とある土曜日

 あれは、二年に進級してから最初の土曜日のことだった。
 部活で朝から学校に来ていた私は、早く来たついでにという理由で先生から体育館前の花壇の雑草取りを頼まれた。一面だけだからすぐ終わると言われてしまえば断ることができず、首を縦に振って体育館と校舎の間の花壇まで向かう。一度外履きに履き替えてから校庭を通って来ることになるのだが、すでに運動部のいくつかが活動をはじめていて、走ったりストレッチしたりする光景が見えた。体育館の扉の隙間からも声が聞こえるので、どうやらこっちもはじまっているらしい。
 渡された軍手と小さな鎌とゴミ袋。ジャージで登校してよかったと長い息を吐いてしゃがみ込む。先生の言う通り、思っているほど雑草は花壇を荒らしていないので三十分もあれば終わるだろうが、何せノロマなので必要以上に時間がかかる可能性はある。こういうとき、手際のよい人間であれば適度に手を抜けるのかもしれない。けれど自分の性格がそれを許さないので、だからそれが「ノリが悪い」につながってしまうことがあるのだ。
 そうして朝の八時過ぎから、鎌を使って端っこから雑草を取り除いていく作業を黙々とこなし、花壇の半分くらいまで終わったところで一度休憩しようと立ち上がったときだった。

「お前、まさか下りられなくなっちまったのか?」

 大きな呆れ声が聞こえて誰だろうと辺りを見回す。校庭はサッカー部と陸上部が、体育館はバスケ部が利用していて、それ以外の生徒はいないはずだ。
 しかし、体育倉庫の奥に見える木の下に人がいることに気づいて「あ」と思わず声を出す。

「あれは……ポートガスくん?」

 クラス替えをしてから一週間も経ってないが、それでも学年の中には目立つ人間が少なからずいる。そのうちの一人がバスケ部で活躍しているポートガス・D・エースくんだった。一年のときは名前だけ聞く程度でよく知らなかったのが、二年になって初めて同じクラスになり、間近で見て確かに女子たちが陰で騒ぐだけあってキラキラしていると実感した男の子だ。
 バスケ部が練習しているなら当然彼もいるということに今さら気づいたのだが、どうして外に、しかもあんなところにいるのだろう。と、首を傾げたところで彼の手に握られたバスケットボールが目に入る。格好は練習着だし部活には参加しているみたいなので、もしかしたらボールが外に転がってしまったのかもしれない。とはいえ、誰に向かって話しかけているのか気になった私は気づかれないように体育倉庫まで近づいて、陰からそっと様子を見守る。

「ったく、下りられねェなら登ったりすんなよ。ほら」

 ボールを地面に置いたポートガスくんが、背の高い木の幹に向かって両手を差し伸べた。その方向をたどって視線を向けた先にいたのは――一匹の猫。グレーの毛並みの野生だろうか、びくびくしたままその場を動けないでいる。どうやら彼は下りられなくなった猫を助けようとしているらしい。
 しかし、両手を広げて構えている彼と違って猫のほうは踏み出すのを躊躇っているようで、なかなか動こうとしなかった。鳴き声で自分を奮い立たせようとしているのか、先ほどからにゃあにゃあと鳴いている。

「怖がるな。おれがここで受け止めてやる」

 動こうとしない猫に向かってポートガスくんが強めの口調で言った。猫に言葉が通じるのかはわからなかったが、彼の強い瞳が猫を見つめる。猫も心なしかじっと彼のほうを見ている気がした。
 やがて鳴き声が止んだかと思うと、猫が勢いよく彼の胸に向かって飛び込んでいく。よく見れば体の小さい猫だ。確かにあの体では下りるのに勇気が必要だっただろう。

「よし――って、お前くっせぇーな。どこ歩いてきやがった」

 抱えた猫に顔を近づけたポートガスくんの表情が歪む。さっきまでの緊張感が消えて、猫も安心したように彼の腕の中でじっとしていた。
 ――優しいんだな。
 見て見ぬふりをすることだってできただろうに、練習を中断してまで猫を助けたのだ。彼の内面をはじめて知ったのがその一連の出来事だった。
 そのすぐあと、体育館の扉から「こらエース。お前ボール取りに行くのに何分かかってんだ」と仲間から注意されてしまい、「へーい」と適当に返事をした彼が猫を地面へ離してこっちに向かって歩いてきた。私は慌てて花壇のほうに走って戻り、作業をしているふりをしながらちらっと後ろのほうを盗み見る。猫がふらふらとあてもなく歩き出したのを見た彼が、「もう変な場所に行くんじゃねェぞ」と大きな声で気ままな背中に話しかけているのを見て、思わずクスッと笑いがこみ上げたのは秘密だ。