鬼上司と力不足な部下(1)

 次の任務についての話だろうと思っていた。
 先日××島で調査をしていたとき、偶然にもの耳に飛び込んできたクーデターの話は記憶に新しい。町の人々は噂だと言っていたが、噂で近隣国のクーデターの話など飛び出すものか。革命軍が悪政をただすために起こすそれとは違い、個人の私利私欲で起こすクーデターは悲劇しか生まない。の、これまでの経験から言えばほぼ確実に黒だ。見過ごすわけにはいかない。
 調査を終えて帰還したが直属の上司に報告したのが二日前。そして、今日。上司から呼び出されたは朝から落ち着かない気分でこのときを待っていた。
 階段を駆け上がる。上司の執務室はが作業する階より二つ上で、同じフロアには幹部クラスの人がたくさんいる。所属年数が長いほうに入るでさえ、ほとんど話したことのない者もいるが、たいていは愛想がよく話しやすい人たちばかりなので仕事環境は良いほうだと思っている。
 登り切った先の廊下で、見知った後ろ姿がの視界に映った。

「エリスちゃん、おはよう」


 同じチームで任務に就くことが多いエリスは、と歳が近いこともあって仲が良い同僚だ。綺麗な銀色のロングヘアを腰まで流しているスタイル。毎日どんな手入れをしているのか知らないが、いつ見ても整っているし、化粧やネイルにも気を配っている。今日の爪は、海の色を思わせる淡いブルー。以前、にもやってあげるといって一度だけ彼女にマニキュアを塗ってもらったことがあったのを思い出す。は結局それ以降、一度も爪に色をつけたことがない。お洒落に気を遣うような職場ではないが、自分と彼女を比べて度々ため息をつきたくならなくもない。
 エリスの隣に並んで一緒に廊下を歩く。どうやら彼女も呼び出されたらしく、執務室に向かっている最中のようだった。

「やっぱり例のクーデターに関する調査かな」
「多分そうだと思う」
「××島で偶然が聞いたんでしょ? 町の人が話しているところに居合わせたって」
「うん」
「すごいじゃない。アンバー王国って歴史は浅いけど、その短い歴史で急成長を遂げた大国だからそんな場所でクーデターなんて起こったらどれほどの犠牲者が出ることか」

 ふと立ち止まったエリスは深刻な表情で呟いた。伏せた長い睫毛が影を作っている。二つしか違わないはずなのに、時々彼女はよりも大人びた雰囲気をまとう。そういうとき、決まっては彼女を遠い存在に感じてしまう。まるで心の距離がぐんぐん離れていくような。
 エリスの気持ちを汲み取って、しかしは彼女の肩にやさしく右手を添えた。そして応える。

「真偽を確かめるためにも、早く執務室へ行こう」
「そう、だね……」

 肩に乗せた右手をそのまま下ろしてエリスの腕を掴んだは、上司の待つ執務室へと急いだ。


*


「すみません、言っている意味がよく……」
「聞こえなかったのか? アンバー王国の任務はおれ、コアラ、ハック、エリスの四人で行うって言ったんだ」

 が聞き取れなかったと判断したらしい執務机に座る男は、一言一句違えることなく同じ台詞を繰り返した。張りつめた空気を感じているだろうに、平然とのたまう姿はいっそのこと清々しささえ感じる。伝えるべきことはすべて伝えたとでも言いたげな男は、手元の報告書をめくりながらすでに思考は別のところにあった。だから、だろう。その態度が余計に彼女を苛立たせていることに、この上司――サボは気づいているだろうか。
 ちらりと視線をのほうに向けると、案の定わなわな震えていて今にも怒り出しそうな表情を作っていた。

「納得のいく理由を教えてください」

 努めて冷静に、はそう一言呟いた。声色は落ち着いているが、目が据わっている。目の前の上司を射殺さんばかりの睨み具合で、ぐんぐん近づいていく。サボと同じ位置から状況を見守っていたコアラは、をとめようと側に駆け寄って宥める。
 どうしてこうなってしまったのか。サボを挟んで反対側に立つハックも同じように思っていることだろう。エリスに至ってはどうすればいいのかわからずおろおろしているだけだ。もはや誰にも収拾をつけられるような雰囲気ではなかったが、上司の意図を汲んで「」と落ち着かせるよう声をかけた。

「聞き分け悪いな」
「……っ! そんなの、納得できるわけないじゃないですか! 突然呼び出されて、任務は私以外の四人だなんて。はいそうですかって引き下がれるわけないでしょう!?」
「強いて言えば、力不足か。お前も知ってるだろうが、現在のアンバー王国は内紛が絶えない危険なところだ。足手まといがいたら困るだろ」
「あし、で、まと、い……?」

