ふたりのあいだに崩れゆく系譜

「今日は随分と穏やかな顔だな」

 朝の九時。医務室に入って早々、医者が開口一番に嬉しそうな顔でそう言った。さすがだ。こちらがまだ何も言っていないのに、表情だけで読み取るとは。
 昨晩、無様な姿を元弟子に晒したアリーシャはあのあと彼が何時まで部屋にいたのかを知らない。出ていってほしかったのに寝るまで手を握ってるなんて子ども扱いを受けて面白くなく、「好きにして」と素っ気ない態度をとってしまった。そして数分後、眠気に襲われたかと思うとやっぱり悪夢に魘された――というところまでは覚えていた。しかし、しばらくすると悪夢が消えたのかそのまま眠りについたらしい。次に意識が浮上したときには朝だったので間違いないだろう。
 ところが、部屋を見回してもサボの姿はなかった。「寝るまで」と言っていたから当然と言えば当然だが、じゃあ悪夢に魘されたあとどうやって眠ったのだろう。こんなに目覚めのいい朝は数週間ぶりだった。

「十時半に薬を飲んだあと、一回起きて食堂で吐いて……もう一度寝てもやっぱり悪夢を見て……でもそのあとぐっすり眠れたみたい」

 自分でもわからない。気づいたら朝だった。それがアリーシャの正直な答えだ。
 医者はアリーシャの言葉に目を丸くさせると、一度頷いてカルテにペンを走らせていく。戦地、船上でも世話になった彼は、アリーシャが見習いとして革命軍にいた頃からの長い付き合いだ。当初はなかった顎髭も、今じゃ貫禄みたいに見える。それまで大きな怪我も病気もしなかったアリーシャが、たった一つの出来事で体調を崩したことに最初は驚きを隠せなかったようで、「お前も人間で安心した」と訳の分からない慰めの言葉をもらった。こちらを元気づけようとあえて明るく振る舞ってくれたのだと思うが。

「とりあえずどうして眠れたのかわからねェんじゃ何とも言えないが薬はきちんと飲めよ」
「うん、わかってる。ありがとう」
「今日の予定は?」
「書類仕事を手伝うつもり」

 椅子から立ち上がって答えると、医者は眉をひそめてあからさまに嫌な顔をした。「療養しろって言っただろうが。微熱だって続いてるんだぞ」すかさず厳しい小言が飛んできたので、「何かしてないと逆に考えちゃうんだって」と言い訳をする。前線を離れるとは言っても、脳を働かせなければ嫌でも考えてしまう。あの日のことを。
 アリーシャは去り際振り返って手のひらを彼に向けた。

「大丈夫。無理はしないから」

 返事を待たずに出ようとしたが、医者がぼそっと「説得力がねェなァ」と囁くのを背中に聞いて、アリーシャは肩を竦めて苦笑いした。





 季節は夏を迎える直前だったが、北寄りに吹く風はどことなく冷たくて熱っぽい頬を気持ちよく撫でていく。午前中、共に仕事をしていたコアラから食事に誘われたもののやっぱり食欲がなくて断ってしまった。
 本部の屋上から見えるのは広大ででこぼことした白土の大地と晴れ渡った空。風に吹かれて舞い上がる砂がまるで白煙のように映る。
 五年前にサボの師匠を卒業してからというもの、こうしてバルティゴの大地をゆっくり眺める機会は減った。ハックが取り仕切る訓練を勝手に抜け出し、出会った当初の「一人でトレーニングする」という台詞を吐いて駆けている姿を何度も見かけたアリーシャはそのたびに注意をしつつ、結局彼の遊びに付き合って一緒にイワンコフに怒られた。
 それがすっかり革命軍の支柱となり得る存在に成長したのだから、時の流れは恐ろしい。あの日の少年の姿はもうどこにもない。アリーシャに対して「関係ない」とか「勝手に決めるな」などと言って自分の意見を押し通すまでになった。
 ふと、昨日のことが脳裏によみがえる。

「でもどこに二十八にもなって着替えを手伝ってもらう女がいるんだ……恥ずかしすぎて死ぬ」

 "彼"にだってそんなことしてもらったことないのに、六歳も下のしかも元弟子に着替えを手伝ってもらうなどどんな辱めより耐え難い。いくら気力と体力がなかったとしても、もう少し強く言い返せばよかったと今さらながら後悔した。
 はあ……。サボに会ったらどんな顔をすればいいのか。
 手すりにもたれて深い息を吐き出したとき、

