金曜日(2)

 サボに言われて最終日の身の振り方を考えていた夜。先輩から連絡がきて、明日の昼休みに体育館集合がかかったので二回あるチャンスは一回になった。にかける言葉をずっと考えて、しかし何が正解なのかわからず結局答えを見つけられないまま金曜日を迎えてしまった。
 この状態で彼女に声をかけるのはエースでも躊躇いが生じる。そう思って、昼休みの件はサボに伝言を頼むことにした。親友は文句ひとつ言わずに引き受けてくれたが、今度昼メシを奢る羽目になった(自分のせいなので仕方ない)。
 朝練を終えたエースが教室に来たとき、すでに彼女は席に座っていつも一緒にいる友人と歓談していた。当然のことながら、目が合うことはないのでエースもそのまま彼女を素通りしようとしたところで、「ポートガスくん」という彼女特有の言い方で呼び止められた。名前を呼ばれて無視するほど、エースは冷淡ではない。ただ、まさか向こうから話しかけてくるとは思わず、自分にしては珍しくロボットのような動きで彼女のほうに体を向けて、努めて平静に「何だ」と答えた。

「おは、よう……今日で当番最後だから、よろしくね」

 そしてこっちも珍しくエースの目をしっかり見て――笑っていた。エースからしてみればぎこちない下手くそな笑い方だったが、彼女なりの精いっぱいだろうことが伝わる笑顔だった。無理やり笑おうとする必要などないのに、自分がそうさせているのだと思うと胸が痛む。よく見れば、彼女の目元が少し腫れぼったい。気づかなければよかったのに、一度気になるともう駄目だった。今の痛々しい彼女を作ってしまったのは紛れもない自分自身だということを。

「……ああ」

 結局、素っ気ない一言でしか返せず後ろめたさを抱えたまま自分の席に向かった。彼女のほうは一切見れなかった。昨日あんな告白をしておきながら普段通りでいようとする姿を、エースは見たくなかったのだ。
 そしてエナメルバッグから必要なものを取り出して机の中にしまうと、すべての思考を放り出すように机に突っ伏した。


 ▽


 今更だが、彼女と同じ委員会にならなければ教室ではまったく接点がないということに改めて気づかされ、今日が終わると同時に来週からは一言も話さない日々が続くのかと、図書室に向かいながらぼんやり考えていた。次の当番が回ってくるのは、クラス数から考えると夏休みが明けてからだろう。ということは、少なくとも一学期で接点が持てるのはこの当番だけになる。
 ああいう性格だからいじめられてこそいないものの、何かと仕事を頼まれている。今日はゴミ捨てを押しつけられているところを見た。きっとエースが知らないだけでこれまでにもあったのだろう。用事があると断ればいいのにそういうことが言えない奴だ。そんな彼女が異性である自分に告白するのにどれだけ勇気が必要だったのか、想像に難くない。
 ガラス張りの扉の先、正面に見えるカウンターのいつもの位置にが座っている。取っ手を掴んだまま、しばらく呆然と見つめていると彼女がこっちを見たので慌てて中に入った。
 朝の挨拶(にもなっていないが)以来だった。互いに無言のまま黙々と作業をはじめる。彼女がシステムをいじっているので、必然とエースは日誌担当になった。金曜日の放課後は補修教室があるせいか、自習する三年が少ない。いつもだったら全席うまっているスペースも、今日はひとつ空きで余裕ができている。
 来館者のカウントがおわって戻ってきたとき、彼女の視線がこっちに向いていることに気づいてその場に立ち尽くした。何かを決心したような目だ。

