つわものどもが夢のあと

 かつて"偉大なる航路"にぽつんと浮かんでいた水上都市レヴァンダールは、数百年の時が経つとともに環境の変化に伴って徐々に水没している都市国家である。形式的には××共和国に所属しているが、独自の文明や政治を築いてきた小国家なのだ。
 美しい海に囲まれたレヴァンダールは、近年の海面上昇によって水没の速度が増していた。建物のほとんどが海中へ沈み、人々は移動手段を徒歩からボートや船に余儀なくされた。だからといって彼らは住み続けてきた都市を見捨てたわけではなく、残っている建物を拠点に今も住んでいる。中には水上生活を送っている者もいるが、少ない土地面積を最大限に利用して文化を守り続けていた。
 少なくとも、サボが知っている限りでは――


 反政府組織として各地でクーデターを起こす革命軍のナンバーツーであるサボは、三年前とある任務の帰還中嵐に巻き込まれたところ、奇跡的にどこかの船着き場へ打ち上げられた。その場所がレヴァンダールであり、倒れているサボを助けてくれたのが都市に住むという名の少女だった。
 彼女は生まれも育ちもレヴァンダールだが、高低差の激しいこの町で暮らすのが困難になった両親とは十七のときに別れて今は一人暮らしをしていた。
 代々続いているという時計工房を継いで、一人で生計を立てている彼女は立派な時計職人だった。"アクアクォーツ"というレヴァンダール近海でしか採掘されない特殊な鉱物を使うことで、時計としての性能を各段に上げることができるという。彼女は「今どき時計職人なんて流行らない」と自虐的な発言をしていたが、サボには両親から受け継いだ店を守って今も少しずつ水没し続けている町に住んでいる彼女が誇らしいとでもいうのか、一つの生きざまをそこに感じたのである。
 自由を求めて海に出たサボとはまた違った人生の歩み方があるのだと、一般人となれ合う機会がない彼にはひどく新鮮に映ったのだ。
 こうして仲間と連絡が取れてから迎えが来るまでの数日間、のもとで世話になりレヴァンダールが築いてきた歴史を肌で感じたサボは、彼女との別れ際に気づけば「またな」と口に出していた。別に約束したわけではない。サボの立場上、私的なことで航海に出ることもできない。だから、彼女との「また」が存在する保証はどこにもなかった。きっと、彼女もわかっていただろう。「またな」に反応するでもなく、ただじっと船を見送っていた姿が目に焼きついている。
 レヴァンダールの思い出に、と懐中時計をくれた彼女の姿が――

 "偉大なる航路"の上、革命軍の船は××共和国からの帰還途中にあった。快晴の空は、目を細めたくなるほど綺麗な青で覆われている。任務のあととは思えない、穏やかな午後のひと時だった。
 偶然か必然か、三年前も同じ場所を調査してそのときは嵐に巻き込まれたことをサボは昨日のことのように思い出せる。能力者であるサボは、海へ投げ出されたら一溜まりもなく命を奪われる。正直死を覚悟した部分もあったが、意識が戻ったとき知らない天井だったことは不幸中の幸いだ。それも、きちんと介抱してくれる人の好い人間に拾われたのだから。
 右手の懐中時計を見つめながら、サボは懐かしい想いに駆られた。彼女がくれた、アクアクォーツを使った時計。肌身離さず持っているなんて珍しいと仲間にからかわれながらも、やっぱり置いていくことができずに持ち歩いている。不思議な感覚だ。たった数日滞在しただけの土地に、郷愁にも似た気持ちにさせられるのは。
 サボは今、仲間と一旦離れてレヴァンダールへ向かっている。先に近くの島で待ってもらっているのは懐中時計の件を知っている彼らの配慮だった。だから、本来の航路をはずれてひとりレヴァンダールを目指していた。
 三年間、あれからどうなっているのか。見てみたいような、でも知らないままでいいような。相反する気持ちがサボの中で揺れ動いている。
 ――いや、せっかくもらった機会だ。が元気にやってるならそれでいい。
 思い直して、サボは船の速度を少し速めた。