『総長が欠伸なんて珍しい。寝不足ですか?』

 下のほうから若い男の声が耳に飛び込んできた。ほかの雑音に混じって聞こえる会話の中に、「総長」という単語がはっきり届く。この下はどこの部屋だったかと思考しているうちに、「ちょっとな。けど、おれがしたくてしたことだからいいんだ」と部下の質問に答えるサボの声まで聞こえてくる。その柔らかい声色に、アリーシャはひどく胸を打たれた。
 手すりから少し身を乗り出して声のする方向に体を向けると滑り出し窓が開いていることに気づいた。声はそこから聞こえるようで、未だに彼らの話し声がする。そうか、真下はサボの執務室だったか。ひとり納得してから体を戻して、再び視線をバルティゴの大地へ向ける。
 外気を吸い込んでいるうちに気分もいくらかましになってきた。昼食を抜いても午後の仕事はこなせるだろう。
くるりと踵を返したアリーシャは、"したくてしたことだからいい"なんて言う世話好きの元弟子にかける言葉を考えながら屋上を後にした。





 執務室に戻ってきたとき、机の上にここを出た一時間前にはなかった差し入れとコーヒーが置いてあることに気づいてサボは首を傾げた。用事があって上司のもとにいたのだが、コアラか部下の誰かが遅くまで残る自分にわざわざ持ってきてくれたのかもしれない。
 カップを手にするとさすがに冷めていたので、ここを訪ねてきたのは自分が退室してすぐのことだったのだろう。申し訳ないことをしたとコーヒーに口をつけたとき、

「あ……」

 小さく声が漏れ出たのは、条件反射のようなものだった。
 たった一口だけで、コーヒーにこだわりがあるとか何とか得意そうに話していた姿がまざまざと思い出される。聞いてもいないのに、産地や淹れ方まで子どもの自分に授業するみたいに語っていた。
 あれは十一歳になったばかりの頃だ。
 眠気との戦いだった座学を終えたサボが食堂できょろきょろしていると、奥のテーブルに座っていた師匠が手招きしてくれたので嬉々としてそこに向かい、真正面に座った。途端に、彼女の表情が気難しいものになる。

「サボ。また居眠りしてたんだって?」
 鼻先にびしっとスプーンを突き出されて肩をすくめた。
「……なんでそのこと、」
「なんでって、そりゃあイナズマに聞いたからだよ」
 イナズマ――中央できっかり二色に分かれた変な髪の奴が頭の中に浮かぶ。座学全般を教えてくれる先生だが厳しいことで有名で、サボ以外にもたびたび注意を受けている子がいるのを知っている。
 師匠に告げ口するなんて卑怯だと自身のことを棚に上げて唇を尖らせた。

「体を動かすことが好きなのはわかるが、座学もしっかり身につけておかなきゃダメだ。キミは賢いんだし、必ずそれも武器になる」
「わかってる。昨日夜更かししちゃっただけだ」
「夜更かしィ!? あれほど睡眠はしっかりとれって言ってるのに、このバカ弟子!」
「痛ってェ……なにすんだよッ!」
 思いっきり頬をつねられた。痛い。
「私の言いつけを守らないサボが悪い。まったく、目を離すとすぐ問題を起こすんだから」

 頬杖をつきながら呆れている割に、どこか楽しそうな口調だった。ホント、読めない人だな……。
 つねられた頬をさすっているサボを見てケラケラ笑いながら、師匠は右わきに置いてある土もののシンプルなカップを手に取って口をつけた。あれは確か、いつも彼女が休憩中に使っているお気に入りのマグカップ。中身は知らなかったが、これを飲んでいるときの彼女の表情はいつも柔らかい。

「……それ」
「ん? あーこれ? これはチャムワッカコーヒーって言ってね、西の海にしかない豆なんだ」

 標高が高いチャムワッカ地方で育てたもので、栽培が難しいから収穫量が少ない。だから貴重なコーヒー豆なんだ。でもフルーティーな香りとコーヒーの酸味が絶妙で、この独特な味が好き。料理人に頼んでわざわざ取り寄せてもらってるの。私、コーヒーにはこだわりがあってさ。
 聞いてもいない話を次から次へと楽しそうに語るものだから興味が湧いた。コーヒーという飲み物は知っているが飲んだことはない。自分のそうした思惑を読み取ったのか、彼女がにっこりと笑った。

