はなむけの懐中時計

 コアラから二十二時間後、レヴァンダールに到着するという連絡が来たのはアクアクォーツの話を聞いてから三日後のことだった。予定より少し早いのは気候のせいもあるだろう、進行方向に風が吹いていればその分早く着くことはよくある。レヴァンダールにいられるのもあと半日になった。
 仕事で工房に出かけているキトリとは反対に、サボはこの町でやることがないのでぶらぶらと散策していた。ボートが一台しかないので徒歩で行ける範囲になるが、レインコートは両親のものが残っているとのことで貸してもらった。観光客用にボートもレインコートも貸し出ししているそうだが、無一文な上にわざわざキトリから借りるのも悪いので断った。
 レヴァンダールの住人は面白いことに水上生活をしている人間も多いらしい。路地を歩いている最中、いくつものボートとすれ違ったり、または追い越されたりするのだが、移動手段として使っている者のほかに”船の家”といって文字通り船で暮らしていると思われる人々を見かけた。それは水没都市ならではの生活方法なのかもしれない。いずれ完全に沈んでしまうだろうレヴァンダールでは、むしろキトリのように建物暮らしをしているほうが珍しいのではないか。
 アクアクォーツが高値で取り引きされるといっても、都市自体が壊れゆく場所なら彼女たちは一体どうなるのだろう。××共和国の保護下にあるとはいえ、貴重な資源を狙ってくる海賊がいないとも限らない。金銭が絡んでくるなら世界政府も黙っていないかもしれない。そのあたりの話をキトリは特にしていなかったから、もしかしたら世界にはまだ知られていない可能性もあるが。
 サボは、この美しい都市がそうした悲しき運命にあることを嘆きながら残り少ない時間でレヴァンダールの景観を目に焼きつけておきたいと強く思った。





「よし、こんな感じかなあ」

 カビノチェの作業部屋である二階で、キトリはいそいそと時計をいじっていた。工房にこもってからかれこれ五時間弱が経っている。なるほど、どうりで肩が凝っているわけだ。ぐるぐると首回りをほぐしながら、完成した時計を見つめて達成感に浸る。
 明日の朝、迎えの仲間が到着するというサボに贈る懐中時計だった。アクアクォーツの話をした日、興味深そうにしている彼の姿を見ていたらプレゼントしたくなったのだ。レヴァンダールを知りたいと言ってくれた、勉強になったと言ってくれた彼の好奇心に何かしら応えたいと考えた結果だった。
 革命軍の彼はきっと休息する時間も惜しいほど忙殺された毎日だろうから、再びこの土地にやってくることは難しいはずだ。仮に来られるとしても、そのときこの場所は完全になくなっているかもしれない。ならばせめて、レヴァンダールという都市が存在したことを忘れないでほしいと思う。彼の記憶の中に、レヴァンダールを――キトリという時計職人をどうか……。

「……って、気持ち悪いかな」

 自分で考えてみてちょっと気が滅入りそうになったので、もう少し軽く捉えることにした。「忘れないでほしい」ではなく「思い出としてお土産に」とでもしておこう。
 完成した時計を壊さないようケースにしまったキトリは一階の店内に下りて、閉店作業に取りかかった。今日は二組の客が来ただけで、修理などの作業に勤しむ時間が多い一日だった。そのせいもあっていつもは時間のかかる閉店作業も短時間で済ませることができた。
 戸締りをしてカビノチェを後にしたとき、ちょうど日が沈む時間帯だったようでキトリの向かう方向から強い西日がささっていた。
 散策すると言っていたサボはもう帰っているだろうか。今日は彼と過ごす最後の夜になるから、レヴァンダールの伝統料理を振る舞うつもりでいる。帰る道すがら、少し寄り道をして食材を買いそろえる。ついでにしばらく買い物をしなくて済むようボートいっぱいになるまで買ったキトリは満足顔で帰宅した。
 アパートの船着き場にボートを停めたとき、ちょうど向かいの路地からサボが顔を出した。どうやら今帰ってきたようだ。

「サボさんちょうどよかった。今から夕飯の支度をするので、これ運んでもらえませんか」
「……量が多くねェか? 確かに結構食うほうだとは思うが、二人分にしてはおかしいぞ」
「あはは、心配しないでください。しばらく買い物に行かなくてもいいように買いだめしたんです。基本的に仕事場と家の往復だから、マーケットは一週間に一回がちょうどよくて」

 いくつもの買い物袋をサボと二人で三往復して自宅に運び入れた。途中、サボが無理して前が見えなくなるほど持つものだから段差に躓いて中身をぶちまけそうになったのだが、持ち前の運動能力なのかこけることなく回避した。
 しかしいくら何でも買いすぎだろうと、すべて運び入れたあとに袋の数を改めて数えたサボが呆れていた。一人暮らしの決して広くない部屋には確かにそう思えるのかもしれない。ぶつくさ言いながら大量の買い物袋を一緒に片づけてくれた彼に礼をして、美味しい夕飯で勘弁してくれるよう頼みこんだ。


(はあ……あと八時間くらいか、早かったな)
 流し台で食器を洗いながら、ぼうっと一点を見つめていた。まるで手だけがロボットのように同じ作業を繰り返している。手を動かしていれば何も考えずに済むと思っていたが、サボがバスルームにいる今ひとりになっただけで思考が簡単に変な方向へいってしまう。それまでの一人暮らしの生活に戻るだけだというのに、なぜかキトリの心はぽっかり穴があいたような感覚に陥る。
 両親と離れるときも寂しい気持ちはあったのに、今ここに巣食う気持ちの名前は寂しいというには彼と過ごした時間はあまりにも短い。わからないけど、寂しいとは別の――でも名前を付けるのが難しい感情がキトリの中に渦巻いていた。
 何枚目の皿を洗っていたのだろう。キトリは上の空のまま手を動かしていた。だから、人影があることにも気づけなかった。

