沈んでゆく都市国家

 "偉大なる航路"の途中に浮かぶ都市、レヴァンダール。かつてそこは美しい海に囲まれた水上都市であり、独自の文明を発展させてきた不思議な場所。文字、法律、天文学、工業、都市化。その特殊な地形を活かし、レヴァンダールの民は営みを続けてきたのである。
 ある旅人はレヴァンダールをこう語る。
 "自然が作り出したものとは思えない美しさ"
 数ある書物の中でレヴァンダールは希少生物や資源が豊富であると記されている通り、その独特な地形からほかの国では見ないような文化が次々に生まれたのだ。しかし、そんな美しい都市も数百年の時が経つとともに環境が変化し、海面上昇の影響を受けて徐々に水没していってしまった。
 ほとんどの建造物が沈み、その環境に耐えられぬ者たちが散らばり人口は減る。それでも残った人々はレヴァンダールを見捨てたりはしなかった。背の高い建物を残して、民は新しく海の上に街を作り上げていく。そうして、レヴァンダールは水上都市からいつしか水没都市と呼ばれるようになった。





 朝の六時。いつもと同じ時間に目覚ましをセットしているものの、キトリの体に染みついた習慣が勝手に六時と判断してほぼぴったりに目が覚める。
 ベッドからむくりと起き上がってすぐ横の窓を開ける。快晴。雲は一割以下。太陽の光がぼんやりとする脳を少しずつクリアにしていく。今日もまたキトリは仕事のために港へ向かう。
 キトリはレヴァンダールに住む十八歳の少女だった。親はキトリが十七になると同時にここを離れ、別の場所で幸せに暮らしている。先日も手紙が送られてきたが、どうやらうまく馴染んでいるようで安心する。文字通り独りぼっちではあるものの、キトリはレヴァンダールでの暮らしを気に入っていた。コバルトブルーの海に、入り組んだ街並。運河には珍しい生き物があちこちを行き交うように泳いでいる。透き通るほどの綺麗さは観光客だけでなく地元の人間でさえ目を奪われる。食も文化も生まれ育ったこの場所が好きだった。両親は足腰が悪くなってきたせいで、高低差の激しいレヴァンダールの地形が合わなくなってきたことを理由に移住してしまったけれど。
 仕事着に着替えたキトリは自宅を出ると、玄関前に停めているボートに乗り込んだ。レヴァンダールに住む人々の足は専ら船やボートであるが、近場であれば建物伝いに移動ができる造りになっている。水上での生活は不便にみえて慣れてしまえばなんてことはなく、両親と離れてから一年が経つが十八歳ともなれば一人でも生活していける。キトリにとって、レヴァンダールは住みやすい都市なのである。
 ボートで港へ下っていくにつれて人の営みが盛んになるレヴァンダールは、今日も朝から賑わいを見せていた。船を利用して商売をする人も多いので朝早く準備する必要があるのだ。船着き場にボートを停めたキトリは下りてひと気のない細い路地を歩いていく。

キトリちゃん、朝から精が出るねえ。お疲れさま」
「ルークさん! おはようございます。今日は晴れてるし、朝早いほうが作業しやすいんですよ」
「気をつけて。最近近隣国でクーデター騒ぎがあって海賊や海軍がうろうろしてるって噂だから」
「はーい」

 縦縞のシャツに幅の広いワイドパンツを身にまとったルークはレヴァンダールの伝統工芸品を扱う店を営む男性だ。六十を過ぎているというが年齢を感じさせない活発なおじさんで有名だったりする。キトリが小さい頃から親しくしている大人の一人なので、孫のように扱われることもしばしば。それが嬉しくもあり、くすぐったくもある。
 ルークの話は港から少し距離のある場所に自宅を構えるキトリの耳にも届いていた。形式上レヴァンダールはここから数キロ離れた××共和国に属しているのだが、実質は水没都市として一つの国家を築いているに等しい。他国からの干渉を受けない平和な産業都市として名高いこの場所にも、クーデターの件は何度か話題になっている。一年前アンバー王国の内紛が落ち着いたと思ったら今度は別の国で暴動が起き、混乱と動揺を招いたとニュースにもなった。
 その混乱がレヴァンダールにまで及んだというわけではないが、商船や観光船とは別に海軍や海賊の船をあちこちで見かける。特にキトリが仕事をする場所は外部の人間が容易に侵入できるので、ルークの言う通り用心に越したことはない。
 路地の突き当りを出ると街の端にたどり着く。この近辺は水没した街並みが透けた海を通して見えるのだが、実はこの海の下にキトリが生業とする資源が眠っている。作業部屋として借りている小さな空き家で着替えを済ませたキトリは早速、海の中へ潜ろうとした。だが、視界の端に見慣れないものが映って動きを止めた。

