ふぞろいな脈拍を傷付けた

 ゆらゆらと揺らめくのは業火の町並み。燃え盛る炎の中に見える崩れていく家々、泣き叫ぶ子ども、子の名を必死に叫ぶ親。世界はどうしてこんなにも不条理で理不尽に満ちているのだろう。彼らが一体何をしたというのか。戦地に立つアリーシャは、そうやっていつも胸を痛めながら現実と戦っていた。
 一つ、またひとつ命が目の前で失われていくのを目の当たりにして、それでも助けられる者は全員この手で救い、あらゆる国で内戦や戦争を終わらせてきた革命軍の戦士の一人であるアリーシャは、そのときも戦地を走っている最中だった。
 激しい砲撃音とともに、人間が吹っ飛ぶ姿をこの目で――





「今回のことは非常に残念だった」

 総司令官の執務机の前に立ち、アリーシャは努めて冷静にドラゴンの言葉を聞いていた。約一年に及ぶ戦地での任務を終えて帰還した夕方、その足でここへ来て報告――と、”彼”に対する弔いの言葉。強面の総司令官も、この時ばかりは悲痛な面持ちでアリーシャを見ている。

「いえ、"彼"も本望だったことでしょう。抱えた子どもは一命をとりとめたそうです」
「そうか……」
「ボス。私はしばらく――」
「話は聞いている。お前が欠けるのは痛手だが、仕方あるまい」

 アリーシャの話を遮って、ドラゴンが続きを口にした。医者からすでに話が伝わっているようで、彼の表情はやはり優れない。前線を離れるのはアリーシャとしても断腸の思いであるが、こればかりは彼の言う通り仕方のないことだった。戦地で使い物にならなければ意味がないので、どのみち今のアリーシャは役立たずだ。
 十七歳で革命軍の戦士として戦場に立つようになってから十一年。初めてアリーシャは前線を退き、己の身体を休ませるためしばらく本部で生活を送ることが決まった。

「今はゆっくり休むことに専念してくれ。一年間の任務、よくやった」
「……はい、ありがとうございます」

 労いの言葉をかけてくれた上司に、アリーシャは敬礼してからゆっくり顔を上げた。結局、最初から最後まで彼は複雑な表情のまま変わることはなかった。
 失礼しますという立ち去る挨拶をして執務室を出ると、一目散に仲間が待つ食堂へ向かった。



 アリーシャが食堂に着いたときには、すでに無事に任務を完遂したことを労う慰労会が開かれていた。とはいえまったくの無傷というわけではなかった今回、革命軍側に一人の犠牲者を出してしまったことですべてを喜ぶことはできない。そういう空気を皆が感じているせいか、宴の席だというのに表情はどことなく暗かった。
 ならばせめて自分が明るく振る舞おうとアリーシャは空いている席に腰を下ろして木樽のジョッキに手をかける。

「みんなせっかく無事に帰って来れたんだ。もっと喜ぼう」

 静かに会話する仲間達に聞こえるよう大きな声で言ってから、ぐいっと中身を一気に呷って飲み干す。久しぶりに口にした酒の味は心底マズくて、胃が受けつけるのを拒否した。しかしここで戻すわけにもいかず、近くにあったコップの水で中和する。それでも胸やけしたときのようなヒリヒリとした焼ける感じは拭えなかったが、どうにか戻さずに済んでほっとした。
 犠牲者を出した事実は変わらないものの、結果として革命軍は戦争を終わらせ、市民を救ったのだから喜んでしかるべきだろう。何も全員が気に病む必要はない。アリーシャはそう思っている。
 アリーシャの言葉に、ずっと張りつめていた緊張がようやくほぐれていく。戦争を終え、帰還中の船内もどこか重苦しい空気が漂っていたのを感じていたアリーシャは、仲間の表情が少しずつ綻んでいくのを見てほっと胸を撫でおろした。
 アリーシャも目の前の食事に手をつけ始める。今日は朝にパン一個、昼にリンゴ一個。船医からたびたび「きちんと栄養を摂れ」と口酸っぱく言われて、けれどあれからおかしくなってしまったアリーシャの体は必要なものでさえ受けつけなくなった。人間は食わず飲まずだといずれ死んでしまう生き物だというのに。生命維持のために、だから仕方なく口へ運ぶ。瑞々しい野菜と果物をたっぷり使ったサラダは、少しだけアリーシャの食欲をそそった。

