いくつもの嘘から見つけた本当
あいつから「勘違いしないのか」と問われたとき、どう答えるのが正解だったのか。松田はいまだにわからなかった。気持ちは確かに彼女へ傾いているが、それを認めるにはまだ早いような気もして突き放すような言い方になった。去っていく寂しそうな背中を引きとめることができず、結局傷つけちまった。
そうして自身の不甲斐なさにイライラしたまま迎えた翌日。案の定、萩原たちの物言いたげな視線を鬱陶しく思いながらあいつがいつ食堂へ顔を出すか気にしていた。
気にしたところで声をかける余裕があるのか? そもそも昨日あんな言い方をしてあいつを傷つけたのに、話しかける権利が俺にはあるのか?
自身に問いかけている間に、あいつが同室の女と一緒に食堂へ入ってきたのがわかるとなぜか向こうもこっちを見ていたらしく、目が合ったことに驚いた松田は、とっさの判断で思わずそらしてしまった。自分の行動に自分が一番引いている。バカか、ここでそらしたら余計にあいつを――
松田はそれ以降、彼女を見ることができなかった。心の動揺を誤魔化すために無言で朝飯を口に詰め込み、隣でひしひしと感じるなんのつもりだという萩原の視線を無視した。
自分のせいで班の空気がピリピリしているのは肌で感じているが、上手くやり過ごす言葉は何も浮かばなくて結局無言を貫いた。四人があえて触れてこず、授業や課題の話で盛り上がってくれたので救われた思いもある。
その日は一日中モヤモヤとしていて、鬱屈した気分から浮上できなかった。加えて教官から叱られるわ、術科の剣道で班長に一本とられるわ、昼食のカレーは売り切れるわ、散々な一日だった。そうしたイライラを晴らすために体を動かそうと萩原を誘ってトレーニングルームに来たものの、あまり効果は得られず気づけば夕食時間になっていた。
今日という日の最大の不運と言えば、夕食で見たあの忌々しい光景だろう。
いつの間に接点ができたのか知らないが、あいつが降谷と仲良く飯を食って話し込んでいる姿を見た。知り合い同士がテーブルを囲んで話しているのは真っ当な光景だというのに、なぜか胸のあたりがざわざわと音を立て、平常心を保つのに必死だった。萩原から気を遣われて慰められ、松田は余計にイライラを募らせた。
たとえば、あいつの話し相手が自分の知り合いでなければ、こんなふうに焦燥感を抱くことはなかったかもしれない。そんな奴やめとけと、軽く言えたかもしれない。だが、現実は自分がなるべく敵に回したくないと思っている相手であり、負けたくないと思う相手でもあった。
よりにもよって、なんで零(ゼロ)と仲良く喋ってんだ。松田は理不尽にも彼女に怒りを覚えながら、けれど自分の知らない笑顔を見せる彼女に胸が軋んだ。
*
「朝から松田が不機嫌なんだよ。もしかして君が関係してるんじゃないかと思ってね、気になってたんだ」
降谷くんにそう言われたとき、どう答えようか迷った。
答えられる範囲で答えると言ったものの、告白まがいまでしたことはどうやら知らないらしいので、そのことを打ち明けるかどうか正直なところ悩んだ。松田くんを意識していることはきっともう知られているだろうけど、だからといって降谷くんとは同期といっても悩みを相談できるほど仲がいいという関係ではない。真面目な彼に私の恋愛相談なんかして、警察学校にいるのになに考えてるんだって言われるかもしれない――と、見失った言葉を探すように視線をさまよわせているとクスッと小さく笑う声が聞こえた。
「……ああ、ごめん。真剣に悩んでいるのは知ってるんだが、もう少し肩の力を抜いたらどうかと思ってね」
真剣に悩んでいることを知っているのに肩の力を抜けとは、降谷くんも随分と無理難題を言うんだなぁと苦笑した。でも今の言葉でちょっと気持ちが楽になった気がする。さっきまで課題に集中できないほど悩んでいたくせに、事情を知らない人からの無責任な「肩の力を抜け」という言葉はある意味、私の中の負の感情を吹っ飛ばしてくれた。
「降谷くん……今から話すことは誰にも言わないって約束してくれる?」
「ああ、もちろん。秘密は守るよ」
実直な降谷くんらしい言葉だった。
その言葉に背中を押されて、自習室に私たち以外誰もいないのをいいことに、昨日助けてもらったことや「俺を通せ」なんて言われて舞い上がって告白っぽい言葉を言ってしまったこと、まで赤裸々に話した。聞き上手なのか、不思議と降谷くんには何でも話せてしまい、結局夕食の時間ギリギリまで聞いてもらった。
「なるほど。松田の奴、恰好つけてそんなことを言ったのか」
すべてを聞き終えた降谷くんの第一声はそれだった。歯に衣着せぬ言い方が気心知れた仲という感じがして羨ましい。最初こそ殴り合いの喧嘩をしたと聞いたけれど、この前のスポーツ大会での息はぴったりだったし、今じゃすっかり五人で仲がいい。
