じゃじゃ馬も風邪をひく(2)

 重たい瞼を開けたら見慣れた真っ白な天井と混ざりあった薬品の臭いが鼻をついて、ここが医務室であることをぼうっとする頭で理解した。しかしどうして自分がここにいるのか、改めて記憶を探りながらやがてたどり着いた答えに一気に脳が覚醒したて飛び起きた。

「総長っ……いたっ」

 急に起き上がったせいで頭がズキリと痛む。そういえば意識を失う前までかなりの頭痛がしていたことを忘れていた。だいぶ軽減されたがまだ治ってはいないようで、は目を覆った。

「まだ熱あるのにそんな急に起きるなバカ」
「ひゃ……」
「寝てろ」

 額に冷たいものが触れて驚いたのも束の間、今度は誰かの手によって上半身をベッドに押しつけられた。その相手がすぐにサボであるとわかると、は黙って従うほかなかった。
 額にのせられたのは水で濡らしたタオル、熱が引いていないからと新しいものに変えてくれたらしい。こんなことを上司にやらせてしまっている申し訳なさと体調を崩して仕事をしていたことがバレてしまったことの後ろめたさが同時にを襲った。
 サボを呼びに行った時点で半ば諦めていたのだが、それにしても早すぎるなあと自嘲気味に笑った。このあとなんて言われるのか目に見えてわかるだけに気分が下がる。体調が悪いときに上司から説教を聞くのはなんとも耐え難い仕打ちだ。自業自得の結果とはいえ、認めてもらいたいと願っている相手にこのような醜態を晒すのは心苦しいものがある。
 寝てろとは言われたものの、それには素直に従うことができずにサボの顔色を窺う。背もたれのない椅子に腰かけて、書類の束をペラペラめくっている彼をちらっと盗み見る。特別怒っているわけではないように見えるが、それは表面的であって本当のところはわからない。
 見ていることに気づいたサボは書類から目を上げてこちらに視線を送ってきた。

「どうした。何かほしいものでもあんのか?」
「えっ、いや、えっと……あ、そういえば喉乾いたかもしれないです」
「ん。わかった」

 立ち上がって医務室を出ていくサボを、は不思議な思いで見送った。てっきり小言を言われる覚悟でいたのに、説教するどころか必要なものはあるかと問われる。思わず答えてしまったが、実際に喉は乾燥していたし汗もかいているから水分は取ったほうがいいだろう。
 服がべたついているからできれば着替えもほしいところではあるものの、異性のサボに頼むのはなんだか恥ずかしい気がして躊躇われた。周りがどれだけたちを兄と妹のように扱おうとも年齢的には成熟した男と女なのだ。
 それに、今のはサボをただの兄として見ることはできない。対等であったはずの二人は参謀総長とその部下という立場で隔たりができ、共に過ごしてきたあの頃が嘘のように溝が深くなってしまった。としては、今までのようにまた笑い合ったり、任務のことで相談できたり、気軽に何でも話し合える上司と部下でありたいのだが――
 がちゃ。扉が開く音がしてその方向に顔を向けると、コップを抱えたサボが戻ってきたようだった。のそりとゆっくり上半身を起こして礼を口にする。

「飲めるか?」
「はい。大丈夫です」

 ごくん。一口、またひとくちと水が喉を潤していく。乾いていた喉に爽快感がうまれてほっと息をついたは、コップを渡してそのまま再び椅子に座り始めたサボに思わず戻らなくていいのか聞いてしまった。さっき見ていた書類の束は明らかに仕事のそれである。もし自分が拾ったから最後まで看病するとわざわざここで仕事をしているのだとしたら、もう大丈夫だと言うつもりでいた。
 しかし当の彼は「別に気にしなくていい」と言って、が反論することを制した。

「どうしてですか? 私ならもう――」
「嘘つけ」
「っ……」
「まだ熱あるだろ。ったく、無理しておれを探しに来るから倒れるんだぞ」

 軽く額を小突いてきたサボが目線を合わせてむっとした表情を作った。今度こそ怒られるのかと体が強張り構えたものの、どうやらそういうわけではなく心配そうにこちらをのぞく瞳とかち合って妙に恥ずかしくなる。それどころか「腹減ってねェか?」なんて聞いてくる。やけに優しい総長の対応には混乱した。
 以前も熱で寝込んだことがあったらしいのだが、そのときもこんなふうに殊勝な態度で看病してくれたのだろうか。らしいというのも、には高熱に魘されて前後の記憶がないからでサボ自身も詳しくは覚えてないと言って詳しくは教えてもらえなかったのだ。
 椅子からベッドに移動してきたサボが「どうなんだよ」と迫ってくるので何かしら答えないといけないのに、口をもごもごさせるばかりで思うように言葉が出てこなかった。

「……いま、何時なんですか」言ってからすぐに後悔した。もっと他にあるだろうに、なんでこんなことしか言えないんだろう。
「夜の七時を回ったところだ。時間気にしてるようなら言っとくが、報告書は別に急がなくていい。まずは風邪を治せ」
「えっ、なんでそのこと」
「謝りに来たんだよ」
「……?」

 別に報告書のことが気になって時間を聞いたわけではないのだが、なぜかサボはの仕事を把握しているようで仕上げなければいけない五つの報告書は今日終わらなくてもいいという。
 加えて「謝りに来た」とも言う彼はが倒れてから目を覚ますまでの間のことを話し始めた。

