火曜日

 怒らせるつもりはないのに、昔から「さんってノリ悪いよね」「嫌なら最初から嫌って言えばいいのに」と相手の気分を害してしまうことが多かった。考えれば考えるほど困らせることを言ってしまう気がして、いつしか会話をすることに躊躇いが生じるようになった。気心の知れた人、私の鈍(のろ)い部分を理解してくれている人は別だが、そうでなければ鈍くさいと罵られても仕方ないくらいには私の動作は緩慢だ。昨日のポートガスくんも、だから転びそうになった上に関係のない話をした私にあんなことを言ったのだろう。ショックじゃないと言えば嘘になる。彼と一緒に当番ができることに期待していた自分を恥ずかしく思った。
 火曜日は確かバスケ部の朝練がある日だった気がするが、教室をのぞくとまだ来ていなかった。昨日の今日でどう接していいのか迷っていたので胸をなでおろす。とりあえず朝はなんとかやり過ごすことができそうだと安心して一歩足を教室に踏み入れようとしたとき、「おはよう」と後ろから声をかけられた。

「ひっ」

 まだ八時を過ぎたばかりで、生徒もまばらだと油断していたからかもしれない。まさか声をかけられるとは思っていなくて変な声を出してしまった。私の反応に声をかけてきたほうも驚いて怪訝な顔をしたが、昨日みたいなことになったら困るので、

「ぽ、ポートガスくん。おはよう」私にしては珍しく早く言葉を紡いだ。
「おれ、今日は部活の集まりで昼休み行けねェんだ。わりィが当番一人で頼んでもいいか?」

 昨日の態度と打って変わって、殊勝な聞き方に面食らった私はワンテンポ遅れてその内容をかみ砕く。エナメルバッグを斜めがけにしている彼は、バスケ部のエースだと把握している。どうやら今日は部活の用事があるらしく、抜けられそうにないとのことだ。

「わ、わかった。大丈夫、慣れてるから……」

 目を見るのが怖くて視線をあちこちにさまよわせた挙句、結局自分の言いたいことだけを言ったあとは逃げるように自分の席に戻った。その態度にポートガスくんがどう思ったかはわからないが、またきついことを言われるより幾分かマシだった。





 昼休みの図書室の利用はそのほとんどが自習だ。読書目的で来る生徒は限られているので、カウンターの仕事といっても実質貸出返却がなければ人数のカウント程度である。火曜日の今日は、自習スペースが満席で上履きの色を見ると見事に全員三年生だった。五月といえども意識の高い受験生は昼休みも勉強に費やすらしい。まだ二年の私には考えられないことだった。
 いつものようにカウンターの丸椅子に座って、貸出返却システムを起動させる。その間に日誌を書いておき、あとは人が来るまで読書する。これが一年のときから図書委員を担当している私なりのスタイルだった。高校生にもなると図書館で本を借りる生徒の数はぐっと下がるし、どちらかというと学習で利用する人のほうが多いのだ。
 持ってきた本を開いてしばらく読んでいると、扉の開閉する音が微かに聞こえてそっちに視線を向ける。タイミングが良かったのか悪かったのか、入って来た人間もちょうど正面のカウンターに座っている私のほうを見ていて目が合ってしまった。
 あ――思わず声が出そうになったところを踏みとどまって軽い会釈だけした。上履きの色は緑、同じ二年だ。ウェーブがかった金髪が目立つ男の子で、人の良さそうな顔をしている。そういえばどこかで見たことあるかもしれないなんて思っていると、なぜか彼がこちらに向かって歩いてきた。

「これ返却で」

 一冊の本をカウンターの上に差し出した彼は今どきの高校生が読むには少し難しい海外の古典文学だった。本好きの私でも読むのに一苦労しそうな厚みのある本なのにすごいと純粋に尊敬の眼差しを向けていたら、彼が突然ふっと笑い出したので我に返る。

「聞いてるか」
「えっ、あ、ごめんなさいっ……返却ですね」

 慌てて本のバーコードを読み取り、返却の手続きを行う。
 やってしまった。本に夢中になって肝心の仕事を忘れるとは。ちらりと目の前の彼をうかがうと、表情はにこやかなまま怒っていない様子だったのでほっと息をつく。手続きを終えた本は借りた本人が元の場所に戻すのが原則なので、そのまま彼は書架の陰へ消えていったが、しばらくも経たないうちに再びカウンターへ戻ってきた。その手には新しい本が抱えられていて、表紙が見えた瞬間思わず、

「わ、すごいっ……! その本、途中で諦めちゃったから結末知らなくて気になってるけど、まだ読めてなくて……」口に出してしまっていた。当たり前だが、彼は突然話しかけられてぎょっとしている。「あ、えっと……ごめんなさい。前に借りたことがあった本だったので」
「アンタがエースと一緒に当番やってる子か。なるほど、こりゃエースじゃ手ェ焼くな」

