水曜日

さんって可愛い子だよなァ」

 学校に向かっている途中、サボが唐突に漏らした台詞にエースは飲んでいた缶ジュースを吹き戻しそうになってむせた。「なんだよエース。汚ェぞ」怪訝な顔で見られて、お前のせいだろとは言えず「いや、わりィ」と返すのが精いっぱいだった。
 サボとは家が近所なので、朝練がない日はこうしてともに学校へ向かう。一緒に暮らしている義弟のルフィのことや家のこと、学校のことなど日常的な会話をしていたはずだったが、学校も目前の坂道の途中でサボがの話題を出すからわかりやすく動揺してしまった。

「……お前、あいつと知り合いなのか?」

 昨日、二人でいるところを目撃していながらあえてそんな質問をした。聞いてどうするつもりなのか、エース自身よくわかっていない。そもそもクラスが違うのに、どうしてサボが図書室でと話していたのか、頭の中は疑問だらけだ。確かに当番の話はしたが、その相手のことまでは――いや、初日に面倒な女と当番やることになったと言った気がする。

「知り合いってわけじゃねェよ。たまたま本を返しに行ったらあの子が手続きしてくれただけだ。そうしたら、エースと当番してる子だって気づいたんだよ」
「ふうん」

 興味のないふりをして短い返事で済ます。そういえば、サボはたまに図書室に行くと言ってふらっと消えることがある。本と無縁の生活を送ってきたエースには、それこそ図書室の場所などつい最近まで忘れていたが、サボは定期的に通っているらしい。
 のろのろと歩いているエースたちの横を自転車通学の生徒が追い越していく。通学路としてはなかなかキツい坂道だが、丘の上にある高校なので仕方ない。もっとも、エースもサボも体力には自信があるのであまり苦ではないが。
 をかわいいと称すサボの横で、エースは坂を睨みつけて歩いていく。落ち着かない。こいつ、まさかあの女のことが好きなのか……?

「エースが言うほどビクビクしてねェけどな。まあ小動物ってところだろ」
「なら当番変わってくれ。おれは部活に行きてェんだ」
「ガキみたいなこと言うなよ。お前は自分の仕事を放棄するような奴なのか?」
「……」

 正論を言われて口をつぐむ。サボはこういうときだけ優等生ぶるから言い返せない。いや、エースも優等生とはいかないまでも、決められたことを疎かにする人間ではないが。
 そもそもどうして急にの話題を持ち出したのか。まさか本当に彼女に気があるのかと疑いたくなって、親友の顔をじっと見つめる。たまに真意が掴めない奴だと思うことがあるが、親友だからといってすべてを晒す必要はない。サボとの間にだって一応の線引きはある。彼女を好きだろうと、だからエースが気にする必要はどこにもない――ないのだが。

「今日をいれてあと三日だろ。普段は部活漬けなんだ、そのくらいクラスに貢献してもいいんじゃねェか?」

 他人事だと思って笑いながらのたまう親友を憎らしく思った。どうも面白がっている節が否めないが、サボの言うことには一理あった。一年の頃から部活ばかりに時間を費やして、係や委員会、それから文化祭といった行事にはことごとく非協力的だった。しいて言うなら体育祭は運動部の活躍の見せ所なので順位に貢献した程度。
 "おれは仕事だから仕方なくやってるだけだ。本当は早く部活に行きてェし、図書委員なんて興味ねェモンやらされて迷惑してんだ"
 へ言った台詞を反芻する。エースの心をいちいちかき乱す彼女の行動を見かねて吐いた言葉が、今になって鋭利な刃物で彼女の心を突き刺したのだと思い知って、サボの言う通り自分のガキっぽさに呆れる思いだった。あれは、ただの八つ当たりだ。


 ▽
 

 当番はすでに後半に突入しているというのに、相変わらずとの関係は微妙だった。水曜日の放課後、今日は唯一バスケ部の活動がない日なので急ぐ必要もなくただ時間が過ぎるのを待つだけで、彼女との間に会話はほぼない。放課後の利用者もほとんどが自習生徒で、カウンターで本を借りていく奴は一人いるかいないかのごく少数。静かな図書室で、来館者を数えるために椅子に座ってぼうっとしているというのは体を動かすことが好きなエースにとって苦痛だった。

