君と私のエルドラド

 かつて"偉大なる航路"にぽつんと浮かんでいた水上都市レヴァンダールは、数百年の時が経つとともに環境の変化に伴って徐々に水没している都市国家である。形式的には××共和国に所属しているが、独自の文化や政治を築いてきた小国家なのだ。
 美しい海に囲まれたレヴァンダールは、近年の海面上昇によって水没の速度が増していた。建物のほとんどが海中へ沈み、人々は移動手段を徒歩からボートや船に余儀なくされた。だからといって彼らは住み続けてきた都市を見捨てたわけではなく、残っている建物を拠点に今も住んでいる。中には水上生活を送っている者もいるが、少ない土地面積を最大限に利用して文化を守り続けていた。
 そんな独自の文化を育む都市に住むキトリという名の女性もまた、数年間の一人暮らしで親しんでいたアパートを失い、ボートでの生活を始めた。始めこそ慣れなかったものの、周りですでにボートや船での生活をしている大人たちの知恵を借りて現在なんとか日常生活を送れている。
 もちろん中には沈んでいく都市を見限って出ていく者もいる。キトリの両親も年々高低差が激しくなっていくレヴァンダールの地形が足腰に悪いという理由で、長年愛したこの都市から移住する決意をした。
 こうしてキトリが一人暮らしを始めてもう六年目になろうとしている。両親と共にレヴァンダールを出ていく選択肢も彼女の中にはあったが、それを選ばなかったのには理由がある。

「ふう……こんなもんかな」

 キトリはルーペを外して机から離れると、凝り固まった肩を回して大きく伸びをした。現在、昼の十二時を過ぎた頃。そろそろ休憩時間である。
 生活拠点の船にはキトリが経営する時計工房"カビノチェ"としての機能も持ち合わせていた。以前までは二階建ての大きな時計屋が存在し、店と作業部屋とが一体になっていたのだが、建物が沈んでからはすべての道具をここへ移動して店を続けている。"カビノチェ"は両親から受け継いだ大事な店であり、キトリの誇りでもあった。代々続くカビノチェ製の時計はレヴァンダールの海域では有名なので、キトリの代で終わらせるわけにはいかなかったというのも彼女が沈んでゆく都市にわざわざ残った理由の一つだった。
 普段は修理屋として「直す」ことが専門であるが、観光客にはカビノチェ製の時計が人気なのだ。その理由として、レヴァンダール近海でしか採れない"アクアクォーツ"と呼ばれる秘宝を使用していることが挙げられる。一般的なクォーツと違って振動回数が十倍近く多く、それだけ正確な時を刻むことができる上に、最低でも三年は電池交換が必要ないことに人々はカビノチェ製の時計を好む。
 二日前に修理を三件ほど頼まれていたキトリの船は、現在レヴァンダールから少し離れた××共和国の港に停泊していた。"偉大なる航路"の前半の海を旅しながら時計屋を続けてもうすぐ一年、やっと故郷の近くまで戻ってきたことになる。長かったような、あっという間だったような。レヴァンダールを出たことなど生まれてこの方なかったキトリが、故郷を離れて旅をするのは彼女の中で相当勇気のいる行為だったが、ある人のおかげで――というのも照れくさいけれど、決断するに至ったのである。
 五年前、キトリは港の船着き場に倒れていた青年を救助し、数日間をともに過ごした過去があった。死んでもおかしくなかったと本人は言っていたが、運よくレヴァンダールの港に漂着してキトリに拾われたのだ。
 青年はサボと名乗った。革命軍に所属しており、世界が本当の意味で"自由"になることを実現するために戦う人。強い意志を抱き、そのために命を捧げられる人。無駄死には好まないけれど、任務遂行のために命を投げ出すことも厭わない。そして仲間や兄弟といった絆を大切にする人だった。
 噂やニュースで革命軍のことは知っていた。レヴァンダールには直接関係のない人種ではあったが、近海の島々ではクーデターや海賊の話も聞くのでまったくの無関係ではいられまい。政情に疎いキトリでも世界政府や天竜人の存在は知っているし、彼らがそうした大きな闇に立ち向かう人々であることは承知していたから。
 サボを助けてから数日間、いろんな話をした。レヴァンダールのことはもちろん、時計職人としてのプライド。いずれ沈んでいく都市に自分ができること。残していきたい伝統品や料理。初めて言葉を交わしたとは思えないほど流暢に、キトリは彼との会話を楽しんだ。それこそ別れを惜しむほどに。水平線の向こうに消えていく彼を乗せた船を名残惜しい気持ちで眺めながら、再び会えることを願った。
 こうして再び元の生活を繰り返すこと三年。彼と出会った年、すでにほとんどの建物が沈んでいたレヴァンダールはその三年でほぼ完全に沈んでいった。こんなに早いものかと思われたが、専門家の話では環境の変化に伴い地盤が緩んでいたため、沈むのは時間の問題だったという。
 船での生活を始めて半年。時計屋の拠点は船上になり、何をするにも船が欠かせなくなった頃、彼は再び突然キトリの前に現れた。××共和国の任務の帰りだといって寄ってくれたのだが、何せ三年ぶりなのでそれもう大いに驚いた。と、同時に胸の奥に転がっていた想いも一気に溢れ出してくすぐったくなる。戸惑いながらもキトリは三年の時をうめるようにサボと語り合った。街が壊滅状態であることを悲しみ、心配までしてくれる彼にキトリは胸が熱くなる想いだった。
 仲間を待たせているという彼はすぐにレヴァンダールを後にして帰っていった。また会いに来ると約束を残して。

