Jailer and Prisoner
看守の朝は早い。起床時間は午前五時。宿舎で着替えを済ませ、身なりを整える。ここで重要なのは女であることを隠すための下ごしらえだ。中性的な顔立ちはいいとしても、体型はどうしても特徴が出てしまう。サラシを胸に巻きつけてからシャツを着れば胸の膨らみはおさえられるし女だとはまず思われないので、ここにいる間は必須事項である。
シャツを着てからネクタイをしめ、全体に広がったワイド形のボトムを履く。サイズはピッタリだが、念のためにベルトを使ってキツめに締める。
ここでは階級ごとに階級章が異なり、一目で分かるよう看守長と副看守長はゴールド、そしてロゼたち一般看守はシルバーと色で分けられる。一般看守の中でも階級が三段階あり、下からシルバーの一本線が入り、二本三本と増えていく。当然ロゼは一本だ。
準備を整えて自身の部屋から出ると、すでに先輩看守たちが支度を済ませてミーティングルームに集まっていた。ロゼも慌てて向かい先輩たちに挨拶をする。しかし、「遅ェぞ新入り!」とがなり声で咎められ思わず背筋が伸びる。ミーティング開始の五時半までまだ十分もあるのに遅いと言われる筋合いはなく非常に不服だったが、監獄は規律が厳しいと聞いていたので素直にすみませんと謝罪してから彼らの輪の中に加わった。
いざミーティングが始まると、今日の予定から囚人たちの様子の共有、要注意人物、新しく送られてくる囚人の情報など様々な内容が飛び交った。すべて監獄として当たり前の内容で特別注意するべきところはなく、ロゼが求めているユキネツソウの栽培については一切触れられなかった。もしかしたら、あらかじめ決められた日だけ研究室を開いているのかもしれない。
新人のロゼには囚人リストが手渡され、目を通しておくよう指示を受けた。ざっと六十枚ほど、この規模の監獄にしては少ないが、どうやらこれはレッドリストと呼ばれる要注意人物だけを集めたリストらしい。昨日ロゼがいた場所――第七庁舎がそれに該当するようだ。面接時に希望した通り、最も危険な場所を担当することがすでに決まっているため、身が引き締まる思いだった。あの庁舎のどこかに研究室に繋がる入口があるはずなのだから。焦らず様子を見て少しずつ探りを入れていく必要がありそうだ。
ミーティングが終わり六時を回ると囚人たちの起床時間となる。各自持ち場へ配置という看守長の号令のもと、ロゼも昨日と同じ第七庁舎へ移動した。
まず先輩から言われているのは点呼だった。ここでは管理番号という六桁の番号で囚人たちを呼んでいるようで、順番に番号を読み上げ彼ら一人ひとりが返事をする。寝坊や返事がない者は減点対象だという。
「いいか? あいつらは千点を集めることに必死だが、おれ達の目は厳しいっつーことを教え込ませる必要がある。そう易々と加点されちゃあ敵わねェからな」
先輩看守が鼻を鳴らしてひっそりと言った。
第七庁舎では点数方式で今後の待遇が決まっていくという。一年で千点を獲得すると、一から六庁舎へ移動することが可能だそうだ。点数は労働や日中の態度で日々加点されていく。どうやらここ――七番目の庁舎が監獄の中でも特に過酷というのは囚人たちの間でも有名らしい。とにかく早くここから出たい人間が多く、点を稼ごうと悪知恵を働かせる輩もいるから気をつけろとのことだった。
「じゃあおれは第二、三の舎房で点呼を取るから、おめェはしばらくこの第一舎を担当しろ」
「はい」
敬礼して相手を見送ってから、ロゼはリストの第一舎に収容されている囚人たちを確認した。名前や年齢、出身地、経歴などのパーソナルデータに加えて犯した罪の詳細、そして最後に危険度が五段階で表記されている。第一舎には要注意犯罪者、第二と第三には反政府軍の犯罪者予備軍が収容されているらしい。
一枚ずつ書類をめくっていき、第二十房に収容されているところでピタリと手をとめた。昨日の金髪の男は――名前をエルというらしい、国家反逆罪で一週間前にここへ来たようだ。危険度は五段階中、三つ目。監獄に馴染んでいない様子は、けれど日数の短さだけではない気がする。彼にはもっとほかに理由があるような、そんな気がして胸騒ぎを覚えた。