アリーシャさん、お疲れさまです」

 ひとり黙々と口を動かしていると、空いていた右隣に幹部のコアラが腰かけてきた。別の部隊で活躍する彼女だが、アリーシャとは彼女が来たばかりの頃に一時期世話係として関わりがあったことからすっかり姉妹のような関係である。
 わざわざ席を移動してやってきたコアラに、アリーシャは「ありがとう」と快く返事をした。

「近々ドレスローザに行くんだって? ドフラミンゴには気をつけるんだよ」
アリーシャさん、あの……」
「まあサボもいるし大丈夫だとは思うけど、用心するに越したことは――」
アリーシャさん!」

 コアラの声がアリーシャの声にかぶさって、思わず口を噤んだ。
 彼女の珍しい感情的な声に一時ぽかんとしたアリーシャは、しかしすぐに表情を崩して「そんなに声を荒げてどうしたの」と何てことないふうを装って尋ねた。

「無理して笑わないで。楽しくもないのに笑う必要ないですよ」

 この顔をアリーシャは知っている。ついさっきも上司の執務室で見たばかり。憐れみ、可哀想だという顔。一緒に悲しんでほしいわけじゃないのに、どうしたってここにいる人達は優しいから胸を痛めるのだろう。
 違う、違うよコアラ。無理してでも笑ってないと自分がダメになっちゃうから。こうでもしてないとね、いられないの。だから、笑え。
 自分に何度も言い聞かせた言葉を胸中で唱える。笑っていれば、そのうち本当に笑えるようになるはずだ。

「大丈夫だよ。もう二週間は経ってるんだもの……でも、ありがとうね」

 納得できないだろう台詞で返してから、取り分けられた一人分のサラダとパン一個を手にして立ち上がり、「疲れたから私は戻るね」と残して和気あいあいと楽しむテーブルを背にした。コアラの顔は一切見ることができなかった。
 楽しくないのに笑う必要はない。確かにその通りだろう。しかし今のアリーシャは、少しでも口角を上げて笑っていなければ何かの拍子にずるずると崩れ落ちてしまうのだ。心が、体が。だからこれは、負の感情にのみ込まれないための、言わば「おまじない」なのである。





『こちら××地区。至急、応援に来られたし』
 電伝虫の向こう側、轟音が鳴り響くのを耳にしながら町を駆けていく自分の姿が見える。その間もあちこちで銃撃や砲撃の音が聞こえ、逃げる一般人と応戦する仲間と、無慈悲に引き金を引き、誰かを傷つける者達の声が混ざり合う。
 ここは、戦場だ。
 悲痛な叫びが飛び交う過酷な現場だ。何度経験しても、きっと慣れることはない。
 それは××地区へたどり着いた直後のことだった。戦況が悪化した影響をもっとも受けているのが、"彼"が担当したこの地区であり、都市部なだけあって人口も多いことから女、子ども関係なく逃げ惑う人々が容赦なく撃ち殺されていく。そんな光景を前に仲間とともに駆けつけ、戦場の中に立つ"彼"に応戦に来たことを伝えようとしたときだった。
 目の前に、空から一つの砲撃。一瞬にして巻き上がる煙。吹き飛ぶ人の姿。悲鳴。血。子どもを抱えた"彼"。そして、呆然と立ち尽くす自分。
 徐々に霞んでいくこの国の空は、呆れるほど真っ青な――夏を予感させる空だった。