 ××共和国の有権者たちから続々と依頼を受けて、先ほど二日前に受けた修理も含めてすべてを終えたところだった。このあともう一度、入国して店を開き夕方まで過ごすつもりでいる。何もなければこのままレヴァンダールへ帰還することになるが、再び仕事が入ればもう少しとどまることになる。金銭的には問題ないものの、キトリを悩ませる種は別にあった。
 船から降りて、港町から入国処理を済ませれば××共和国は比較的簡易なやり取りだけで済む。一般的な観光客と違ってキトリのように商売する者は別途申請が必要であるが、レヴァンダールから来た人間はもともと××共和国に所属していたこともあって申請が不要なのだ。
 まずは昼食を取るために、近くの料理屋に入る。このあたりは治安も悪くないし、女性が一人で歩いていても基本的には問題にならない。基本的には――
 昼時ということもあって店内は混みあっていたが、カウンターの端っこが空いていたのでそこに案内されたキトリはいつもの要領でランチセットを注文した。レヴァンダールと近いこともあって味付けや料理の傾向は似ている。だからキトリも安心して口にすることができるし、いちいち店員に尋ねなくて済む。それにここは日替わりでランチが変わるのもキトリが好んで通う理由の一つだった。
 しばらくしてランチが運ばれてくる。今日はシーフードパスタとビシソワーズ。決め手は"西の海"の国から輸入されたチョコレートムース。上には季節のフルーツが添えてあって見た目も可愛い。キトリの目が途端に輝く。

「わっ、今日もおいしそう!」

 早速パスタに手をつけて一口。レヴァンダール近海の魚介を思い出す味付けで頬が緩む。うん、やっぱり美味しい。空腹だったこともあってキトリの手は止まらない。黙々と食事を続けること三十分。ようやくデザートに差しかかろうというとき、

「今日も、おひとりなんですね」

 と、横から声をかけられた。「はい?」キトリは中途半端な状態のフォークを一旦下ろして声のするほうに顔を向けた。そして相手の姿を認めた途端、キトリの表情が若干引きつった。またか、と胸中でため息をついて断りの言葉を探す。
 ××共和国に停泊してからというもの、事あるごとに声をかけてくる男がいた。はじめは世間話をする程度だった。どこから来たのか、何をしているのか。女の一人旅なんて今時珍しくもないだろうに、彼はキトリの姿を見つけては「今日の調子はどうか」と尋ねてくるようになった。挙句の果てには、自国を紹介してあげるからという理由で誘ってくるのである。仕事で来ているので丁重に断ったにもかかわらず、なぜか――言い方は悪いがしつこく声をかけてくる。
 アプローチされることはレヴァンダールにいた頃からあった。街には同じ年ごろの男性はいなかったので、観光客がもの珍しげにキトリを連れ出そうとするのだ。いつまでもこんな田舎にいないで出よう、と。
 正直なことを言えば余計なお世話だ。キトリは自らすすんでここに留まろうとしているし、時計職人としての誇りを持っていることにも気づかず、ああいう発言をしてくる人間はこちらから願い下げである。

「すみませんが、私の答えは変わりません。ここには仕事で来ているので結構です」
「いいじゃないですか少しくらい。仕事って言っても所詮修理屋でしょう」
「……」

 きっと彼は悪気ないのだろうが、キトリに対してその言葉はもっとも傷を与えるものであるということを知らない。そもそもよく知りもしないで人の仕事を"所詮"という言葉で片づけないでほしい。
 キトリはもう一度彼の目を見据えて言った。