「あれは……人?」

 キトリは目を細めてうかがうと、そこにはうつ伏せになって倒れている人がいた。船着き場に打ち上げられたようだったが、まずは生死を確かめるために恐るおそる近づく。肩を押さえながらゆっくり仰向けにして、呼吸を確認する。

「……呼吸は弱いけど生きてる!」

 気を失っているだけのその人は金色に近い髪をした青年だった。ロングコートが体にへばりついて重くなっているのでなんとか脱がせ、キトリはボートを置いてきた場所まで戻ると外を回って青年のいる船着き場に寄せる。海を漂流してきたのか、全身が濡れているせいでコートを脱がせても重かった。青年をボートに乗せるのに一苦労だ。近くに浮いていたシルクハットとゴーグルも彼の持ち物だろうか、掴んで一緒にボートへ乗せるとそのまま自宅へ戻る選択をした。
 見つけてしまった以上、放っておくのも気が引ける。第一あのまま場所で死なれたら地元の人が驚いてしまう。キトリは、浅く呼吸をする青年を見つめて厄介なモノを拾っちゃったなあと呟いたのだった。


 キトリが住む三階建てのホテル型アパートは可愛い庭があることで有名で常に満室だった。両親がいた頃は一戸建てに住んでいたが、一人暮らしを始めると同時に偶然空き部屋が見つかり引っ越しした。
 アパート前にボートを置くと半ば引きずるようにして青年を自宅へ運び入れる。やっとの思いで扉をくぐったキトリはひとまず青年をバスルームへ連れていきシャツやズボンを脱がせることにした。なんだかいけないことをしている気分だったが、別にやましい気持ちはないので心を無にして青年の服を剥ぐ。このままだと風邪を引いてしまうし仕方ない。さすがに下着は脱がす勇気がわかなかったので、暖房器具を駆使して乾かすことにする。
 青年の着替えを済ませてベッドに寝かせたときには、キトリの体力はほぼゼロに近かった。今日はもう仕事どころではない。
 ソファに腰かけたキトリは青年の顔をまじまじと見つめる。左目に火傷のような傷痕があるが、綺麗な顔立ちをしていた。見かけない顔なので外部の人間に間違いない。発見時には気づけなかった腹部や腕の外傷は手当を済ませたものの、熱が上がっていた。額の上の氷嚢を取り換えて、キトリは青年が目を覚ますのを待った。





 とある国の調査帰りだったサボは不運なことに嵐に巻き込まれて遭難した。いつもならあり得ないことだが、特例中の特例で単独行動をしていたのが仇となった。参謀総長ともあろう自分が、である。おまけに”悪魔の実”の能力者というのは海に嫌われているので泳げない。まさかこんなしょうもない死に方をするとは思わなかったと自嘲して意識を手放したのだが、目が覚めたときなぜか知らない天井が目に入り冥土にしては随分庶民的だと思っていると突然にょろっとした影がサボの視界を覆った。

「あ、目が覚めました?」

 やけにクリアに聞こえる声は、女のそれだった。驚く声も出せず、焦点をそこに合わせることに必死なサボは体が怠いことに気づき、どうやら自分は死なずに済んだらしいと理解した。奇跡といってもいいが、幼少の頃ドラゴンに助けられたことといい運が良いようだ。
 心配そうな双眸がこちらを覗いていた。サボと同じかそれより若く見える女だった。しかしそれ以上脳が処理を拒否してぼうっとしてしまう。これは相当疲れているなと自分の体の不調を確かめたところで、突然相手の手が伸びてきて身構えた。

「驚かせてごめんなさい。氷を取り換えようかなと思って」
「ああ、悪い」

 そこで初めて額にのる重さを感じ、女がひょいと氷嚢を持ち上げて姿が見えなくなった。首をひねるのも億劫になっているせいで時間がかかる。
 視界が天井から部屋の風景に切り替わる。一人暮らしなのか、ベッドのすぐ向かいに食事用のテーブルがあり、その奥にキッチンが見えた。女がいそいそとキッチンで作業しているの見つつ、その先に視線を送る。扉らしきものが二つ、正面に見えるのはきっと玄関だろう。左側に見える扉がバスルームへ繋がっていると思われた。
 流されて一体どんな町にたどり着いたのか、サボの中で該当しそうな都市は複数あげられるが幸運なことに親切な人間が自分を拾ってくれたようだ。自分の顔を見ても特に反応がないところを見ると、彼女は"知らない"側の無害な一般人。
 しばらくして女が何かを抱えて戻ってくるのがわかり、サボは慌てて首の位置を元に戻した。