しかし、今は一人の囚人を気にしている余裕などない。あの男に対する違和感は確かに拭えないが、だからといって任務に支障が出るとも思えなかった。気持ちを切り替えて、ロゼは第一舎がある左の舎房へ向かった。
朝の点呼は、看守が来る前に各舎房の入口の前に立っていることが必須条件だという。番号を呼ばれるギリギリまで寝ている者もいるらしいが、そういうだらしない人間はすぐにわかるから減点対象になるのだそうだ。さっきの先輩の発言から察するに、加点をあげたくない理由が国側にあるのかもしれない。そしてそれが任務と関係がある可能性をロゼは密かに感じていた。
第一房の前で立ち止まり、リストの番号を読み上げる。はいという野太い声が聞こえてほっとしたのも束の間、「昨日の女男じゃねェか。お前がここの担当か? へェ、これから楽しくなりそうだな」と舌なめずりをされて思わず仰け反ったロゼの喉から「ひっ」情けない声が漏れた。その反応にますます気をよくした男が格子を勢いよく掴んで前のめりになる。
「おーおーそんな可愛い反応されるともっと虐めたくなるぜ」
「……ッ、私語は慎むように」
なんとか言葉を返して第一房をやり過ごし、二人目三人目と番号を読み上げ囚人たちの様子を確認していく。そのあとも何度か似たようなからかいの視線と言葉を投げられたが、どうにかかわして奥まで進んだ。
そうして順番に番号を呼んでいき、最後の第二十房の手前まで来たとき、しかしロゼの足はすくんで動けなくなった。昨日のことが頭をよぎり、彼の前に立つことを恐れ慄いている。あの意味深な笑みは一体何だったのだろう。まさかこちらの意図に気づいているわけではあるまい。
ゆっくり足を踏み出し、二十番目の舎房の前に立ったロゼは管理番号を読み上げた。
「管理番号、113255」
「……はい」
少しの間をおいて男が返事をする。視線はこっちではなく、別のところに注がれている。気づかれないように、ロゼはちらりと男へ目を向けた。改めて見るとやはり自分とそう変わらないぐらい若いし、国家反逆罪を犯しそうな顔には見えなかった(まあ顔立ちだけで判断できるものでもないが)。
少なくとも第一舎の中では一番柔らかい印象を受ける男で、身長も一般的な成人女性の平均身長より高いロゼでも見下ろされる位置にくる。格子を隔てているので威圧感はないが、目の前に立たれたら雰囲気にのみ込まれそうだった。立場的に言えばこちらが圧倒的に有利であるのに、彼の前ではそれが通用しない気がして言いようのない不安がよぎる。
――いや、怯むな。私の使命は研究室にあるユキネツソウの種をすべて回収すること。それが終わるまで泣き言は言わない。
首を横に振って無理やり思考を断ち切り、ロゼはひとまず点呼を終えたことに胸をなでおろした。来た道を戻りながら朝食の配膳の仕方を脳内でシミュレートし、先輩に言われたことを思い出す。膳には決められたもの以外を乗せないことはもちろん、回収の際も余計なものが紛れていないかチェックする。基本的に第七庁舎の囚人は労働や入浴以外で他人との接触ができないので共謀して何かをすることは難しいが、万が一という事態に備えておけというのが先輩からの教えだった。
そしてもう一つ注意しなければならないことがある。
配膳の際の囚人との接触だ。仮に舎房を抜けても中央の見張り台には必ず看守がいるため脱走することはほぼ不可能だが、配膳している間は当然舎房の開閉があり、看守も出入りをすることになる。監獄の作り上、配膳用の小窓はないので仕方ないことだそうだ。そしてその隙を狙って脱走を試みた囚人が、過去に数名いたという。いずれも見張り台の看守に捕まったそうだが、看守に牙をむく囚人は少なくない。お前は特にその顔だから気をつけろ。先輩にはそう言われた。
本来なら囚人たちが自ら配膳を行うのに対して、第七庁舎だけはすべて独自ルール。看守長が決めた規則に従って流れていくらしい。
*
朝食の配膳は点呼同様ロゼが第一、先輩が第二、三の舎房を担当することになった。しばらくはすべての業務において、第一舎を任せられたようだ。台車に十人分乗せて二回に分けて運ぶ、それが七庁舎における規則だった。
