月曜日

「よかったね。今日からなんでしょ当番」

 登校してすぐ、友人からそう声をかけられて何の話か逡巡してから、「当番」という単語でようやく思い至った。きょろきょろと辺りを見回して本人がいないことを確認してから友人に、「あんまり大きい声で言わないで」鞄で顔を隠してなるべく目立たないように言った。
 私のような引っ込み思案の女が、クラスでもひと際目立つ男の子を意識しているなどと知られたら笑い者に違いない。
 朝の八時を過ぎると、生徒が登校する時間帯のピークがやってくる。彼はどちらかというと始業時間ギリギリ組だが、部活の朝練があると八時にはもう教室にいることもあるのだ。

「これを機に仲良くなればいいじゃん」
「無理だよ。っていうか、私は別に仲良くなりたいなんて思ってないし……」

 無茶を言う友人に、私はすぐさま諦めと否定の言葉を返した。正確にはなりたくないわけじゃなくて、なれないのだ。彼女はどうやらあの一件以来、私が彼を気にしていると思っているらしい。間違ってはいないが、だからといって仲良くなりたいというのが高望みだとわかっているので大きな期待はしない。
 五月の連休が明けて、クラスの雰囲気にも少しずつ慣れてきた頃。私の中の一大イベントが始まろうとしていた。図書委員会に所属する人間は、昼休みと放課後にカウンター当番がある。これが一週間おきで回ってくるのだが、いよいよ今日から金曜までうちのクラスが担当することになっていた。
 そもそも彼は当番があることを覚えているだろうか。四月の委員会で決めたシフトなのでもう忘れているかもしれない。だとしたら、私から声をかけなければならないがそれはそれでハードルが高くてできないかもしれなかった。

「あーー、サン?」

 鞄から教科書を取り出しているさなか、突然名前を呼ばれて「わっ――」と驚いた拍子に、持っていたものを床へ落としてしまった。性格もそうだが、こういう鈍くさいところも自分の好きではないところだ。声で"彼"だとわかって余計に恥ずかしい。取り繕うこともできず慌てて拾おうと体を屈めたら、ひょいと落ちた教科書を先に拾われて、「ほら」と渡された。

「ごめん、なさい。えっと……私に用事?」

 サラサラの黒い髪にそばかすをたずさえた男の子。彼――ポートガスくんが私の目の前に立っていた。これまで話したことはほぼない(そもそも二年生になってから初めて同じクラスになったので接点もなかった)。

「いや、今日から委員会の当番があるだろ? おれ、やったことねェからわからなくてよ、どうすりゃいいんだ」
「……あ、昼休みと放課後に図書室に来て、貸出返却の手続きとかをするんだけど、私やったことあるから、まか、せて」
「げっ、放課後も仕事があんのか。かったりーな」

 がしがしと頭を掻いて少し気怠そうに言ったポートガスくんが、「仕方ねェ。じゃあよろしく」と軽く右手をあげて、くあっと欠伸をしながら自分の席へ向かっていく。やっぱりどこか気怠そうに見えた。
 五月時点ですでに気温は真夏のような暑さが続いているせいか、半袖を着用している生徒もいる。ポートガスくんも真っ白な半袖のワイシャツを着て、お洒落なアクセサリーを首から下げていた。185センチというのは高校生男子でも比較的高いほうだと思うが、平均身長より低い私からするとかなり高く感じてしまう。どっかりと自席に座った彼は、鞄から荷物を取り出すでもなくなぜか机に突っ伏してしまった。その様子をぼうっと見ていた私は、隣から視線を感じてハッとする。友人がにやにやしながらこちらを見ていた。

「ま、頑張って! 応援してる」

 ひらひらと手を振って友人もまた自分の席へ戻っていった。のんきな発言に苦笑しつつ、残りの教科書を机の中に詰めていく。そういえばシフトを覚えていてくれたことに気づいて思わず笑みがこぼれた。忘れていなかった事実に嬉しくなる。期待で胸が膨らんでいく。