「だから私はっ……」
「まあそう怒らずにほら」

 ランチの途中であるにもかかわらず、彼はキトリの手を引っ張って無理やり連れ出そうとした。刹那、横から別の誰かの手が遮って「何してんだ」と男の手を掴んだ。不穏な空気に周囲が一気に騒がしくなったかと思うと、男が「いてェ」という嘆き声をあげたので、キトリは突如現れた人物に視線を向けた。

「えっ」
「メシ食ってるだろ、見てわからねェのか?」と低めの声が店内に響いて辺りの温度が急激に下がっていく。同時にキトリは「えっ」と同じ言葉しか発することができないでいた。そこにいたのは五年前に初めて出会い、二年前に再会を果たした青年・サボだったのである。前回の突然の再会にも驚いたが、今度はレヴァンダールではない場所でまさかまた会うなんて誰が予想できただろう。
 しばらくサボと男のやり取りをぼうっと見てから我に返ると、男はぼそぼそと「なんだよくそ」とか「相手がいたのかよ」とかキトリとの会話からは想像もできない口の悪さで悪態をつきながら店を出ていった。
 意外にもあっけなく去っていった男の背中が見えなくなると同時に周囲から拍手が起こる。どうやら店側も客にちょっかいを出す迷惑客として困っていたようだ、礼を言う店員にサボは気にするなと爽やかな態度で対応した。
 そしてようやくキトリと目線を合わせると破顔して、「久しぶりだな」と右手をあげた。

「……二年前もそうでしたけど、なんでいつも急にいるんですか」
「それはこっちの台詞だ。今回は仕事で来てるんだよ、お前こそなんでここに?」
「え、サボさんも?」

 思わず聞き返して彼の話をうかがえば、革命軍という組織は一度解散になったものの、世界を周りながら相変わらず"自由"を求めて放浪しつつ、貧しい人々の手助けをしているという。今回××共和国には、とある要人の護衛を依頼されてここまで送ってきたのだそうだ。ちょうど送り届け終えて食事でもというタイミングで中に入ってみたら、キトリを見つけた次第だというから何という偶然だろう。運命という言葉はあまり好きではないが、そう言ってもおかしくないほど奇跡的なタイミングだった。同時に自身の事情も説明すると、少し意外そうな顔をして「へェ」と楽しげに笑った。
 昼食を食べに来たというサボを待って二人で店を出ると、キトリの話が聞きたいからという理由でついてきた。どのみち彼は今、組織に縛られているわけではないので時間も何もかもが自由なのだ。そういう意味で言えば、キトリの生活もサボと変わらない。受けた修理は期日が決まっているものもあるが、基本的に時間の融通がきくので一日の時間の使い方は自由である。
 キトリが店を構えているのは港から数百メートル離れた場所にあるダール露店市場だ。国最大の市場であるここは、なんと一キロにも及ぶ。衣類から雑貨、花屋、魚屋、肉屋、八百屋とバラエティに富む。そんなダール市場の一角にキトリのカビノチェも期間限定で存在するのだ。

「へェ。結構賑わってるんだな」

 市場にたどり着いてすぐ、サボが人の多さに驚いて呟いた。首都が近いこともあって、人々の生活に欠かせない台所のような存在である。そんな場所にキトリが店を開くことができたのも偶然空きが出たばかりで運がよかった。

「ここです」
「懐かしいな、これ」

 カビノチェの時計を目にしたサボが手に取ってまじまじと見つめる。五年前も同じように彼を店に連れていき紹介したことを思い出したキトリは思わず笑みをこぼした。しかしサボのほうが何かを思い出して、「あ」とこちらに顔を向ける。
「偶然会ったついでにさ、おれのも電池交換してもらっていいか?」
 と、懐から取り出したのはいつかの懐中時計――五年前の別れ際にキトリからサボへ渡したはなむけの贈り物。二年前に再会したときも持っていると見せてくれたそれは、今もまだサボに大切にされているらしい。少しだけ恥ずかしく思いながらキトリは顔を綻ばせた。

「さすがに五年も経つと動かないですよね。ありがとうございます、大切にしてくれて」
「これを見るたびに思い出すんだ。レヴァンダールっていう綺麗な都市があったことをさ」
「……」

