紛れもない夜の結び目で逃避行

 彼女はサボの世話係として常に自分の隣にいた大人だった。といっても、六歳年上なだけで完全な大人というわけではなかったが、当時十歳で革命軍に残る選択をした自分にとって最初に心を開いた相手である。
 記憶を失くし、右も左もわからなかったサボは「師匠だ」と言って目の前に現れた彼女を当初快く思っていなかった。自分のことさえわからないというのに、いきなりここにいる人間を信用して身を預けるなんて無理な話だ。しかし、いざ手合わせをしてみると「女」という性別と華奢な体型からは想像もできない実力の持ち主で当時は何度挑んでも勝てず、繰り返していくうちに気づけばサボは彼女に対して信用に足る女性という認識に改めていた。
 六歳年上というのは大人になってみるとそれほど感じない差であるが、子どもだった自分にはなかなか大きい壁であり、いつも先を行く彼女が羨ましかった。
 初めて彼女が戦地に赴くことが決まった十七歳のとき、サボはまだ十一歳を迎える前で、駄々をこねる子どものように「おれも行く」と言って周囲の大人を困らせた。今思えば非常に恥ずかしいことをしたと猛省するが、信頼する人が危ない土地へ行くことに対して子どもなりに助けになろうとしたのだと思う。どういうわけか喧嘩には慣れていたし、同世代の中じゃ一番だと彼女が褒めてくれたこともあって傲慢にも力になれると思っていたのだ。当然彼女は「バカ言うな」と自分を叱り、置いていったのだが。
 しばらく離れていても、数週間経てばまた師匠と弟子に戻るという日々。近しい女性は、三年後に入隊してきた年齢の近いコアラをのぞけば彼女ただ一人(イワンコフとも接点は多いが特殊なので除外)。いつどんなときでも「サボ」と明るく接してくれる彼女に恋慕の情を抱くのは至極当然の流れだった。
 そうして想いを隠しながら師匠と弟子という関係を続けて七年。様々な鍛錬を積んで武装色の覇気を使えるようになり、戦地でも相応の活躍ができるまでに成長した。しばらくなかった彼女との手合わせも、七年目にして初めて自分が勝った。
 "もう私は必要ないね、ちょっと寂しいなあ"
 そうこぼす彼女にサボも少し胸を痛めたが、これで堂々と戦場で彼女を助けることができる。ようやく想いを告げられる、そう思っていたのに――現実はそう甘くなかった。
 "サボ、紹介したい人がいる。私の恋人だ"
 それまで色恋の話が一切なかった彼女が照れくさそうに隣に立つ男を紹介するものだから、サボは呆然と二人を見つめたまましばらく言葉を返せなかった。おめでとうと言ったような気もするし、アリーシャさんにもようやく春が来たのかと憎まれ口を叩いた気もする。
 彼女に恋焦がれて五年。想いを告げることなく、胸にしまうことになった。





 夜も更けた本部内の廊下は恐ろしいほど静かで自身の呼吸音がよく聞こえる。季節的に言えば夏直前。寒さは一切感じないが、どことなく寂しさを覚える暗闇の中にサボは独りぽつんと佇んでいた。本来であれば就寝している時間であり、とっくに夢の中である。それがどうしてこんなところで立ち尽くしているのかというと――
 そのとき、複数ある扉のうちの一つが開いて誰かが出てきた。目を凝らして出てきた人物が予想通りであることを確認したサボは、そのまま気づかれないようにそっと後ろをついていく。ふらふらとまるで酔っているような足取りで歩く姿を見てぎゅっと唇を噛みしめる。今すぐ支えてやりたかったが、そんなことをすれば拒否されるに決まっているのでその衝動をぐっと堪えて歩く。
 その人物が向かった先は食堂だった。数秒遅れてサボが中を覗くと、カウンター横にある流し台に両手をついてえずいている後ろ姿が見えた。苦しそうに何度も吐いている。
 サボの聞いた話では、毎晩吐き気や体の震えが悪夢に魘されたあとに起こるという。ドラゴンが船医と通信しているところに偶然居合わせたサボは、しかし本人に対して知らないふりをすることを求められなかった。恋人を目の前で亡くしたトラウマを抱えて帰ってくる彼女を、元弟子の自分が気にしないでいられるわけがないと思ったのかもしれない。
 さらに詳しく聞いたら、一年間の過酷な任務を終えてから帰還する今日まで薬は処方されているものの、症状は一向に良くならないらしい。ならば本部へ戻ったら改善されるのか。わずかな希望はあっけなく打ち砕かれて、ああやって苦しんでいる。
 その任務にサボは従事していないので、当たり前だが今の光景は初めて見ていた。かつて師匠と呼び、その関係を卒業するとともに名前で呼ぶようになり、一度捨てかけた恋情を密かに抱き続け慕う彼女の痛ましい姿に、いよいよじっとしていられなくなったサボは走って駆け寄った。

「ゆっくり息を吐いて。さすってやるから安心していい」

 背中をさすってやりながら、なるべく落ち着いた声色で彼女に話しかける。びくっと震えた体は、けれどサボを拒否することはなく受け入れてくれた。暗くて顔が見えていないのかもしれない。
 ところが、彼女の口から小さく「サボ」と名前を紡がれて今度はこっちが驚く番だった。一年ぶりに会うというのに声だけで判断したらしい。小さなことで嬉しくなるのも束の間、彼女がけほっと咳込んだのを見て、