*

 意識が朦朧としているを医務室へ運んでいる最中、何人かの後輩たちに出くわした。彼女の心配するほか、手伝うことはあるかと聞いてくれる連中もいて、サボはそれらの言葉をうまく受け流して急いだ。しかし後ろから「参謀総長」と自分を呼ぶ声がかかり足を止める。早く医務室へ急ぎたいのにもどかしい思いでサボは振り返った。
 そこにいたのは確かの同僚の(違う部署だが)女だった。サボが抱えているをちらちら見ながら何かを言いづらそうにしている。こちらとしては早く診てもらいたいのでサボはどうしたのかと先を促した。
 決心したかのように彼女は訥々と数時間前の執務室でのことを語った。
 共同の執務室は幹部以外の人間が等しく利用するため、いろんな部署が一気に集結することもある場所だ。と彼女も今日は朝からそこで仕事をしていたのだが、食欲がないといって昼食の誘いを断ったとき顔色が悪いことに気づいて大丈夫かと声をかけたのだという。からは「サボに言うな」と念を押すような視線を送られた上に、少し寝れば治ると根拠のない返しをされて頷いてしまったと彼女は申し訳なさそうに謝った。
 実際座って報告書を書いているだけだからと彼女も大事にしなかったが、後輩がをサボの居場所を尋ねてきたときはさすがにまずいと思ったものの、断らずに早々と執務室を出ていったに何も言えなかったとのことだった。
 だから、と彼女が本当に伝えたかったのは「を怒らないでほしい」ということだった。後輩の思いを汲んで自ら探しに出かけたは純粋にサボを探してそのまますぐ仕事に戻るつもりだったのだろう。サボとしても熱があるに強く言うつもりはなかったが、多少抗議する言葉は用意していたので拍子抜けというか叱る気が削がれていく。
 けれど逆によかったのかもしれないとも思う。こういうときでもなければ、自分はに対して厳しい態度ばかり取ってしまうのだから。体調を崩すと不安になる人間は多いという。無理して仕事していたのことだから、きっと誰かに手を伸ばすことはしない。だったらこちらから歩み寄るしかないだろう。そしてとことん甘やかしてやる。


 こうしてサボは会議をコアラたちに任せて医務室で書類を捌いていたというわけだが、話を聞き終えたは若干不貞腐れていた。言わないって約束したのに、なんてぶつぶつ言っている。言わないっつっても、おれの前であんな歩き方したらアウトだろ。

「それよりやっぱり腹減ってるんじゃねェか? 昼メシ全然食ってねェんだろ、薬飲むなら何か口にしないとな」
「確かに、ちょっと空いたような……」
「だろ? 少し待ってろ」

*

 目を輝かせたサボが颯爽と医務室から出ていくのをは唖然として見つめていた。なんだか浮足立つ彼に仮にもこちらは病人なのに一体何がそんなに楽しいのだろうと首を傾げたくなる。
 もう一度額に手をあてて熱を確かめてみる。まだ熱が残っているような気がするし、頬も熱い。何より頭がぼうっとするのがその証拠だ。まあ見つかってしまったのだから今更取り繕う必要はないのだけれど、なんとなくこうした姿を晒すには気恥ずかしいものがある。
 数分もしないうちに再び扉が開くと、出るときには空いていた両手に盆を抱えていたサボが中へ入ってきた。小さなグラスの中にロゼ色の液体と固体が見える。なんだろうとまじまじ見つめていると、グラスを手に取ったサボがスプーンで一口掬っての口の前に「ほい」と差し出してきた。

「……」
「ハックに頼んで作ってもらったんだ。お前、昔からこれ好きだったよな」

 言われてグラスの中の正体に気づく。これは「りんごのジュレ&ソルベ」だ。リンゴのコンポートを入れたあと、ジュレとソルベを作って順に重ねたら完成というシンプルなもの。色合いも綺麗で、何より冷やすと非常に美味しいデザートである。
 確かにが小さい頃、母に作ってもらっていたもので、母が亡くなってからは父が作って時々作ってくれていたものだ。サボも食べたことがある。でもどうしてサボが作り方を――?

「ほら、冷蔵庫で冷やしておいたから美味いぞ」

 問題はそこじゃないのだが、差し出されたものを無下にするのも悪いと思い、口を開けてスプーンに乗ったジュレをぱくりと飲み込む。

「……」

 するとなぜか目を見開くサボの姿が目に入り、一気に不安が押し寄せた。あれ、まさか違った? そういうことじゃなかったの、かな……。

「あっ違いました? すみません、差し出されたからそのまま食べていいって意味かと思って……自分で食べろって感じですよね。ごめんなさい……」慌てて取り繕うように早口で言い訳を並べ立てる。ああ、なにやってんの恥ずかしい。いくら体調崩した私に普段からはあり得ないくらい奉仕してくれるからって、勝手に勘違いして差し出されたものをそのまま――うう、穴があったら入りたい。
 顔を覆って俯き、もう一度すみませんと口にする。上司になんてことをやらせているのだと自身を罵ってしばらく顔を上げられずにいると、無理やりこじ開けられるようにサボの両手がの手首を掴んでいた。

「隠すなよ。別にそういう意味じゃねェから」
「……?」
「いや。本当に食ってくれるとは思わなくてさ、ちょっと驚いただけだ」

 口元に手をあてながら、若干恥ずかしそうにサボはそう言った。この人はこんなふうに優しく笑うんだな、と幼い頃の思い出の彼がよぎって胸の奥がきゅんと疼いた。

「まだ少しだるいだろ? おれが食わせてやるよ。口、開けて」
「ありがとう、ございます……ん」

 冷えたジュレとソルベが口の中へ入り、心地よい爽快感を与えてくれる。懐かしい味に泣きそうになる。そういえば、父が亡くなってから食べていなかったなと気づいた。
 後輩たちにはもちろん、こんな姿は誰にも見られたくないなと苦笑いしつつ、今日は上司の優しさにうんと甘えようと思った。