯を巻く程度ならできる。

「サボ、こっちおいで。包帯を巻きなおそう」

 ベッドに入って読書をはじめようとしたサボを診察用の丸椅子に座らせて、アリーシャは棚から未使用の包帯を取り出した。
 正直なところ、彼はまだここにいる大人を完全に信用したわけではなく、アリーシャに対してもつっけんどんな態度で会話に応じている。質問しても「別に」とか「違う」とか短い答えばかりだ。記憶を失くす前、大人に対して相当不信感を抱くようなことがあったのかもしれない。体の傷は癒えても、心の傷というのは強く残るものだ。

「痛ェ……ッ」
「ごめん。痛かった?」

 右側の二の腕を巻きなおしている最中、サボの表情が苦痛に歪んだ。船医の話では、一番酷いのは左目の火傷だというが、そうでなくても小さな体に見受けられる包帯が施された箇所を見て胸が痛む。子どもをこんな酷い目に合わせるなんて惨いことをする。

「もう少し丁寧にやってくれよ」
「悪かったって。ほら、軟膏塗るからこっちに背中向けな」と、アリーシャはサボの体をくるりと反転させて小さな背中に薬を塗る。
「ぎゃーーー! いきなり触るな、くすぐってェだろっ……」
「文句が多いなキミは。少しくらい我慢しなさい」
「お、お前のやり方がヘタクソなだけだッ」
「口だけは一丁前だなあ」

 苦笑しながら、それでもアリーシャの手は止まらない。くすぐったいと逃げ腰の胴体を固定して、背中に軟膏を塗っていく。銃撃を受けたとのことだから手当はしっかりやっておかないと治るものも治らない。
 しばらくすると大人しくなった彼は、されるがままじっとその場を動かなかった。時折アリーシャの質問に対して受け答えをしながら、けれどやっぱり自分はまだ信用されていないのだろうなと思う。家に帰りたくないということは両親と確執があるのかもしれないし、原因はいろいろ考えられる。とはいえ時間はこれからたっぷりある。世話係に任命されたからには、この少年と上手く関係を築けるよう自分なりに努力したかった。

「よし終わった。もういいよ」

 すべての包帯を新しく巻きなおしたアリーシャは、サボの体を解放してそっと背中に触れた。ゆっくり振り返った彼がちょっと照れくさそうにしながらぼそぼそと呟いているので、あえて聞こえないふりをして「なに聞こえない」と口元に笑みを浮かべた。彼の信頼を得るにはまだ足りないが、してもらったことに対する恩はきちんと口にできる良い子らしい。
 こちらの返しに口をぱくぱくさせた彼は椅子から立ち上がり、ずんずんと不機嫌そうにベッドに戻ったかと思うと勢いよくブランケットを頭まで被ってしまった。もしや揶揄いすぎたか……?

「あ、ありがとう……ッ」

 しかし、くぐもった声がブランケットの下から聞こえた。恥ずかしいのか、顔を出す気はないらしい。サボのそんな姿に自然と頬が緩み和んだ。可愛い奴め。

「ふっ……どういたしまして。夕食になったら呼びに来るから、それまでしっかり休むこと。いい?」

 返事はなかったが、ブランケットが微かに揺れたのを確認できたのできっと頷いたのだろう。アリーシャは満足げに「よし」と独り言ちたあと、医務室をそっと後にした。