「喋るな、余計に苦しくなるぞ」

 サボは彼女を制した。
 しかし、やはり来てほしくなかったのか自分の手から離れていこうとする。気分が悪いくせに、こういうときは機敏に動くのだから呆れる。そこまで見られたくないのか。

「やめ、て。来ないでっ……私なら大丈夫だから……」
「冗談言うなよ。これのどこが大丈夫――」
「見られたくないのッ……!」

 自分の言葉は彼女の悲痛な叫びによって遮られた。感情的になることが少ない彼女が珍しく必死に訴えている。譲れないものがあるのだろうがこっちも引く気はなかった。何のために廊下で待機していたと思ってるんだ――というのはサボの身勝手な理由なので口にしない。彼女に頼まれたわけではなく、自分がしたくてやっているのだから。

アリーシャさんがなんて言おうと関係ねェよ。おれはここを離れない」

 そう口にした直後、流し台に背中を預けて座り込んでいた彼女が突然「うっ……」と口元を押さえたので吐き気が襲ってきたのだと悟る。こちらが彼女の体を支えるより早く、彼女自らサボのシャツを掴んで立ち上がった。

「けほっ……は、ぁ……ッ」

 流し台に吐き出されたものは暗くて何も見えない。蛇口をひねり、水で流してしまえば跡形もなく消えていく。背中をさすりながら、苦しそうにする愛おしい身体をサボは悲痛な思いで見守った。



 汗でべたついた彼女の寝間着を、"電気を消した状態であること"を理由に取りかえたのは数分前のことだ。夏が近いといっても汗が冷えれば風邪を引く可能性もあるので、寝るから出ていけと追い払う彼女を強制的に着替えさせた。
 吐き気が治まった彼女を部屋まで支えながら連れてきたあとのことだ。
 見るな、見たら縁を切る。と、子どもみたいなことを言いだした彼女に苦笑しながら「見てない」と繰り返しながら手伝ってやると、今度は大人しくされるがままになり、こんな状況だというのに可愛い人だと思ってしまった。
 こうしてようやくベッドに横になった彼女を近くにあった椅子を引き寄せて座り見守る。暗がりで細かい表情までは読み取れないが、不機嫌なオーラはひしひしと感じる。

「いつまでここにいるの。私は早く出ていけって言った」
「眠れねェんだろ? 寝るまで手ェ握っててやる」
「……サボがいたって一緒なの」
「やってみなきゃわからねェよ。勝手に決めるな」

 自分も戦地へ立つようになってからすっかり彼女に対して軽口も叩けるくらいに変化した。もともと「師匠」と「弟子」でありながら厳しい上下関係はなかったが、彼女の口調も「少年サボ」に対するそれとは異なる。
 渋る彼女の額を押さえつけて「早く目を閉じろ」と寝るように言う。午前一時半、寝不足が続いているのなら体は相当疲れているはずだ。精神的にも疲弊しているなら尚更。
 部屋を出ていく気配がない自分を、彼女は「はあ……」深いため息で諦めてから「好きにして」と不貞寝するみたいにブランケットをかぶり壁のほうに向いた。これではどちらが年上かわからない。サボは少しだけ口元を緩めて笑った。
 宣言通り、彼女の手を握ったまま様子を見守っていると、やがて小さな寝息が聞こえはじめた。効果があるかはわからなかったが、少なからず自身の手が彼女を安心させる要素の一つになっていたらと願わずにはいられない。師匠と慕った彼女の手は、出会った頃の自分より大きかったのに今は手だけでなく何もかも自分のほうが大きくなってしまった。
 戦場に立つ身でありながら綺麗でかっこよくて凛としていて。彼女の背中を見ているうちに、憧憬と恋心の境目を飛び越えたのはいつだったか。
 懐かしさに浸っていると、静寂を破るように突然ドンという音がしてサボははっと顔を上げた。握っていないほうの彼女の手が壁にぶつかったようだ。

「……ッ、ぃやっ……撃たないで……ッ」
「……」

 寝息をたてはじめてから数分と経たないうちに、彼女はうわ言のように同じことを繰り返した。例の悪夢を見ているのだとすぐに気づく。せっかく着替えさせたというのに、これじゃあまた嫌な汗をかいてしまうのではないかと不安になった。
 船医たちが話していた通りだ。眠ったと思ったら魘される。これがほぼ毎日のように続いているというから、彼女の体を思うと胸が痛んだ。
 手を握っていてもダメなのなら……とサボは逡巡する。今からやろうとしていることは、恋人関係でもない女性に対してあまり褒められた行動じゃない。おまけにこっちは彼女に対して大いに下心を抱いている。まあこの状況で何かしようとは思わないが。
 こうして悩んでいる間も、彼女のうわ言は止まらない。意を決して、「ごめん」丸まって縮こまる背中に向けて一言告げてから、サボはベッドの中に潜り込んだ。そして、自分よりもはるかに華奢な体を安心させるように後ろから抱きしめる。

「大丈夫だアリーシャさん。おれがいる……ここにいるから」

 まじないの呪文を唱えるように、サボは魘されている彼女に向かって繰り返し囁いた。