「はあ……はぁ……ッ」

 息が苦しい。呼吸が上手くできない。けれどこのままじゃもっと苦しい。胸を押さえながら上半身を起こして朧げな眼で辺りを見回す。時計の針は見えなかった。とにかく汗がひどい。服がへばりついていて気持ち悪い。着替えたいが、それさえも億劫だった。
 覚束ない足取りでアリーシャはひとまず食堂に向かうことにした。水を飲めば、少しは気持ちが落ち着くと思ったからだ。寝る前に薬を飲んだはずなのに、部屋を出る直前に時計を見たら就寝してから二時間しか経っていないことに絶望した。
 また魘されていたらしい。ここへ戻ったら少しは良くなると思ったのに、結局変わらなかった。日付が変わって三十分程度、夜明けが来るまで五時間弱もある。一度目が覚めてしまえば、再び眠りにつける自信などなかった。
 真っ暗で恐ろしいほど静かな廊下を、壁を伝って歩いていく。うっかり裸足のまま出てきてしまったせいで廊下のひんやりした温度を直に感じる。これほど余裕がないなんて情けないと自嘲的になった。
 ようやく食堂の入口が見え、アリーシャは足早にカウンターの横に設置された流し台へ向かった。

「ぅえ……けほっ……は、」

 縁に両手をついた途端、胃から何かがせり上がってくる感覚に襲われて吐き出してしまった。暗くてよく見えないのが幸いする。いくら自分の吐しゃ物でも気持ちのいいものではない。
 食欲がなくなって、眠れなくなって二週間。特に夜は怖かった。消してもけしても、あの日の映像が悪夢となって何度も再生される。どんなに疲れて眠りについても――

「ぅ……はぁ……」足に力が入らなくなって、そのまま流し台に顔を突っ伏す勢いでえずいていると、
「ゆっくり息を吐いて。さすってやるから安心していい」
「ッ……!」

 突然誰かが背中に触れてきてアリーシャの体が震えた。こんな状況でも頭の中は冴えわたり、顔は見えないが声だけで誰なのか判断できる。どうしてこんな時間にキミがいるの。

「さぼ……ッ、ぅあ」
「喋るな、余計に苦しくなるぞ」

 食堂に現れたのは、かつてアリーシャが世話係として面倒を見てきたサボだった。今ではすっかり体が成長してアリーシャを追い越し、予見した通り実力もつけて革命軍のナンバーツーにのぼり詰めた男である。
 帰還してから一度として顔を合わせていないはずの彼が、どうして自分がここにいることを知っているのだろう。気分が悪くなってたまたま食堂に来ただけなのに。偶然とは思えない時間帯だし、まさかこんな時間まで仕事をしていたわけではあるまい。とにかく彼には一刻も早くここから立ち去ってもらわなければ。

「やめ、て。来ないでっ……私なら大丈夫だから……」
「冗談言うなよ。これのどこが大丈夫――」
「見られたくないのッ……!」

 思わず大声で叫んだせいで咳込んだ。その拍子に、ついに足の力が抜けて膝をつく。苦しくて流し台に背中を預ける羽目になった。
 すでに実力の差は逆転してしまったが、サボがアリーシャの弟子であった事実は変わらない。大人を信用できなかった彼と、少しずつ築いてきた関係はアリーシャの宝物だ。こんな情けない姿を見られてもいいなんて思えるわけがなかった。しかも吐いた姿など、いくら元弟子とはいえ異性に見られるのは女として抵抗があった。
 だから早くいなくなってほしいのに、どうして言うことを聞いてくれないのか。

アリーシャさんがなんて言おうと関係ねェよ。おれはここを離れない」
「……ッ」

 聞き分けの悪い子どものような発言に、アリーシャは眩暈がした。しかし、再び襲ってくる吐き気によってもはや気にする余裕などなく、情けなくも縋るようにサボのシャツを掴みながら立ち上がり再び流し台に顔を突っ伏した。