 その言葉にキトリはどう返すべきか戸惑った。
 彼はすでに知っているようだが、レヴァンダールは一年前ついにすべてが沈んでしまった。海面が上昇しているというわけではなく、完全に町が沈下しているのだ。それを直に感じていたキトリはいよいよ移住を覚悟しなければならなくなり、両親のもとへ行く準備を始めたのだが。
 ふと、脳裏にサボのことがよぎったのは、移住を考えてから三日目のことだった。
 荷物を整理している最中、一つの懐中時計が作業机から見つかった。時計屋を営んでいるが、懐中時計は依頼のない限り基本的には製作しないのがキトリのルールだった。昔ほど需要がないのである。あれから一度も注文や修理が来なかったせいで、その存在をすっかり忘れていたが、懐中時計はキトリにとってとある青年との思い出の品だった。そしてこれは昔、練習用に作った初めての懐中時計だ。
 "サボさん、元気かな"
 時計屋とも別れるつもりでいたキトリに、サボの存在は心を大きく揺らした。目的のために一直線に向かう彼の姿を描いて、出会った頃の楽しい数日間を思い出して。そして再会したときの喜びとまた会いに来るという言葉を彼の声で再生してしまえば、もうキトリの進むべき方向は決まったも同然だった。
 レヴァンダール近海を中心として、キトリは旅する時計職人の道を選んだのである。
 胸に手を当てて、深呼吸をする。

「そうですね。この前、新聞でレヴァンダールが伝説の都市と表現されてて驚きました。世間にはもうそんなふうに思われてるのかって。でも、確かにレヴァンダールは存在した場所なんです」
「うん」
「本当は両親のところに行くつもりでした。でもサボさんの言葉を思い出したら、私がレヴァンダールの灯を絶やしちゃダメなんだって思ったんです。街がなくなっても、私の……カビノチェの時計は継いでいくことができる。アクアクォーツさえあれば」
「よかったよ、キトリがまだ時計職人してて。ここで会えたのも奇跡だよな」
「本当にそれは思います。また会えてうれしいです」

 心の底から思っている素直な気持ちをまっすぐ言葉にしただけなのに、なぜかサボが顔を赤くしたのでキトリまで恥ずかしくなってくる。なんで、前はそんな反応しなかったはずだけど。
 しばらくお互い無言になるという変な沈黙が生まれて気まずい空気になりかけたが、機転のきく彼はすぐさま切り替えて、
「……あーうん、そうだな。でさ、一つ提案があるんだが――」

 と、良いアイデアが思いついたような表情を作ってキトリを驚かせる発言をしたのである。



 絵具で塗りたくったような爽やかな空の色とキラキラ光る透き通った海の青。その両方を視界いっぱいに入れて、キトリは水平線の向こうを見つめていた。行く宛が決まっていない旅をするのは初めてだった。時計職人を続けようと決めてレヴァンダールを出るときも、行く先を一応定めてから出たし、中型の船ではあまり遠くへ行くのも困難だ。
 水平線の手前、キトリの視線にはかつて存在した都市の名残が垣間見える。ひょっこり顔を出すように、建物の頭部があちこち飛び出してまるで生き物のようだった。
「後悔してるのか」
 ずっとそうしているのが気になったのか、隣に立ったサボが尋ねてきた。
 彼が提案してきたのは、一緒に世界を旅しないかという突拍子もないことだった。自由に世界を回るサボと故郷を離れて時計職人をするキトリ。本来なら交わることのなかった二人。
 別の場所に腰を落ち着けて時計職人を志す道もあったのだが、そうしなかったのは世界中を飛び回るサボの姿を思い出したからだった。私もそんなふうに海を渡ってみたい、と。レヴァンダール近海にいれば"アクアクォーツ"に困ることはないし、定住を考える必要もない。これまで通り船での生活をしながら、カビノチェ製の時計を世界に残していくことができる。そう考えて旅する時計職人を始めた。
 それを知ったサボが「ならば共に世界を」と提案してきたのが先刻のことである。お互い縛られるものがなくなって、けれど捨てられないモノも確かにあって。だからこそサボは、一緒に大切にしようと言ってくれた。レヴァンダールをなかった存在にしないために。
「してないです。だってまた、戻ってこられるから。それに……」
「ん?」
「これがあればいつでも思い出せます」
 と、サボの首からぶら下がっていた懐中時計を手に取って笑ってみせた。同じように彼も笑う。
 船はあてどもなく東へ進む。

 かつて"偉大なる航路"に浮かんでいた水上都市レヴァンダールは、長い歴史に終止符を打って完全な水没都市となった。人々はその場所を、伝説の土地であると称してこう呼んだ。
 "エルドラド"と。