「飲んでみたい?」
「……いいのか?」
「いいよ」

 易々とお気に入りのカップを突き出されて、一瞬躊躇ってから受け取る。得体の知れないこげ茶色の液体を前にやっぱりやめようかと思ったが、ここで引いたら負けた気がするのでおそるおそるカップに口をつけた。

「うぇ……マズッ……なんだこれ、変な味がする……」
「あはは。子どもにはまだ早かったか」

 豪快に笑った師匠が、サボの髪をくしゃくしゃとかき回した。自分だってまだ十七のくせに、彼女はサボのことをすぐ"子ども"扱いする。面白くなくてむっとしていると「怒るなよ」と頬をつつかれ、「チャムワッカはほかのコーヒーと違って独特な味だからね。けど、しばらくするとこれがクセになるんだよ。サボもあと数年すれば飲めるようになるさ」得意そうに言って、サボの手からカップを取り上げると残りを一気に飲み干してしまった。
 甘みと苦み。コーヒーの味がまだわからない自分にとって、貴重だと言われてもいまいちピンとこなかったあの頃。何度も挑戦しているうちにようやく味を楽しめるようになった――
 この独特なフルーツっぽい香りは間違いない。彼女が淹れたコーヒーだ。
 彼女がこの部屋に来たという証拠を見つけた途端、サボは執務室を飛び出していた。昨晩、散々突き放されたにもかかわらず会いに行ってどうするつもりだろう。自分でもわからなかった。しかし、こんな気遣いをされたら黙っていられるわけがない。
 階段を下りて兵士達が居住する棟へ移動し、そのまま東側へ向かって十数歩。彼女の部屋のドアノブに手をかけて一度動きを止める。
 本当に入っていいのか……? 一時間以上経ってる。もう寝てるだろ。明日にして執務室へ戻れ。いや、でも少し様子を見るだけなら。
 脳内で押し問答を繰り返してから結局――

アリーシャさん、ごめん」

 ノックしたと同時に、サボは部屋の中に足を踏み入れた。



 少し様子を見るだけという決意は、彼女の無防備な姿を見て簡単に崩れ落ちた。魔が差したようにベッドに腰かけて眠る彼女の頬に手を伸ばす。薬が効いているのだろう、表情は穏やかだった。
 指の外側でしばらく頬を撫でてから、そっと顎のラインをなぞる。革命軍の戦士としていくつもの戦場に立ってきた彼女だが寝顔にはあどけなさが残り、自分より六歳も年上だという事実を時々忘れそうになる。

「ん……」

 彼女が身じろぎしたので慌てて触れていた手を離した。小さな唸り声をあげたものの、再び規則的な寝息が聞こえたので安堵の息を吐く。
 昨晩、魘された彼女を抱きしめたまま朝の六時半――彼女が起床する三十分前きっかりに目が覚めたサボは、静かに寝息をたてる彼女からそっと離れて部屋を後にした。抱きしめている間、幸いにも彼女は魘されなかったし、大丈夫と判断した結果だ。彼女が目覚めるまで残ることも考えたが、あの様子からすると起きて状況を把握した瞬間発狂でもされたら困るので出ていくことを選んだ。
 昨日の今日で会いに行くつもりなんてなかったんだが……。

アリーシャさん。おれ、まだあなたのこと諦めきれねェんだ」

 寝ているのをいいことに、誰にも打ち明けたことがない想いを初めて口にした。言葉にしてみると、より一層気持ちが溢れ出して止まらない。再び彼女の頬に触れて、柔らかいその感触を噛みしめる。
 サボは、かつて師匠と呼んだ目の前の女性を愛している。想い続けてもう十年になるが、実は一度諦めかけたことがあった。

「告白する前にまさか恋人を紹介されて失恋しちまうとは予想外だったけど」

 呟いてから苦笑したサボは、当時のことを思い出して感傷に浸った。自分がまったくそういう対象じゃないと突きつけられた瞬間でもあって、あれはさすがの自分も傷ついた。彼女が幸せならそれでもいいかと気持ちが色褪せるのを待つことも考えたが――
 頬を滑っていた手を移動させて彼女の右手を取る。そこに自身の額にくっつけて、祈るようにぽつりとこぼす。

「好きだよアリーシャさん。あなたが誰を想っていようと関係ないし、この先もずっと変わらない」