その幸せをわすれないで

※このお話は初体験後の話です。先にこちらをお読みなることをおすすめします。

『それで?』
「……それでって?」
『とぼけたってダメだからね。サボ君と二人きりで何もなかったなんて言わせないんだから』
「……」

 コアラの有無を言わせない圧力を電伝虫越しに感じて思わず一歩引いた。二度言うが、電伝虫越しだというのに。返答に困り、しばらく二人の間に沈黙が流れる。
 セント・ヴィーナス島を出航してから一時間後。安定した気候に突入したところでコアラに連絡を入れてくるとサボに断ったのが運の尽きだったのか。最初こそ、久しぶりに帰島してどうだったかとかこっちでの知り合いの話とかそんな他愛ないことで盛り上がっていたのに、いつの間にか話の矛先が昨日の夜のことになっていた。
 とはいえ、コアラに相談したときからすでにこうなることを予想していなかったわけではない。話しやすさでいえば、彼女は年齢も近い分当然である。それに一応相談に乗ってもらい、アドバイスまでもらった身としては何も報告しないのもなんだか申し訳ない。
 そうした理由からはおずおずと事の顛末をコアラに打ち明けた。もちろん伏せるところは伏せて。

『よ……』
「……?」
『よかったあああ〜』
「わっ、ちょっとコアラちゃん!?」

 突然大声を出したと思ったら、なぜかわんわん泣き始めてしまった。少し大げさにも聞こえる泣き声は、離れた場所にいるサボにも聞こえてしまうのではないかとひやひやする。出航してからというもの、実は彼とあまり会話をしていないので今来られると少し気まずい。二人しか乗っていないのに変な話だが事実だった。
 何やらぶつぶつ独り言を呟いているコアラに、ひとまずなぜ泣いているのか理由を聞いてみる。ぐずっと鼻をすすって彼女が喋りはじめた。

『だってあんなパジャマと下着まで用意したのに、何もなかったらショック受けちゃうんじゃないかって不安だったから……』

 電伝虫越しなのにコアラの悲しそうな表情がまるで見えているみたいにわかりやすく落ち込んだ声音だった。続けて、自分だけ盛り上がって実際サボ君が乗り気じゃなかったらにどう謝ったらいいかずっと悶々としてたとも語った。
 どうやらコアラの中ではたちが一線を越えるどうかで連絡の有無を決めていたらしい。実際はこちらから先にしてしまったので意味がなくなったけれど。

「ありがとうコアラちゃん。いろいろ相談に乗ってくれて」
『ううん。やっと二人きりになれたんだから当たり前だよ。とこういう話ができて嬉しかった』
「そう、かな……」
『そうだよ! 時間できたら新しい下着買いに行こうね』
「あ、うん」

 楽しそうなコアラを前に思わず肯定したが、恥ずかしくて目も合わせられない現状は黙っておくことにする。
 じゃあまたバルティゴで。言ってからは受話器を置くと、遠くからサボの呼ぶ声が聞こえたので急いで部屋を出た。


*


 バルティゴに帰還してからたまっていた仕事を片付けるのに忙殺されていたサボは、結局との時間を作れず気がつけば日付も変わる直前になっていて、慌てて彼女の部屋に向かっていた。別に数時間会わないことなんてこれまでしょっちゅうあったので、今日はこのまま自室に戻って就寝してもよかったのだが。
 正直に打ち明けるならば、あの夜のことが頭から離れなくて、ふと気を緩めた瞬間の乱れた姿がちらついて作業の手が止まってしまい、コアラに変な目で見られた。というのが今日のサボの一部始終である。
 セント・ヴィーナス島で初めて二人きりの夜を過ごした翌日、ゆっくり余韻に浸る間もなく帰還しなければならないためにすぐ出航したサボは、しかし船内でもとは事務的な会話しかできなかった。途中別の島に寄って仲間を拾ったことも関係あるが、彼女が意図的にこちらを避けているせいでなかなか話す機会がなかったのだ。
 理由はまあ想像つくとしても、あからさますぎて逆に傷つくということにはたぶん気づいていない。いっぱいいっぱいだったのはわかっているから、サボとしてもそれについて何か言うつもりはなかった。ないのだが――
 の部屋の前まで来てドアノブに手をかけるも躊躇いが生じて回すことができずにいた。いつもなら気にせず入っていけるその先に、なぜか「いいのか?」と問いかける自分がいる。別に堂々と入ればいい。だっての恋人なのだから。
 頭の中でそんなやり取りを繰り広げていると、不意に向かい側から扉が開いて、そばに立っていたサボは正面からその衝撃を受ける羽目になった。

