でもあの子には届かない

 重い足取りで改札を出たは、とぼとぼ歩きながら会社に向かっていた。ビルとビルの隙間から朝の光が差し込んでいる。六月のじめじめした空気ではなく、珍しくからっと晴れている朝だ。その清々しさとは反対に、入社して初めてかもしれない行きたくないというどんよりした気持ちを無理やり押し込めているわけだが。
 自分の言動を振り返って、改めてミスしたのだと思い知らされた。あのとき、サボやコアラが厳しい表情のまま口を出してこなかったのはそういうことだったのである。新人が何を口出ししてるんだと罵られたほうがよかったかもしれないが、ああやってきちんと指導してくれるのはサボの人柄が表れている。今まで怒られたことがないわけではないのに、妙に心が抉られたのは少なからずサボに対して好意を抱いているからなのだろう。
 は容姿に自信があった。学生の頃から恋人が途切れたことはないし、も言い寄ってくる男と無意味に付き合ったりして。本当に好きだったかと聞かれると即答ができない。別れるときも向こうからだったり、からだったり、はたまた自然消滅だったりする。そうして繰り返していくうちに、恋愛の仕方がわからなくなってしまったような気がした。きっと初めの頃はもっと素直に「好き」を示していたと思う。それが今となってはもう、容姿を完璧に身繕うことがすべてで、心の距離の縮め方など忘れてしまった。

 そんな矢先だった。
 就職して研修を終えたが出会った直属上司、サボ。はじめはただの「かっこいい」だけだったのに、いつしかその仕事ぶりや人柄に魅了されていた。第一印象はよかったと思うが、これまで出会ったどの異性とも違う、自分の見た目に言い方は悪いが騙されてくれない人だった。うまくかわされて、言わばのれんに腕押しな人であり、それはまるで難攻不落な要塞のように一筋縄ではいかない男なのである。
 オフィスビルが立ち並ぶ区域に突入して、スーツを着込んだサラリーマンが、オフィスカジュアルできりりとキメている女性が、たくさん歩いている。いつもと変わらない朝の風景にも紛れ込んでいるが、そこだけまとう空気はやはり重い。
 自動ドアをくぐってエレベーターに乗り込む。複数の会社がオフィスを構えるビルなので、ほかの企業の人も一緒に上昇していく。徐々に近づいているというのに、結局欠勤する勇気はなく来てしまった。そもそもたかがちょっと怒られたくらいで休むのも社会人として的にはナシなのだ。
 エレベーターが十二階で停止する。降りたのはだけで、すぐに扉が閉まりそのまま上へ昇っていくのを横目にフロアへ向かった。社員証をかざしてロックを解除する。就業時間の二十分前なこともあって、すでに社員がちらほらと座っていた。
 自身の席が近づくにつれて先輩たちがいるかどうかもわかってしまうのがつらい。当たり前なことだが、今のにそれを気にする余裕はなく、無意識に歩がゆっくりになっている。

「お、おはようございます」

 すでにデスクで何か作業しているサボを視界に入れて、はひとまず挨拶をした。声に気づいたサボはパソコンから視線をこちらに向けると「ん、おはよう」いつもと変わらない爽やかな口調で返ってくる。昨日のことは特に触れて来ず、再び視線はパソコンの液晶画面へ戻ってしまった。
 若干構えていたは肩透かしを食らったような気分で、すとんと自席に座った。別に叱られたいわけではないが、こうも普通だと昨日のことがまるで嘘だったかのような気になる。
 数分後に出社してきたコアラもそうだった。軽く挨拶するなり、「今日は朝から定例会だよ」なんていつもの優しいコアラ先輩である。
 二人とも昨日は昨日、今日は今日というような引きずらずしっかり切り換えるタイプらしい。ネチネチ言ってくる上司、というのはが学生時代に抱いていた勝手なイメージなので必ずしも全員が当てはまるわけではない。少なくともサボとコアラに至っては。
 にとっても気まずくならずに頭を切り換えて仕事に取りかかれる、そう思ってパソコンの電源をたちあげた。


