それからサボの記憶は少しぼんやりとしていた。
自分が何をしたのか、何を言ったのか正直あまり覚えていない。相手を怪我させたかもしれないし、させてないかもしれない。とにかく男からを引きはがすことが最優先だったサボにとって、それ以外のことはどうでもよかった。だから、迎えに来てくれたコアラに髪型が崩れていると指摘されるまで自分の格好が乱れていることなど到底気づくはずもなく――
脳内で先ほどのが勝手に再生される。
やめろよ。振り払おうとしているのに残像のようにそれは消えてはくれず、サボの心を黒く塗りつぶしていく。せっかく着込んだドレスも引きちぎられ、綺麗にまとめられた髪も無残にほどけてくしゃくしゃになり、いつもより濃く化粧した目元には涙が浮かんでいた。
くそっ……と、小さくこぼした音は誰にも拾われない。サボの前には、コアラに寄り添いながらのそのそと歩くがいる。意気込んでた数時間前が嘘のように、その背中は小さくて頼りない。あのままじゃ外を歩けないだろうとサボが着ていたジャケットを羽織らせているから余計に小さく見える。足がおぼつかないのも見るに堪えなくて、ついにから視線を逸らしてしまった。
そうしてサボの身にやるせなさ、虚しさ、憤怒、焦燥といったあらゆる感情が波のように押し寄せてきた。何をどうすればよかったのか、何が正解だったのか。そもそも彼女が任務に参加すること自体がいけなかったのか。いや、襲ってきた男はパーティー会場で見かけなかった顔だった。つまり彼女が会場を出てから化粧室へ向かう間で目を付けられたということになる。
そう、きっとが女だから――声のかけやすい女だったから。
恋人の贔屓目無しに見たって今日の彼女は綺麗だ。一人で歩いているところを見て声をかけてくる奴がいてもおかしくない状況だった。
――そうだとすれば、やっぱりどうしたって彼女をパートナーとして連れてくるべきではなかったんじゃないか?
誰も答えてくれない問いが、サボの頭の中を支配していた。
精神的な疲労を抱えて滞在先の宿に戻ってきたサボは、コアラにの世話を頼むと自分の部屋に戻るなりベッドへ突っ伏した。握った拳をスプリングに軽くぶつけて「〜〜っ」声にならない恨みを吐き出した。
男の顔など覚えてないが、コアラが適切な処理でホテル側へ引き渡していたことだけは微かに覚えていた。むしろ妙に落ち着いてその光景を見ていた気がする。しかし、ここに来て怒りが沸々とこみ上げてくる。ぶつける場所がないのがもどかしい。
体を反転させて仰向けになると目を覆った。とにかく忘れたかった。そうでもしないと、明日どうやってに声をかけたらいいのかわからない。
やるせなさにジタバタしたくなるのを抑えて、ひとまず着替えようとベストに手をかけたとき、扉をノックする音が聞こえた。答えてからすぐにコアラだとわかったので、開けて用件を聞く。
「がサボに来てほしいって」
「……は?」
「いいから、とにかく行ってあげて。大丈夫だから」
無理やり部屋から締め出されたサボは、コアラに背中を押されるままがいる部屋の前まで足を向けた。躊躇いがちにコアラを見ると「は・や・く」と口が動いている。
気持ちに整理がついていない上に、が自分を呼んでいるのも到底信じられなかったが、コアラはサボが部屋の中に入るまで監視するつもりなのか微動だにしないので仕方なく扉を開けて中へ入った。
静かな空間の中を進み、バスルームとクローゼットを通り過ぎて開けた場所まで来ると、は相変わらずサボのジャケットを羽織ったままベッドに腰かけて呆然としていた。こちらの足音に気づいて、ゆっくり顔を上げたが生気が感じられない。
たまらず駆け寄って「大丈夫か? やっぱりコアラ呼んでくるよ」一定の距離を保ちつつ、そう声をかけて踵を返したのだが。
「いか、ないでっ……」
サボの背中に向かって、それはひどく心許なくか細い声が届いた。
風前の灯火のように、ふっと消えてしまいそうな――
「……けど休んだほうが――」
「やだっ、おねがいっ……」
ベストの裾をぎこちなく掴んで引っ張られた。
こんなふうに懇願されるのはいつぶりだろう、とサボの頭は冷静にそんなことを考えていた。あんなことがあったあとだ。なるべくを怖がらせまいと極力近づかないようにしていたのだが、彼女のほうから頼まれては断ることなどできなかった。
ふう、と一息吐いてから伸びている彼女の手を優しく取って隣に腰かけた。古いのか、ぎしっとスプリングが軋む音が鳴る。掴んだ手をどうしようか悩んだまま結局離せないでいた。だが、がそのままでいるから離さなくていいのかもしれない。行かないでと言われたはいいものの、俯いている彼女にかける言葉が見つからず妙な沈黙が流れる。
小柄ながやはりいつも以上に小さく見えて今にも壊れてしまいそうだった。彼女の手をそっと離して、そのまま髪に触れようと動かす。
「」
「っ……ぁ、」髪に触れた瞬間がびくついたので、やはり先ほどのことが影響しているのだろう。こんな態度を取られるのはつらいが、それ以上につらいのは彼女のほうだ。「おれが怖いか?」間髪入れずに彼女が強く首を横に振る。
ごめん、ごめんね。と繰り返し謝るにいよいよサボは我慢ができなくなった。何でお前が謝るんだ。なにも悪いことしてねェのに。
気づけばサボの手は、もう一度の手を握っていた。優しく壊れものを扱うように、そっと。
「。お前が怖がることは絶対しねェから、触れてもいいか」
「きらわないで、いてくれる……?」
「バカッ、嫌うわけねェだろっ……」
はすでに泣いていた。嫌うなんて、そんなことあるはずがないのに。被害者の彼女がそんなことを思う必要など一ミリもないのに。大丈夫という意味を込めて額に触れるだけの口づけをする。緊張の糸がほどけたかのように、彼女から肩の力が抜けた。
それを確認したサボはの羽織っているジャケットをゆっくり取り払う。露わになった肩から鎖骨のレース生地になっていた部分は無残に破けていて、サボの手は一瞬躊躇うように静止した。見たくない現実がそこにあって、けれどボロボロになってもサボに好かれていたい気持ちがまだ残っているのだと思うと、今すぐ抱きしめてめちゃくちゃに愛してやりたくてどうしようもなくなる。怖がらせることは絶対にしないと誓ったばかりなのに。
ふと数時間前、彼女に対して寝かせるつもりはないなどと発言した自分を思い出して無性に腹が立つ。あのときはまだそれが叶うと信じて疑わなかった。
深呼吸をして自身の心を落ち着かせる。乱れている髪を丁寧に耳にかけてやり、ぽたぽたと止まらない涙を親指で拭いながらサボは静かに口を開いた。
「どこ触られたか教えてくれ。上書きしてやるから」
――大丈夫だ、。そんな思い出したくもねェこと、おれが忘れさせてやる。
そう思いをこめて、サボはやさしく彼女の崩れてしまったドレスに触れた。涙と一緒に彼女の苦しみが、どうか流れていきますようにと、願いながら。