ガラス張りの天井の舎房は、晴れていると本当に明るくて一見監獄だとわからない。左右交互に各部屋が作られているため、左側に奇数、右側に偶数の舎房が見える。ロゼは順番に食事を運び、そのたびにからかわれたり、じろじろ見られたり、鬱陶しい視線を投げられたりした。
すべてを上手くかわし、ようやく最後の二十番目の部屋――例の金髪男の部屋まで来ると、彼はベッドの上で読書をしていた。鍵を開けて中に入り、「失礼します」食事を小さなテーブルの上に置く。昨日のことがあってから彼に対して変に意識してしまっている節があり、それが態度に出ていないか自分で心配になる。囚人相手に臆するとそれを逆手に取られて付け込まれると先輩に釘を刺されているので、どうにか看守としての威厳は守らないといけない。
ひとまず問題なく終えたことにロゼがほっとして背中を見せたとき、しかし「少しいいですか」と後ろから声をかけられて動揺した。ゆっくり振り返ると、男が本を閉じてロゼを観察するようにじっと見ていた。
「余計な私語は慎むよう言われているはずです」
「大したことじゃない。早くしねェと怪しまれるぞ」
話し方が看守に対するそれまでと異なり、馴れ馴れしい態度へ急変した男にロゼの警戒心が強まった。
この場合、無視するほうがいいのか、それとも大人しく聞いておいたほうがいいのか。頭の中で逡巡して、けれどすぐに答えは出た。第一舎の担当になった以上、この男に接触する機会は自然と多くなるため変に近づいてこちらの思惑を知られたら困る。立場は看守と言っても身分を詐称している時点でロゼも危うい場所にいることに変わりない。
ロゼは男の発言を聞き入れないことにした。幸いなことに朝食後は労働時間になるので、一対一で顔を合わせることもない。舎房を後にしようとしたロゼを、しかし男は許さなかった。右腕を引っ張られたかと思うと、そのまま簡易ベッドに引きずり込まれて気づけば男に押し倒されていた。
眼前に男の顔と薄汚れた鉄筋コンクリートの天井が見える。初めて近くで見る男は昨日の印象通り、精悍な顔立ちで女受けの良い雰囲気を持っていた。左目の火傷のあとは罪を犯したときに付いたと思われたが、それにしてはやけに古く見えるのでたぶん違う。心臓が早鐘を打ちながらも、それを悟られないよう努めて冷静な態度で看守らしく相手を睨んだ。
「……どういうつもりだ」
「なるほどな、どうりで近づいてこれねェわけだ」
「離れろ。こんなことして許されると――」
「お前、女だな」
繕っていた表情が今度こそ崩れるのをロゼは自覚した。突然のことに思考が完全に停止し、返す言葉が見つからない。目を見開いたまま動けないでいるロゼの表情を可笑しく思ったのか、男がふっと小さく笑うと脇腹から腰のあたりを撫でてきた。
「なにす――ッ……」
我に返って抵抗しようと試みたが、男がよほど強い力で腕を掴んでいるせいで一ミリも動かせなかった。護身術に長けていると豪語していた自分が恥ずかしくなるほど、男の力が強すぎて抵抗さえできない。悔しい。ちょっとした油断でこんなことになるとは、いくら潜入調査が初めてとは言ってもこれでは研究室の場所さえつかめていない無能な人間だ。緊急用の電伝虫をもう使わなければならないのだろうか。任務失敗の連絡をしなくてはならないのだろうか。
呆然とこの先のことを考えて不安に陥っていると、男の顔が近づいてきて「余計なことするなよ」と耳元でたった一言それだけを呟き、あっさりロゼの腕を解放した。男は興味がそがれたのか、もうロゼのほうには目もくれず朝食をガツガツ食べはじめている。
訳が分からなかった。余計なことってなに? いまだに状況がつかめず、上半身を起こしながら頭の中がぐるぐると混乱する。呆気に取られて男の様子を眺めていると、その場から動かないロゼを訝しんだ男は口の中の物を一度のみ込んでから面倒くさそうにため息をついた。
「早く行け。怪しまれるって言っただろ」
「……ッ」
その言葉に強制的に背中を押されて、ロゼは素早く立ち上がると一目散に二十房の部屋を後にした。混乱していた頭でも鍵をかけることは忘れず、そのときにちらっと見えた男はやっぱり黙々と食事を摂っているだけでこちらを気にする様子はなかった。