 ポートガスくんと話したことはほぼないというのは事実だが、私は一方的に彼を知っていた。
 月曜日の朝。彼との図書当番がはじまる。


 ▽


 エースの中でという女は、はっきり言って印象が薄かった。二年になって初めて同じクラスになったことと偶然同じ委員会になったことは認識しているものの、四月の委員会で初めて会話(しかも業務連絡程度)をしただけだ。
 全員が委員会に入る必要はないのだが、あいにくじゃんけんで負けて仕方なく図書委員になってしまったエースはどうやら週替わりで当番があるらしいことだけを理解していた。四月のときに言われたのが、五月の連休明けの週が自分のクラスが担当だということ。生まれてこの方図書室なんて気難しい場所に行ったことのないエースは当然何をするのかわかっていないので、だから彼女に話しかけた。
 びくりと肩を揺らして、その拍子に教科書を落とした彼女はエースが想像していた通り鈍くさい女だった。それだけならどこにでもいるだろうが、彼女の場合は少し違う。挙動不審というか全体的におどおどしている。簡単に言えば、言いたいことを飲み込んで腹の中に蓄積していそうな難儀な奴だった。

 四時間分の授業を終えてようやく昼休みがはじまる。親友のサボと昼飯を食ったあと、仕方なく図書室へ向かったエースは二年目にして図書室が昇降口のすぐ近くだということを教えてもらった。親友曰く、一年のときに校内見学で一度は来ているらしいのだが記憶にない。
 教室を出て中央階段を下りていき昇降口のほうへ向かうと、はたしてそこに図書室があった。高校にある図書室なだけあって結構広いらしい。ガラス扉をくぐって中へ入る。すぐ目の前に見えたカウンターにちょこんと座っている小さな人間が見えた。だ。何やら右手に変な機械を持って接客中だった。

「わりィな、少し遅れちまった」

 若干気まずい思いでカウンターのそばまで行く。気づいた彼女がぱっと顔を上げて、やっぱりびくっと肩を揺らした。それから「ポートガスくん」とぎこちない言い方で呼び、カウンター内側の椅子を案内してくれたので背もたれのないそこにどっかと座る。
 エースは一匹狼ではないものの、かといって必要以上に馴染んでいるわけでもない(サボといるのが気楽だ)。しかし男子に限らず女子も「エース」と呼ぶのに対し、彼女は「ポートガス」というで自分を呼んでいた。それがどうも面映ゆく感じて背中がむずがゆい。

「で、おれは何をすりゃあいい」
「えっとじゃあ……今日は日誌をお願いしてもいい?」恐るおそるといったふうに聞いてくる。
「日誌?」
「この紙に来館者の人数を正の字で記入するの」

 と、言って見せられたのはピンク色のファイルに綴じられた図書日誌と書かれたノートだった。律儀に一年から三年まで書く場所が設けられていて上履きの色で判断して書くらしい。細かくて面倒くさい仕事だ。カウンターに置いてあるペンを適当に取って、とりあえず今いる分を数えるために席を立った。
 閲覧席には一学年上の三年が数人勉強しているのと、本を読んでいる生徒が数人。本棚と本棚の間も一応チェックしたが、別々の場所に一人ずついたのでそれもカウントしておく。館内を一周してから再びカウンターに戻る。

「ありがとう……っ」

 なぜか勢いよく席を立ったが何もないところでつんのめったので、エースは条件反射で彼女の腕を支えた。程よく焼けている肌だったが、自分が掴んだら折れてしまいそうな細い感触に、「おいっ、危ねェだろ」と、驚きを誤魔化すように少し荒々しい口調になった。
 彼女の動作は相変わらず鈍くさくて、バスケ部で機敏に動ける自分から見た彼女の緩慢さは苛立ちを覚えてしまう。
 そもそも図書委員なんて真面目な人間がやりそうな委員会になったこと自体が不本意だった。当番があるのも選ばれてしまってから知ったためにどうすることもできない。じゃんけんで負けたとはいえ、一度引き受けた仕事を放棄するのはエースの美学に反するからだ。

「ごめんね、ありがとう。やっぱりポートガスくんって運動神経いいんだね」

 こちらの苛立ちをまるで理解していない彼女が突拍子もないことを言ってきたので「は?」と思わず棘のある言い方になった。

「今はそんなことどうでもいいだろ。元々おれは図書委員なんてやるつもりなかったんだ、昼休みは自由に過ごしてェからな」言うつもりのなかった言葉が口をついて出る。頭の冷静な部分がやめろと信号を送っているのにできない。それどころか、「もうチャイム鳴るから帰っていいか」早くこの居心地の悪い場所から立ち去りたくてそんなことを言った。

「……あ、うん。ごめん、なさい」

 傷ついた顔で謝る彼女を、エースは一切顧みなかった。やりたいわけじゃなかった図書委員をやる羽目になり、そのパートナーが鈍くさい女で、どうしてこんなに自分が苛々しているのかがわからず、図書室だということも忘れて乱暴にガラス扉を閉めた。