「おい、食器もねェのに何してんだ」
「ふぁっ!」
「……ふぁって、お前なァ」

 いつの間にここに来たのか、バスルームにいたはずのサボが呆れながらこちらを見ていた。下は履いているが、なぜか上半身は裸で髪も濡れている。そのせいで妙に色気を醸し出しているので目のやり場に困ってしまう。大体家族や恋人でもないのに、そんな恰好で――

「って、私も前科あった……!」

 胸中でサボに文句を投げていたら、三日前のことを思い出して項垂れる。キトリも、彼の前で堂々と着替えをしたことがあったからだ。まあ実際は素潜り用のスーツに近いので肌の露出はほとんどないのだが、彼は水着だなんだと騒いでたっけ……。
 キトリの一人であたふたする姿にサボは訳が分からないという顔をしてため息をついたかと思うと、「まずこれを止めろ」蛇口を捻ってキトリの手からスポンジを奪った。そう、流し台にはすでに何もなかったのだ。

「シャワー空いたぞ」
「はい。ありがとうございます」
「いや、礼を言われてもここはキトリの家だろ」
「そうですね」
「……」

 ああ、また変な目で見られている。大丈夫か、正気かって顔だ。でも言えるわけない。サボさんのことを考えてたなんて、そんなこと。言葉にすれば彼を困らせるだけだし、したところで彼はこの町に残れない。帰るべき場所があるのだから。

「ごめんなさい、ちょっと考え事をしていただけです。私もシャワー入ってきますね」

 誤魔化すようにサボの横をすり抜けて、キトリはバスルームに向かった。彼がどんな顔をしていたのか、その時のキトリにはわからなかったが、何も言わずにいてくれたのはせめてもの気遣いだったのだろうと思う。





 プルプルプルという不思議な着信音――というよりも鳴き声に近いそれに、キトリの目はすっかり覚めていた。どうやら革命軍の迎えが来たらしい。時刻は日の出より少し前。レヴァンダールはまだ眠っている時間帯だ。滝の音だけが、やけに大きく聞こえる。
 すでに起きていたらしいサボは、テーブルに座っていつかの時のように窓の外を眺めていた。

「では、行きましょうか」

 何も持たない状態でここへ来た彼は、漂着したときと同じ服装のままキトリの家を出ていく。その背中を追うようにしてキトリもまた、家を後にした。次にここへ戻ってくるときは一人だということに、今は気づかないふりをして。
 ボートに乗り込み港へ向かう。珍しく曇っている空模様だった。雨が降りそうな雲ではないが、まるでキトリの心とリンクしているようで思わず苦笑いする。ポケットに忍ばせたケースをぎゅっと握りしめて、このまま港に着かなければいいのになんて……。
 お互いに無言のまま、ボートは徐々に下っていく。はじめは驚いていた高低差にも、もう彼は驚かない。静かに周りの景色を見つめているだけだ。
 やがて港のほうまで来ると、見慣れない大きな船がキトリの視界に映った。あれがサボのいる革命軍の船だろう。随分大きな船だ。ここら辺ではまず見かけない。改めて彼と自分のいる場所の違いを思い知って、キトリの心臓にぎゅっと何かで掴まれたような痛みがはしる。

「ここでいいよ」
「はい」
「いろいろ、ありがとうな。助かったよ」
「いいんです、楽しかったから」
「おれも楽しかったよ。キトリのメシも美味かったし」
「それはよかったです。どうかお元気で」
「ああ。キトリも元気でな」

 じゃあ行くよ。
 サボがボートを降りて船に向かっていこうとする。ああ、本当に別れのときなのだ。

「サボさん!」呼び止めて、彼がゆっくり振り返った。
「……?」
「これを、あなたに」

 こげ茶色のケースを取り出したキトリはそっとサボに手渡した。予想していなかったらしく、目を見開いた彼はぎこちない動作でケースを受け取った。中身を開いた彼はさらに驚いた様子で「これって……」と、キトリに答えを求める視線を投げかけた。

「アクアクォーツの懐中時計です。レヴァンダールの思い出に」
「……綺麗だな、ありがとう。大切にする」

 続けてサボはまたな、とキトリの頭を軽く撫でていくと、今度は本当に船に向かって歩き出した。その後姿を焼きつけるようにキトリはいつまでも見つめていた。
 広い背中が遠ざかって、やがて船が港を離れていく。粒のように見えなくなるまでキトリは海を見つめていた。彼らが向かっている東の方角から眩い太陽が顔を出し始めて思わず目を細めたキトリの頬に、微かに雫が伝う。
 忘れないでください、とは言わなかった。思い出してください、とも。だって彼は言っていたのだ。
 "またな"
 ただの形式文句かもしれない。そんなつもりはないかもしれない。革命軍の任務が最優先だ、仕事で近くに来ることはあるかもしれないが確率的には低い。
 でも賭けてみたくなったのだ。彼がまたこの場所を訪れたとき、レヴァンダールが美しいままでいることを。アクアクォーツが溢れるこの儚く美しい都市を、再び彼が目にすることができますように。
 遥か向こうの水平線に、一隻の船がのみこまれていく。
 キトリは名残惜しむように視線をそこへ向けたまま、消えてなくなるまで瞬きもせず見送った。