「ぽ、ポートガスくん。昨日の告白だけど……」

 と前置きもなくいきなり話題のど真ん中をぶっ込んできたので、「あー待て、あれは――」エースのほうから返す言葉も決まっていないのに口を開いた。

「なかったことにしてほしい」

 しかし、それを遮るように彼女が続きを口にしたので一瞬言葉を失い唖然とする。内容をかみ砕くのに時間を要してから、

「……は?」
「好きっていうのは、あの場をしのぐためについた嘘、だから……」

 泳いだ目で言われても何の説得力もなかった。そもそもあれが嘘なら相当な演技力だ。違う、こいつにそんな芸当はできねェ。
 やっぱり苛々が収まらない。どうしてそんなすぐに諦めようとするのか。まだこっちから何も言ってないというのに。しかし、その原因が自分にあることもわかっているから余計に苛々してしまう。

「ふざけんなよ。泣きそうな顔で言ってたアレのどこが嘘だってんだ。おれは認めねェ」
「だ、だって……ポートガスくんには彼女がいるから、振られることわかってるし、これ以上傷つきたくないッ……」
「……彼女?」
「昨日、見たの……親しそうに、女の先輩と話してたよね」

 言われてから昨日を振り返る。エースの中で、女の先輩といえば女バスの連中だが昨日は――あ。
 頭の中で点と点が繋がる。昨日の朝、確かに女バスの部長に呼び止められて話をした。のことを聞かれて、それで――

「あ、れは違ェよッ……! あの人は女バスの部長で、ちょっと用事があって話してただけだ。彼女じゃねェ」部長から気になるんでしょと言われたことを思い出して動揺する。近くに人がいた覚えはないので、話の内容は聞かれてないはずだが。
「そ……そうな、の……?」
「ああ。おれは誰とも付き合ってねェ」

 エースの言葉に目を見開いて呆然としていた彼女は、しかしすぐに寂しい表情を作って「でも」とうつむき加減になった。

「ポートガスくんが私に苛々してることはわかってるし、私みたいな人を好きになるはずないってこともわかってるから……だから、その……」

 拙い言い方だった。もじもじしていて目が合わない。昨日の勢いをどこかに落としてきたのか、今は少しずつしぼんでいく風船みたいに心許ない喋り方だ。
 エースは逡巡する。彼女が言う〝好き〟は、異性間における恋愛感情のことだ。これまで告白は数回受けたことがあるし、試しに付き合ってみたこともあるがあまり面白いとは思わなかった。夢中になれるものがほかにあったからだ。正直彼女に対する感情も、だからよくわからない。
 しかし、エースの中でひとつだけ揺るがない気持ちがあった。昨日は取り繕うように否定したが、もう認めざるを得ない。

「お前のことが好きかって聞かれたら正直わからねェ。鈍いし、おどおどしてるし……たまに苛々もする。けど、気にならねェと言ったらそれは嘘だ」

 今のエースが出せる最善の〝答え〟だった。好きとか考えたことない。親友のサボやバスケ仲間、義弟のルフィがいれば楽しい毎日だし、そこに新しい刺激は必要ない。エースは今の日常を愛おしいと思っていた。
 だからといって、目の前の彼女を無下に切り捨てられるかと聞かれればそれもまた否定する。最初こそどうでもよかったし、おどおどした鈍くさい奴という認識だったが、サボとの態度の差に腹が立ち、それがいつの間にかどうにかして彼女が笑ってくれないかと、そう思うようになった。
 と、そこまで思考してハッとした。……そうなのか。おれはこいつに笑ってほしかったのか。

「そ、それは、えっと……」
「だから、その、なんだ……当番が終わったら関わりがなくなるっつーのはおれも困る。見てて危なっかしいし、お前は断るってことを知らねェようだからな」
「そ、れは……これからも、話しかけていいってこと……?」
「そもそもクラスメイトなんだしいいも悪いもねェだろ」
「そっ、かあ……わかった。ありがとう」

 緊張がほどけたのか、が安心したように笑った。瞬間、エースの体がぶわっと熱を帯びる。おどおどして、いつもどこか動作が鈍い彼女が見せる笑顔は、周りの温度を少しだけ高くする性質があるのかもしれない。
 今はまだこの気持ちに名前をつけることができないが、彼女が抱く感情と同じになるのはそう遠くない未来な気がした。