「――ってェ……」
「わっサボ!? ごめん当たった?」
「いや、おれが突っ立ってるのが悪かった。それよりどこか行くのか?」
「あ、えっと……サボに会いに行くつもりだったからちょうどよかったていうか……中入る?」

 思ってもみない発言に一時ぽかんと静止してしまったが、我に返ってすぐに頷いた。まさかのほうから会いに来てくれるつもりがあったとは。あの夜が明けてからほとんど会話を交わせてない状態で一体どういう風の吹き回しなのか。おまけに会いに行くと言っておきながら、相変わらず目線が合わなくてもやもやする。
 再び明かりをつけた彼女の部屋は前に来たときよりも若干物が増えている気がした。もともと一時的に保護しただけで、当初の予定ではほとぼりが冷めたらセント・ヴィーナス島へ帰ることになっているから物はさほど必要ないというのが彼女の言い分だった。それがいつしか本部で雑用係を務めるようになり、気づけば仲間たちも彼女にいろいろ頼むようになった。
 カートレット家については、には内緒で探りを入れているのだが彼女を連れ戻しに来た以来、表立って動いている様子はなかった。そもそもあの家には彼女のほかにもう一人家を継ぐことのできる人間がいたはずだ。それがどういうわけか、今さらを連れ戻しに来たというのはおかしな話である。
 今は特に問題ないとはいえこのまま動向を注視しておくに越したことはない。には不便な思いをさせるだろうが、もうしばらく辛抱してもらう必要があった。
 譲ってもらったという二人掛けのソファに座る。小さいサイズだからとの距離は拳二つ分ほどしかない。中に入らせたわりに、話をするでもなく落ち着かなそうにしている様子からしてやはり原因はあの夜のことだろう。そんなことないとわかっていても、サボには確認せずにいられないことがあった。

「あのさ、まさかとは思うけど後悔してるわけじゃねェよな?」
「そんなわけっ……」俯いていたが途端に顔を上げて、間髪をいれず否定した。
「お前ちっともこっち見ねェし、話しかけようとしても何かと理由つけて避けてただろ?」
「ぐっ……」

 あ、今ちらっとこっち見たな。
 しかしすぐに逸らされての視線は再び床へ向く。ただ、彼女の頬が赤らんでいることからサボのにらんだ通りであることに胸をなでおろしてほっと息をついた。に限ってそんなことないと思っていてもどこかで不安があったのかもしれない。
 どうしてもサボのほうを向くのが恥ずかしいらしい彼女は、もじもじとしたまま手持ちぶさたに両手を組んで動かしていた。もっと恥ずかしい姿を見たというのに今さらじゃないのか、と思わなくもないが彼女の中で何か思うところがあるのだろう。かといってずっとこのままでも困るので、サボは強硬手段を取るほかなかった。
 の組んでいる指先をそっとほどいて包むように重ねると、彼女の肩がわかりやすくびくついた。

「そんなに恥ずかしい?」
「っ……」
「あんな可愛く鳴いてたのに?」
「……ぅ」
「おれの名前呼んでる可愛かったんだけどな」
「……っあ、もう、わかったからっ! それ以上言わないで!」

 顔を隠すにも掴まれている今はそれができないがために逃げようとしたのでソファの端まで追い込んだ。小さいソファだから逃げたって意味なんてないが。

「恥ずかしいに決まってるよ! 初めてだったし、あれでよかったのかわからないし……むしろなんでサボはそんな普通にっ――ん」

 今度は流暢に話し始めたの口を黙らせるために塞いだ。軽く啄む程度に、数回繰り返してあの日の夜をなぞるみたいに。段々と息も切れ切れになるほど深くしていって、目を瞑って苦しそうにする彼女がサボの袖を引っ張った。
 その仕草でようやく解放してやる。「ぷはっ……」吐き出した息がどことなく甘くて、このまま流れに身を任せたい衝動にかられた。けれど、明日の朝は早い。だから今は伝えたいことだけ、彼女の頬を包み目線を合わせて伝える。

「とりあえず目をそらすのは傷つくからやめてくれ」
「うん……ごめんね」
「それから別に普通ってわけじゃねェよ。おれだって浮かれてんだ」

 まァどう浮かれてるかは秘密だけどな。という言葉はのみ込んで代わりに鼻がくっつくほど近づいてニヤリと笑ってみせる。

「明日から任務でここを出るけど帰ったらまた、な?」
「えっ……うん?」

 よくわからないまま頷いたの表情がおかしくて、あえて何も言わずにおやすみの意味をこめて額にキスを落とした。
 サボは立ち上がって彼女の部屋を後にし、薄暗い本部の廊下を歩いて自室へ戻るのだった。

2022/6/3