「気分はどうですか? 衰弱されてたので、何か胃に入れたほうがいいと思っておかゆを作ったんですけど」
「ありがとう。ちょうど腹減ってたんだ」
「よかった。でもびっくりしました、仕事で港に向かったら人が倒れてるんですから」
「嵐に巻き込まれて気づいたらここにいたんだ。助けてくれた上に食事まで感謝する」
「それは別に構いません。でも、」

 でも、の続きは紡がれなかったが彼女の言いたいことはわかる。
 お前は何者だ。きっとそう問いたいに違いない。ただ、病み上がりの人間にその質問は不躾だとでも考えているのか、聞きたそうにこちらをちらちら見るだけで何も言ってこない。先ほどは意識が浮上したばかりで気づかなかったが、よく見るとあまり背が大きくないせいか彼女はだいぶ若くみえる。それとなぜかレインコートを羽織っているのも気になった。仮に外が大雨だろうと、部屋の中での服装としてはふさわしくない。

「おれは革命軍のサボ。嵐に巻き込まれたのは調査帰りの途中だったんだがここはどこだ」
「私はキトリです。そしてここはレヴァンダール。革命軍のあなたなら知っていると思いますが、海に沈む都市国家です」
「ああ、そういうことか」

 レヴァンダールの名前はサボも知っていた。かつてはウォーターセブンのように海上に存在した都市であり、希少生物や資源が豊富な産業都市である。ウォーターセブンとの決定的な違いはほとんどの建造物が水没してしまい、そこから新しい今や住める場所は限られているという。加えて道路という概念がなく、狭い路地ばかりなので移動手段はもっぱらボート。中には水上生活――船の中で暮らす者もいると聞く。
 ウォーターセブンも水没し続けているが、あの島は造船業が盛んで優秀な船大工が多いので近々島ごと船にして海に浮かべる計画があるという噂がある。レヴァンダールが沈みゆく都市なのは、古きものをそのままにしているせいもあるのだ。
 キトリと名乗った彼女はやはり一人でここに住んでいるらしい。両親はレヴァンダールを離れて悠々自適に暮らしているそうだ。水没都市の暮らしは慣れれば特に不自由がないらしく、彼女は生まれ育った土地に誇りを持っていた。

「しかしどうすっかなァ。船は嵐でダメになっちまったし、仲間を呼ぼうにも電伝虫がこの調子じゃ流されただろうし」
「あ、電伝虫だったらこちらに。ずぶ濡れだったので勝手に着替えさせてしまったんですが、そのときポケットからこれが」

 キトリはテーブルに戻るとサボが所持していた電伝虫を持ってきた。あの嵐の中でよく流されなかったなと感心したのも束の間、手に取ってみると中枢の通信部分が壊れていた。まあそうだろうな、むしろ残っていただけでも幸運だったと思わなければ。
 しかしこれで振り出しに戻ってしまった。レヴァンダールは小さな都市ではないからまったくの連絡手段がないわけではないだろうが、探す手間もあるし体力が落ちている今はあまり良い方法とは言えない。とするならば、キトリにどうにかしてもらうしかないと結論を出したところで彼女に視線を向けた。

「何してんだ」ベッドに置いたはずの電伝虫がまたキトリの手元に戻っており、あろうことかじっと見つめて唸っていたので思わず声をかけた。
「これ直せないかなって思いまして」
「……直せるのか?」
「実は私、機械時計屋を営んでるのですが、電伝虫などの通信機器にも少し心得があるのでもしかしたら直せるかもしれないなと」

 サボは、やはり自分は運が良いと思わざるを得なかった。嵐に巻き込まれて死んだと思えば助けられ、連絡手段を断たれたと思えば電伝虫を直せるという人間が現れる。キトリが助けてくれたのも何かの導きなのかもしれない。
 彼女が電伝虫を直せるのならば、それを利用しない手はなかった。

キトリ。仲間と今すぐ連絡を取りてェんだ。こいつの修理を頼めるか」