 彼の口から「エース」という単語が出てきてぴくっと体が反応した。どうやら彼はポートガスくんの知り合いらしい。



「で、結局朽ちていくってわけだ」
「じゃあドリアンは自分で自分を刺したってことなんだ」

 金髪の彼は名前をサボと言った。ポートガスくんとは昔からの親友で校内でもよく一緒にいるという。クラスが違うのにサボくんのことを見たことあるかもしれないと思ったのは、そういう理由だったのだ。
 自習する生徒しかいないのをいいことに、彼は私の話に付き合ってくれていた(もちろん小声)。読書は好きなほうでよく読むが、自分の好きなものだけに特化しているから幅は広くないと謙遜しながらも、私の質問にしっかり答えられることから察するに結構な数を読んでいるように思う。

「話変わるけど、あいつ本当は優しい奴だからさ。嫌わないでやってくれるか」
「え?」
「エースのこと」

 言ってから、サボくんの表情が柔らかくなる。本の話題から急にポートガスくんの話になって心臓がどくんと音を立てた。今日の朝に会話をして以来、結局喋ることはなく昼休みを迎えてしまった。元から話す機会もなかったから、こうして同じ委員会になることがなければ一年間交わることなんてなかったかもしれない。

「嫌うなんて、そんなことないよ。あと、ポートガスくんが優しいのは知ってる」
「へェ……そうか。そりゃよかった」

 自分のことじゃないのに、満面の笑みで心底嬉しそうな様子に面食らう。親友のことが余程大事なのだろうか、この笑顔はどこかポートガスくんに似ている気がする。物腰柔らかで話しやすい。私の鈍くさい部分に嫌な顔せず、会話に付き合ってくれる優しさもある。自然と私の表情にも笑みがこぼれて、気づけば昼休みは残すところ五分だった。

「ほんじゃ頑張れ」

 右手を軽くあげてサボくんがカウンターを去っていく。その後ろ姿を見つめていると、何かを思い出したように入口で立ち止まった彼が振り返る。これありがとなと本を掲げたので、どうやらお礼を言うために立ち止まってくれたらしい。そんな些細な優しさに私は嬉しくなって、彼に手を振った。
 このときの私たちを、ガラス扉の向こうで誰かが見ているなんて私は知る由もなかった。





 授業を終えてそのまま部活に行こうとしたところで、放課後の当番があることを思い出したエースは深いため息を吐いて図書室へ向かった。ガラス張りだからすでに館内の様子がここから見える。カウンターにはすでに彼女が座っていて読書をしていた。
 扉を開けて無言のままカウンターの内側まで進みエナメルバッグを置く。例の背もたれのない椅子に座ってから昨日と同じように人数カウントのために席を立った。

「あ、ポートガスくん。お疲れ、さま」

 ぎこちなく声をかけられて彼女のほうに体を向けると、何もしていないのにびくびくしていたので思わず眉を顰める。何だよそれ、まるでおれが怖ェって反応――ふと、脳内に昼休みの光景がよみがえった。
 バスケ部の集まりがあるというのは事実だったが、思いのほか早く解散になったのでエースは気になって図書室のほうに足を向けていた。「行けない」と伝えてあるのだから別に行かなくてもよかったのに、昨日のことがエースの中でわだかまりとなって残っていたせいでどうも気になって仕方なかった。とりあえず覗いてみるだけでもと思って、ガラス扉に顔を近づけたエースはその場に縫いつけられたように動けなくなった。
 いつものようにカウンターで仕事する彼女のほかに、別の――それもエースのよく知る人間がそばにいて、楽しそうに話し込んでいるのが見えた。彼女の見たことのない笑った顔がやけに印象的で、それを向けている相手が親友のサボだと思うと無性に胸がざわついた。

「なんだよ」

 お疲れさまという言葉に対しての返事ではなく、口をついて出たのは素っ気ない一言だった。おれはバカか。これじゃあ昨日と同じだ。頭ではわかっているのに、ぽろぽろと口から飛び出すのは彼女を傷つけるような言葉ばかりだった。

「おれは仕事だから仕方なくやってるだけだ。本当は早く部活に行きてェし、図書委員なんて興味ねェモンやらされて迷惑してんだ」
「う、ん……ごめんね」

 彼女の声のトーンが下がる。俯きがちだった顔がさらに下を向く。
 謝ってほしいわけじゃない。別に彼女は何も悪くないし、謝る必要はどこにもないのに。どうして自分はこんな酷いことしか言えないのか。昼間の光景を見て彼女はサボのことが好きなのかもしれないと思ったら、ガキみたいな言葉しか浮かんでこなかった。このあたりでやめとけばいいのに、エースの頭は血が上ってもう止まらなかった。

「サボのことが好きなんだろ? それでおれと仲良くなろうとしてんなら筋違いだ」
「……? ま、って……、どういう意味……」
「数えてくる」

 胃がキリキリと痛んだ。彼女の「どういう意味」と困惑気味に聞いてきた言葉を無視して、エースは日誌を持ったまま館内を一周していく。
 彼女の弛緩した顔とサボが見せた柔らかな笑み。二人の笑顔がちらつく。親友は社交的で、交流関係は広いほうだが、本当に心を開いている人間は限られている。だから意外だったのだ。彼女に見せていたあの表情が。
 この日は結局、カウンターに戻らないまま仕事が終わる時間まで館内を適当に歩き回ることで彼女と極力接触することを避けた。どうしてこんなに苛々するのか自分でもわからず、部活でもその苛立ちをぶつけるようにいつも以上に練習に熱を入れて臨んだ。