この世界はずっと悲しいまま

 ゴリゴリという小気味良い音が室内に充満している。コーヒー豆を挽くフレイヤの表情は、しなやかな手つきと違って先ほどから険しい。なぜなら粒の大きさを均等にしなければならないので、毎回集中力がいる作業なのだ。
 昼の十二時からオープンという周りにある同じ系統店に比べると遅い時間帯は、昼食を取りに来る老夫婦や独り身の人間に評判が良い。朝が遅い分、夜の十一時まで営業するカフェとしては珍しい経営の仕方だが、逆に夜は若者やカップル、観光客が景色を楽しみにやって来るのでありがたいことに客足が絶えない。
 フレイヤはミルを動かしている右手を止めて粒度を確認する。中挽きになっていることを目視で確かめてから、二杯分のコーヒーを取り出す。カフェで使用している抽出器具はサイフォンと呼ばれるコポコポと沸きあがる音ともに視覚でも楽しめる演出効果抜群の機械だ。
 フラスコにお湯を入れて温める。フィルターとロートをセットしてフラスコの中に入れ、留め金を管の先まで伸ばして引っかける。お湯が沸騰したら、ロートにコーヒーの粉を入れて慎重にフラスコへ差し込んでいく。ロートにお湯がのぼってくるのを確認すると、粉を攪拌という作業をする。
 攪拌とは簡単に言えばかき混ぜることだ。ここがなかなか重要な部分で、素早くお湯となじませるようにやらなければならない。フレイヤも、最初こそ手間取っていたものの今ではすっかり手際よくできるようになり、客から褒められるまでになった。
 次に火を止めてフラスコに液体が溜まっていくのを見届ける。ロートのほうには粉だけがドーム状に残っていれば抽出が成功したサインである。完全にコーヒーが落ち切ったら、ロートを抜いてカップに注いでいく。
 抽出したコーヒーの香りがフレイヤの鼻孔をくすぐる。二つのカップに注ぎ終わると、外のテラスで待つ常連のベネット夫婦へ急いで持って行った。

「はい、ブレンドコーヒー二つ。いつもありがとうございます」

 丸テーブルに置いたコーヒーを見つめてベネット夫婦は顔をほころばせた。すぐには口をつけず、まず香り楽しむのが彼らの決まった飲み方。夫人がゆっくりと口に含んだ。

「ん〜ここのコーヒーはいつ来ても美味しいわね」
「ありがとうございます。今日は五種類をブレンドしてみました」
「まあそうなの? フレイヤちゃんもすっかりコーヒーの淹れ方が様になってきたものねえ、随分練習したのかしら」

 眼鏡の奥の瞳が柔らかく細められた。笑うとくしゃっとなる夫人の顔は老いてもなお魅力的だ。そんな彼女を見てか、主人もどこか嬉しそうにしながら髭を触っている。二人のそれに、フレイヤも思わず笑顔をこぼした。
 フレイヤがカフェ<グランツ・カヴァナ>の経営を始めて三年。最初はまったくといっていいほど客も来なければ、カフェなのにコーヒーを淹れられないという始末。初めて来た若者の第一声は「不味い! こんなもの飲めるか!」である。落ち込むより悔しい思いが勝って、それから何度もコーヒー豆を買って練習した日々が懐かしい。
 ミルクとシュガーポットを置いて「ごゆっくり」と会釈してから再びカウンターへ戻る。ありがとうね〜とスローな声色に自然と笑みができる。
 テラス席は三つと決して広くはないが、島の絶景を眺めるのに適しているためカフェの人気席だ。オープンと同時にやって来るのはたいていベネット夫婦と遅い朝食をとる常連客のニコスという青年。ニコスはいつも同じメニューを頼むので注文は聞かずともわかるほど。口数は少ないのだが、優雅に読書を楽しむ姿は絵になる――というのは本人に言っていないので、フレイヤだけがこっそり思っているだけだ。
 セント・ヴィーナス島。"偉大なる航路"の途中にある観光地として有名な島が、フレイヤの働く――そして住んでいる島だ。ターコイズブルーの美しい海と、言葉を失うほどの綺麗な夕日が人々を魅了する。断崖絶壁に建てられた白い家々も島の特徴の一つで、海の青と建物の白のコントラストが島を美しくさせる要素だ。
 フレイヤが島に来たのはカフェを始める三年と半年前で、幼い頃本で見た憧れの観光地に住むことが念願だった。晴れてそれが叶い今に至るわけだが、ご老人の常連客が増えてくるにつれて少々困ることもあった。

「ところでフレイヤ。お前さんそろそろ結婚しないのかい?」
「そうよ、カフェは結婚してもできるんだからまずは旦那さんを探さなきゃ。良い人いないの?」

 カウンターで作業する手を止めて、ベネット夫婦に視線を向ける。興味本位で聞いているわけではないのだろう。フレイヤのことを娘のように思ってくれているからこそ、心配して言っているのだ。笑ってごまかそうとしたが、今日は何かと食いついてくる。

「恋人いないんだったら、アタシんところの知り合いにね、家業を継いで漁師になった子ォがいるんだ。よかったら会うだけでもどうだい?」

 世話好きというかなんというか。事あるごとに彼らはフレイヤの結婚について「いつするの」とか「恋人はいるの」とか聞いてくるのだ。そのたびに「今はまだ」とお茶を濁してきたのだが、そろそろきちんと答えておかないと本当にお見合いをする羽目になりそうなので仕方なしに答える。

「ベネットさん心配してくれてありがとう。でもごめんなさい……心に決めた人がいるんです」