 ◇


「嘘だろ……?」

 三年前に別れた場所と同じ港に到着したサボが見た光景は、そこにあるはずのレヴァンダールの街並みが変わり果てた姿であることに衝撃を受けた。その日の夕方のことだった。
 たった三年の間に町というものはこれほど変わるものなのだろうか。あのとき見た家々のほとんどが水没し、いたるところにあった大小異なる滝も今はほんの数か所しか見当たらない。当時は建物をつたって徒歩での移動もある程度できたのだが、それもできなくなったとみていいだろう。
 レヴァンダールは加速的に水没していた。

「三年間でこんなに沈むものなのか」

 思わず口をついた一言は、久しぶりに訪れた人間なら誰もが同じ感想を持つだろう言葉だった。
 サボの記憶にあった店や家が視界になく、海面より下に存在している。まさに沈んでいると表現できる状態だった。
 下船して近くの貸屋からボートを借りたサボは移動しながら町の様子をじっくり眺めてみる。すべてが沈んだわけではないにしろ、三年前とはあまりにも違う光景でやはり驚きを隠せない。港に近いほど人々の営みが盛んであるはずが、こちらも同じように寂れてしまっていた。水上で生活できる人間とそうでない人間がいるように、商店だって水上で可能な職種とそうでない職種がある。不可抗力で手放すことになったであろう住民を思うと、胸が痛んだ。

の店はどうだろうな。カビノチェは今もあるのかな」
「なんだ兄ちゃん。ちゃんの知り合いかい?」

 後ろから少ししわがれた声が聞こえて、振り返ると小型船に乗った見知らぬ老人が背後に立っていた。せわしなく動くモーターの駆動音が借りたボートとは違って激しいのはここの住人だからだろうか。老人の後ろに居住スペースも見える。

「見たことない顔だが、まさかちゃんをたぶらかす変な輩の仲間じゃないだろうね」
「は……?」怪訝な顔をしたサボにぐいっと老人の顔が近づいたかと思うと、
「……いや、兄ちゃんは違うみたいだ。悪いねえ」

 頬をぽりぽり掻きながら人の好い笑顔で言う。声の割には若々しく笑う老人の印象を受け、船の中を見る限り工芸品か何かを売る現役の商人であることがわかる。水上で生活を営む住人の一人だということがうかがえた。

「爺さんはを知ってるのか?」
「昔からね。彼女の両親がここを離れてから四年、今もカビノチェを経営しているよ。このまま水路を上っていけばいるはずさ」

 上を指さした老人はそのまま引き返したかと思うと、途中の狭い水路へ入っていった。
 老人の話では、どうやらは今もこの町に残って時計職人を続けているようである。レヴァンダールがこんな状態だと予想できなかったにしろ、サボの中で彼女がこの町を捨てる可能性は微塵もなかったので結果的にはよかった。
 ボートを走らせ、港から一本道のように続く水路をゆっくりのぼっていく。町は沈んでいこうとも、海の美しさは変わらない。夕日の光で海面がきらきらと輝いている光景は幻想的だ。その美しさと対照的に町の水没問題は深刻であり、人々を悩ませているのが心苦しいところではあるが。
 水路を上りきるとさらに広い道へ出る。複数の水路が合流する地点でもあり、ここから住宅が立ち並ぶ区域であった。三年前までは。今は住宅と呼べる建物が減り、ほとんど屋根だけだったりすべて沈んでしまったりと跡形もない。当然、が住んでいた庭付きアパートも見当たらなかった。
 しかし、サボの視界に小さな船の上でせっせと体動かす見知った背中が映り込み自然と頬が緩んだ。髪が伸びているが、あれは間違いなくだった。

!」

 名前を呼んで、彼女の船に近づいていく。声に反応した彼女がはっとしたようにこちらを振り返る。大きな瞳が驚きのあまり、これ以上ないほど見開いて思わず噴き出した。驚きすぎだろ。

「えっ……サボさん!? え、な……えっ?」
「はは、落ち着け。とりあえずそっち行っていいか?」

 驚くをよそに、彼女が乗る船に視線をやってからボートのエンジンを切る。長く滞在するつもりがないので荷物はなくこの身ひとつであるサボは、彼女の返事を聞く前にボートから船へ飛び乗った。慌てて我に返ったは急いで船室へと消えていく。
 何だろうと思ったのも束の間、くぐもった「ちょっと片づけるのでそこにいてください」という彼女の困った声が聞こえて、可笑しくなった。