*


 そうしていつもと変わらない日が終わろうとしていた。午後五時を過ぎて、定時まではあと三十分である。
 昨日の打合せ内容の議事録がメールで回ってきたのを確認すると、が提案した箇所は<保留>に訂正されている。
 朝の定例会がおわったあと、会議室を出ていこうとするを呼び止めたサボは「昨日は叱って悪かったな。懲りずに頑張れ」と励ましてきた。背の高い課長はちょうど顎あたりにくるの頭をくしゃっとひと撫でして。ともすればセクハラになりかねない案件なのだが、サボがやると全然そんなふうに感じないから不思議だ。まあ、が好意を抱いているということもあるのだが。
 ともかく気分が良くなったは一日の仕事をてきぱき進めていき、あとは毎日コアラに提出している日報を記入してメールすれば終わりとなったところで、信じがたい光景を目にした。
 課長に用があるのか、コアラがサボの席まで移動して話していた。それは別に問題ない。いつものことだし、ただの上司と部下のやり取りだ。しかし話がヒートアップしているのか何なのか、コアラがサボの頬をつねって何やら言い争っている。ただし、言い争っているという表現の仕方は半分正解で半分不正解だ。
 争っているという割にコアラの表情は比較的柔らかく、サボのほうもあまり反省している様子ではなかった。むしろ仲睦まじい雰囲気がうかがえてしまい、は胸の奥がぎゅっと締めつけられるのを感じた。この痛みはなんだろうか。
 その光景を直視できなかったは、手洗いに行くふりをして早足でフロアの外に出た。そのまま急いで洗面所のほうへ向かう。勢いよく扉を開けて、誰もいないのをいいことに大きなため息をこぼした。

「あーあ。あの二人ってやっぱり付き合ってるのかなあ」

 気持ちを落ち着かせようにも、先ほどの光景が頭から離れてくれない。サボが若くして課長の役職についているが、時折暴走しがちな彼をうまく調整するのがコアラなのだと知ってから、の心はずっと曇ったままだった。
 直接的な言葉を発したことはないにしろ、歓迎会で好意を示したのでサボはこちらの気持ちに気づいているはずなのだ。それはうまくかわされてしまったのだが、サボのほうも特別嫌がっているわけではなかったので、多少なりとも手応えを感じていたのだ。しかし、あの二人の距離感はどうみても……。
 悶々と考えてふと腕時計を見れば定時十分前になっていた。二十分も離席していたらさすがに怪しまれるだろう。そろそろ戻らないとな、とあまり戻りたくない億劫な気分で洗面所を出た。
 と、ドアを開けた瞬間目の前を通り過ぎる人影とぶつかりそうになる。驚くより早く、その影が課長であることに気づいて、反射的には声をかけていた。

「あ、あの!」

 気づいたサボがゆっくり振り返った。

「んー?」
「その……サボ課長は……」
「おれが、どうした?」

 表情は柔らかい。こんな顔を見せてくれるのに、彼は全然こちらに靡かない。それがひどくもどかしかった。

「コアラ先輩と、付き合ってるんですか……?」

 その言葉にきょとんとしたものの、すぐに笑いだした。面白くないのに。こっちは真剣に聞いているのに。どうもこの人はの反応を面白がっているところがある気がする。
 の心情を知ってか知らずか、今度はやたらと挑発的に口角を上げた。

「だったらどうする?」
「え!」
「諦めるのか?」
「あ……え!?」

 状況を整理しようと、の脳内は思考を司る回路が激しく運動をはじめる。
 コアラと付き合っているのかという質問に対して、サボは「イエス」でもなければ「ノー」でもなく、だったらどうするかという質問で返してきた。加えて諦めるのかとも聞いてきた。それはどういう意味なのだろう。やはりこちらの気持ちには気づいているようだし、でもだからといって拒否された記憶もないので、は日に日に想いを募らせているわけだが。
 口をぱくぱくさせるだけで何も返せないでいるに、サボは距離を詰めてくると右手の人差し指をこちらに向けて――

「頑張って落としてみろよ」
「……っ!」

 の額をとん、と優しく叩いた。