 冷え切った空気が一層冷えて凍っていくのを感じ取る。拙い言い方でサボが放った単語を繰り返したは信じられないものを見たような目で上司を見つめた。それもそうだろう、足手まといだなんてきっとこの部屋にいる誰もが露ほども思っていないことだ。当人のサボでさえ。
 それこそ、彼女の後ろに立つエリスのほうが軍にいる期間でいえば短いし、二人の能力はほぼ互角と言っていい。むしろ小柄な分、小回りがきくのほうが内密に調査することに関して適しているといえた。本人がどう自覚しているかわからないが、コアラもハックも――そしてこの中で一番立場が上のサボも、理解している。の働きぶりを見ればそれは一目瞭然であり、任務からはずされる理由などない。不用意に「力不足」なんて発言した彼は一体この状況にどう片を付けるつもりなのだろう。コアラは本気で心配になった。
 が、当の彼はどこ吹く風で再び報告書を眺めている。はじめから明確な理由などないのだから無理もない。嫌な予感がするなと思った刹那――バンッという強い衝撃音とともに、とうとうが牙を向いた。

「総長のお考えはよーくわかりました! もういいです、四人で頑張ってくださいっ……!」

 両手を机に勢いよく叩きつけたは捨て台詞を吐いて乱暴に扉を開け放つとそのまま振り返ることなく出ていった。相変わらずおろおろしたままのエリスに「もういいよ」と促して、同じように執務室を後にしてもらう。
 嵐が去った部屋の空気が途端に弛緩する。特別暑いわけでもないのに、びっしょりと汗をかいていた。コアラは盛大なため息をついて、諸悪の根源である上司ににじり寄った。

「もうーなんであんな言い方しかできないの! あれじゃあ怒るに決まってるでしょ」

 報告書から気だるそうに目線を上げたサボは、しかしどこか寂しげな目をして扉を見つめた。まるで一枚の鉄の壁が二人の隔たりを表しているように思えて、コアラは胸を痛めた。上司の心情も、そして部下の想いも理解できるからこそ、間に立つ自分はどちらに寄り添うこともできないことを。
 の上司であると同時にコアラの上司でもあるサボは、世界政府と――ひいては天竜人と敵対する組織、革命軍の参謀総長という肩書きを持つ男だ。その実力は誰もが認めるものの、時折こうして私情を挟むのは部下を束ねる立場としていささか首を傾げたいのが本音だったりする。人の話を聞かずに突っ走るのも、無茶をするのも、毎回苦労するのはこちら側。ストッパー役のコアラやハックからすれば似た者同士だ。のことを言えた義理ではない彼があんなに必死になる訳を知っている側からすると、参謀総長の肩書きが時々まやかしに思えてくる。
 これまで二人の間にどんな会話がなされてきたのか、後から加入したコアラには知る由もないが、積み重なった言葉にできない複雑な感情がそこに存在することを感じていた。仕事上その感情は一切殺しているようにみえて、先ほどみたいにあらゆる方面に誤解を招く形で発揮してしまっている。

「あいつには一生わからなくていい」
「そんなこと言って、本当はすごく気にしてるくせに!」
「うるせェ」

 勢い余って報告書の端がくしゃりと歪んだ。
 のことになるととことん不器用になるこの上司が、やはりコアラには不思議で仕方ない。義理の弟であるルフィを何かと自慢げに語るのに対して、に関することはどちらかと言うと評価が低かった。もちろんそれはあくまで表向きであって、サボ本人の心情はコアラと同様に頼れる部下と認識しているはずだ。しかしサボの中で超えてはならない何かがあるらしく、無理やり自分を律することでどうにか冷静さを保っている――コアラからすると、今にも許容範囲を超えてしまいそうなほど危ういので保てているとは思えないが。
 執務室の窓からのぞく空がどんよりと曇っていた。まるで心に呼応するように、空は一雨来る模様を描いている。

の性格を知らないサボ君じゃないでしょう? 四人で頑張ってなんて嫌味吐いてたけど、あれは独りで向かうつもりだよ」
「わかってる」

 嵐が来るとは思わないが、雨の中彼女はきっと船を出すだろう。華奢な体でも革命軍の一戦士。数多くの戦線を乗り越えてきたには航海術もある。自分で得た情報をもとにアンバー王国にたどり着くことなど容易いことだ。
しかし上司は慌てた様子を見せることなく、落ち着いた声色で言った。

「とりあえずあいつのやりたいようにやらせとけ」

 ただし、深追いはさせるな。
 釘をさすと、視線はもう机上の紙の束に向けられていた。ハックとともに返事をする一方、数分前に出ていった彼女がどんな気持ちでアンバー王国に向かおうとしているのか、計り知れない心情に思いをはせて、コアラは執務室を去った。