「い、忙しいのにごめんね。ポートガスくんにはつまんない仕事、だと思うけど……今日はこっち、やってみない?」

 沈黙に耐えかねたとでもいうように、がおどおどしながらカウンターの上にあるパソコンを指差す。”こっち”というのは、システムのことだろうか。確かにいつもエースが来館者のカウント、彼女が貸出返却手続きと同じ作業だったので、退屈しのぎにはなるかもしれない。
 しかしエースにはひとつ、気に食わないことがあった。
 サボに対する態度と違いすぎる。昨日サボにはあれだけ笑っていたくせに、今の彼女はこちらの機嫌をうかがいながら、恐るおそる話しかけているような雰囲気だ。まあ暴言を吐いた自覚はあるから仕方ないかもしれないが、妙に苛々する。やっぱりサボが好きなんじゃないのかと疑ってしまう。

「暇つぶしにはなる。教えてくれ」

 とはいえ、昨日のような態度を取れば結局同じことの繰り返しだ。を傷つけた後ろめたさもあったエースは、ひとまず彼女から貸出返却の仕事を教わることにする。「つまらない仕事」と言わせてしまっていることも、エースの心を深く抉る要因となっていた。

「も、もちろんだよっ……!」
「……おう。頼む」

 落ち込んでいたと思ったら急に表情が明るくなって、逆にエースは面食らった。頬が緩んだ楽しそうな顔にしばらくぼうっとしていたら、が水を得た魚のように「まずはね」と語りだしたので、エースは慌ててパソコンの画面に視線を移した。
 彼女の話し方は相変わらずゆっくりで、もの言いたげな視線をちらちらこちらに向ける場面もあったが、説明はすごくわかりやすく初めてのエースにも難なくこなすことができそうだった。バーコードというものを読み取るらしい。これがコンビニとかで見かける機械と似ていて意外と面白いのもエースの興味を引いた。
 こうして説明を受けているうちに閉館時間の午後五時になり、自習していた生徒たちがそろぞろと帰る支度をはじめた。一度司書教諭が様子を見に来たが、問題ないとわかるとすぐに職員室に戻ってしまったのでそんな適当で大丈夫なのかと思わなくもない。
 生徒全員が図書室を出ていったあと、図書委員が閉館作業を行う。窓の戸締りから椅子を机に入れて、最後にカウンターのパソコンやプリンタなどの電源を落とす。エースが日誌を書いている間に、はテキパキと戸締りを済ませてきたようで、カウンターまで戻ってきた。

「あれ、ポートガスくん。髪の毛に、ゴミがついてる」
「は? どこ――」ぐしゃぐしゃ頭を触ると、「ちょ、ちょっとまって、そんなぐしゃぐしゃにしたら余計に……私がとる、から……」言いながら近づいてきたので思わず身構えた。

 そのとき、ふと何か良い香りが鼻をかすめてエースは体が硬直したように動けなくなった。これは花の匂いか……? そしてすぐ、髪の毛に触れる感触がして肩が震えた。が真面目にゴミを取ろうとしてくれている一方で、エースの心臓はどくどくと激しい鼓動を打っていた。鈍くさいくせに、このときばかりは機敏に動いているのも不意を突かれる思いだった。

「とれたよ」
「……」
「ポートガスくん……?」
「……ッ、わりィな。助かった」
 動揺を誤魔化すようにエースはエナメルバッグを持って立ち上がると、「ちょっと寄るとこあるから鍵の返却は頼んでもいいか」
「あ、うん……わかった。また明日」
「おう」

 とにかく図書室から逃げたい一心でガラス扉をくぐって昇降口へ向かう。寄るところなんかない。今日はサボも先に帰っている。それでもと最後まで一緒にいるよりはマシだった。彼女のほうから何か言いたそうな雰囲気が見て取れたが、あえて気づかないふりをした。
 調子が狂う。訳が分からない。やめてくれ。胸の中に渦巻く感情を追いやるように、エースは足早に学校を出た。