それはそうと、松田くんが不機嫌な理由は私の話と直結するだろうか。私を避けるのは気まずいからだろうけど、その件で不機嫌になるのは正直腑に落ちない。ところが、降谷くんは事件の謎が解けた探偵のような顔をしていた。
「君も大変だったね。でも、これで不機嫌な理由はわかった。ああ見えて心に余裕がないみたいだな」
「……どういうこと?」
降谷くんの発言に首をかしげる。一人で勝手に納得しないでほしい。私の「勘違いしてくれないのか」という発言で松田くんを本当に怒らせてしまったのなら謝りたいし、軽い女だと嫌悪されたのならこの気持ちはどうにかして封印する。話せなくなるのは辛いけど彼のためだ。
「いや、僕の口から言うのはやめておくよ。ただ、これだけは言える」いったん言葉を区切ってから、降谷くんは片目を閉じて意味ありげに笑った。「松田は君を嫌いになったわけじゃない。そうだな……自身の感情に戸惑っているんじゃないか?」
まるで答えを知っているような自信に満ち溢れた言い方だった。自分の感情に戸惑っているというのはどう解釈したらいいんだろう。嫌っているわけではないと言うが、私の気持ちには応えられないのだからやっぱり距離をとられていると考えるべきだと思う。戸惑うくらいには、私の感情が松田くんを困らせているということなのだろう。
私があれこれ考えている間に、降谷くんの中ではもうこの話は終わりなのか、食堂へ行こうと席を立ったので慌てて自習道具をまとめて彼についていくことにした。一緒にいることが多い諸伏くんの存在を尋ねたら、彼もまた外出しているから食事は先にとっていいと言われたらしく、成り行きで降谷くんと夕食を共にすることになった。「なんでこの二人が一緒にいるんだ」という好奇の視線を浴びながらだったが、話に夢中になっていくうちに気にならなくなった。降谷くんって聞き上手な上に、話も上手いんだなぁと感心してしまうくらい、彼の話は興味深かった。
この瞬間だけは、だから松田くんのことを忘れて笑うことができたのだと思う。
*
降谷とあいつの姿は、あの食堂以来たびたび見かけるようになった。そこには彼女と同室だという女が一緒にいるときもあれば、諸伏が一緒にいるときもあって、必ずしも二人きりというわけではないにしろ、日に日に仲良くなっているように見えた。降谷の教え方が上手いのだろう、図書室や自習室で顔を突き合わせて課題をやっているらしい(萩原談)。
時計を修理して以来、会話をするようになったはずの松田は、気づけば一週間も彼女と口を聞いていなかった。姿を見かけないわけじゃない。廊下ですれ違うこともあれば、授業が同じになることもある。だが、わかりやすく向こうが避けるようになった。自分だって同じことをしてきたくせに、いざ彼女に避けられると傷ついている自分がいて笑える。あいつもこんな思いで過ごしてたんだろうか。そう考えたら、彼女にひどく悪いことをしたという罪悪感が今頃になって襲ってくる。同時に、降谷に対して信頼を寄せたような笑顔を見せるのかというどうしようもない嫉妬心まで生まれる始末。バカか俺は。むしゃくしゃして、髪を乱暴にまさぐった。
昼食後、ひと眠りしたくて談話室までだらだら歩いていたときだった。突然手前の資料室の扉が開いて誰かが飛び出してきたのでぎょっとして退いた。
「おっとすまない……って松田か。……相変わらず機嫌悪そうだな」
資料室から出てきたのは降谷だった。なんてタイミングの悪い遭遇だと、胸中で舌打ちする。
「……お前には関係ねーだろ」嘘だ。同じ班にずっと不機嫌な奴がいりゃ、迷惑に決まってる。だが、今の自分にそうした気遣いができる心の余裕は一ミリもなかった。
「関係あるだろう? 君が僕と彼女のことでイライラしているのは知ってるんだ」
「……」
だからどうした、とは言えなかった。事実を突きつけられて「そうだ」と認めるのは癪だし、こいつに嫉妬しているのを知られるのも癪だ。ここは冷静になれ。
「彼女はもの覚えが早くてね。教え甲斐があるよ」
「……」
「それに、頼ってもらえるというのは嬉しいものだな。話を真剣に聞いてくれるし、僕の教え方が上手いって褒めてもくれる。素直でいい子だ」
「あーそうかよ! 休憩時間まで仲良く勉強か? ご苦労なこった」
言い返せずにはいられず、内側に抱えていた鬱憤が爆発した。冷静になれと言い聞かせたのに、「素直」という言葉を聞いたらもう黙っていられなかった。
彼女が「素直すぎる」ことは自分が一番わかっている。誰かに言われなくても、それが彼女の長所であり、危うい面でもある。だが、今の自分にそれを言う資格がないのもわかっていた。松田は彼女を傷つけたのだ、そんな自分に彼女を語る資格などない。
それなのに――
こうして煽られるまで認められないとはつくづく自分も馬鹿だと胸中で嘲笑った。
降谷の横を通り過ぎ、松田はずかずかと大股で談話室に向かっていく。早く一人になりたかった。
俺はあいつが好きだ。