 彼女が生活拠点にしている船は、見た目よりも広い構造になっていて寝泊まりのほか、あの老人が言っていた通り時計工房としても機能しているらしかった。以前の二階建てとはいかないが、時計作りには困らないほどの作業スペースは確保されている。航海しているわけでもないのに船で生活とは不思議なこともあるものだ。
 案内された住居兼作業スペースにあたる船室のソファに腰かけたサボはここへ来ることになった経緯を説明した。
 知り合って数日しか過ごさなかったために、こちらが望んで再会したとしても忘れられていたらどうしようかという不安はあったが杞憂だったようだ。突然来たにもかかわらず、も再会を喜んでくれている。まるで時を遡ったかのように話が弾む。

「これ、まだ持っててくださったんですね」

 テーブルの上に置かれた金色の懐中時計に手を触れたが懐かしむように撫でた。カビノチェ製であることの証に文字盤には"cabinotier"と刻まれたそれは、三年経った今も正確な時を刻んでいる。

「そりゃあがくれた大事な時計だからな。アクアクォーツも、ここでしか採れないものだろ」
「ありがとうございます。あれから規模は小さくなってしまいましたけど、今も続けてるんですよ。時計工房」
「みたいだな。ここに来る途中でのことを知ってる爺さんに聞いたよ」
「ルークさんかな? 小さい頃からよくしてくれてる人なんです」

 穏やかに話すの表情は、しかしどこか憂いを帯び悲しみに満ちていた。それに気づかないふりをすることもできたが、サボは再びレヴァンダールを訪れて一番気になっていたことを口にする。

「深刻なんだな……」

 短い一言の中に、彼女はいろいろ汲み取ったようで「そうですね」苦笑いして答えた。そして物悲しげに外のほうを見つめると、吐息に近いため息をもらして再び口を開く。

「レヴァンダールは今度こそ水没してしまうのだと思います。きっと数年以内に建物は完全に海底へ沈む。そうなれば私たち住民はここを離れざるを得ません」
「行く宛はあるのか?」
「はい。両親がいるところに行こうと思ってます」
「そうか……」

 呟いて、そのままお互い無言を貫く。再会したはいいものの、彼女の住む町は段々と消えているのを実感してやるせなくなる。サボ一人がどうこうできる問題ではないだけに歯がゆい。だからといって、彼女をつれていくこともできないし、彼女には彼女の生きる道があるだろう。
 革命軍として、この三年間で本懐を遂げたサボだが、まだまだやるべきことはある。世界が自由であり続けるために――何よりサボが自由であり続けるために。それと同じように、彼女も時計職人であることを誇りに思っている。彼女の仕事を潰すような真似はできない。

「この町はなくなってしまいますけど、時計工房は続けようと思ってるんです。アクアクォーツさえ採れれば、カビノチェは経営できますから。だから……サボさんがそんな顔しないで」
「え?」
「気づいてないんですか? 私より悲しそうな顔してますよ」
「……」

 確かにやるせない気持ちに駆られたが、そんなにわかりやすかっただろうか。

「でもそうだな。しいて言うなら、サボさんが訪れる理由がなくなっちゃうのは寂しいですね」
「そんなのっ……この町がなくなったっておれは会いに来るよ!」

 が寂しそうにするから勢いに任せてそう言ってしまった。しかし言ってから、なかなか大胆な発言だったことに気づいて思わず彼女の目から視線を逸らす。
 くっそー言わせられた。そういえば、来る前に会った爺さんがをたぶらかす変な輩がいるとか言ってたから、案外こういうことに慣れてるのかもしれない。

「随分言うようになったなァ」
「でも本当のことですよ。サボさんには会いたいなって思ってたから、こうして再会できて嬉しいです」
「お前な……あーもういいよ」

 投げやりに返すと、そこからはこれまでのお互いの三年間の話に花を咲かせた。
 あの時とは置かれている状況も事情も違うが、二人の間に流れる空気はあの頃と何も変わらないままそこにあり続けた。
 どれくらい話し込んだのだろう。気づけばが幸せそうにこっくり舟をこぎ始めていた。サボはそっと立ち上がると彼女を抱えてベッドに横たえさせる。先ほどとは違って幼い表情を見せる彼女に笑みを浮かべながら、酒瓶を片手に独り晩酌を続けた。

theme song by 「the sea and a pearl」/ JUNNA