オルレアン少女

抜け出せないループ

 エミたちから弾かれたその日、部活をなんとかやり過ごして帰宅したエマは二階の自分の部屋につくと制服のままベッドに突っ伏した。着替えるのが面倒だけれど、そのままでいると母がうるさくなるので着替えなければならない。重い腰をあげてスカートのチャックを下げ、カーディガンとブラウスを慣れた手つきで放り投げる。椅子の背もたれにかけてある部屋着に着替えて制服をハンガーにかけると、母の待つダイニングキッチンへ移動する。
 鼻歌交じりに料理をしていた母は、花柄のエプロンをつけて何やらタブレットをキッチンに置いているらしかった。レシピでも見ているのかと思えば、タブレットからは音楽が流れている。それも最近よく耳にする曲。人気アイドルグループのライブ定番曲で、ついこの間も夜の音楽番組に出て歌っていたのを覚えている。どうやらライブ映像を見ているらしい。料理をしながら何をしているのか、半ば呆れた気持ちで母を見やって「お母さん」と声をかけた。

「あんまりそっちに夢中になってると焦がすよ」

 それ。指さした油の中にはフライドチキンがじゅわじゅわ音を立てながら揚げられていた。激しいとは言わないまでもそれなりの練習量をこなした部活後の娘にフライドチキンとは、我が母ながら全然わかってないと思う。作ってもらっておいて文句をいうのもアレだが、私はそんなもの食べたくなかった。
 母は周りの同年代の人たちに比べて若く見られることが多い。そのせいか若いアイドルの追っかけを今も平気でやっている。人の趣味にとやかく言うつもりはないけれど、自分の母がと思うと途端にやめてほしくなる。そしてそれを娘に押しつけてくることも。
 あらやだあ、なんて可愛いらしく言いながら菜箸でフライドチキンをつつく母を見てげんなりした。

「大丈夫よ、エマ。きちんとカリカリにできてる」
「そう……よかったね」

 懲りもせず歌を口ずさみ始めた母は、エマも同じように大衆受けする音楽が好きだと思っている。ほかにも母は考えが古くさいところがあり、しばしばエマを困らせていた。
 以前、例のアイドルグループが最近は「似たような曲ばかり出している」と言われていること、「歌詞も恋愛ばかりで面白味がなくなってきた」と音楽評論家から辛口評価されていることをそれとなく母に伝えたことがある。それに対して母は「でもそれはその人の評価でしょう? 私はそうは思わないわ」と聞く耳を持たずすぐに話題を変えた。
 彼女はそういう人なのだ。自分の常識から外れていることはすべて正しくないことだと思っている。世の中あらゆる性格、趣味趣向の人間がいるというのに、自分がおかしいと思うものすべてを「変わってる」の一言で片づけようとする。
 私はアイドルも、フライドチキンも好きじゃない。


*


 エマが無視される前、一年のときも似たようなことがあった。そのときの標的はリカで、エミの元カレから告白されたことが理由だった。実にくだらなく何様だと思ったものだが、輪を乱すことで自分も標的にされることを恐れていたエマは何も発言せずエミのやることなすことを放置して、結局リカを無視することに加担した。
 学校という場所は突然こういうことが起こったりする。それまで仲良くしていたのに、あるとき急に話しかけても相手にされなかったり、ちょっとした意見の食い違いで無視されるようになったり。グループで行動するということは、常にこうしたリスクが伴う。エミみたいな女がいればなおさら。
 それもこれも、エマたち十六歳にとって学校以外の居場所は家しかないからだとエマは思っている。たとえば習い事やバイトをしていれば話は違ってくるかもしれないが、それも学校や家にいる時間と比べたら取るに足らないだろう。だからこんな息苦しい思いをしなければならないのだ。

 もう一つ、学校にはエマが苦手とするものが存在する。
 無視され始めて二日目、今日は部活もないし好きな倫理の時間があるのでいくらか気分が楽だ。エミたちの輪には入れなくとも、しばらく経てば元通りになると信じているから。
 チャイムが鳴って教科書とノートを開く。倫理の教師は二十代後半のシャーリー先生。色気があってミステリアスな雰囲気が男子にも女子にも人気。それに授業も眠くならないから好き。
 倫理の面白いところは不思議でどこか不透明な言葉がたくさんあるところだ。わかりそうでわからない、例えるならそんな感じ。そしてエマが最大の魅力を感じるのは、それらの言葉で詩を作れてしまうところにあった。 
 永劫回帰。神の見えざる手。二律背反――エトセトラ。いかにもな言葉ばかりが飛び交う倫理は、エマにとって至高の時間だ。シャーリー先生には申し訳ないが、合間にメモしては詩を作っている。
 今日も同じようにして気になる言葉を探していたら、ふと自分の机に影がさした。何だろうと思って顔を上げると、横に立っていたのは――

「なんだニナ。授業中に何をしてる」

 言いつつ、いきなりエマのノートを取り上げて中身をのぞく一人の男がいた。担任のシマモトである。どうしてここに、なんでいるのかという抗議の言葉はいくつも思い浮かぶのに、一つとして口からは何も出てこなかった。

「『きみはどこから来てどこへ行くの』か……こんなくだらないことを書いている暇があるならたっぷり課題でも出そうか」

 突然授業を中断されたシャーリー先生は困っていたし、クラスも静まり返った上に視線だけはこちらに向いているのがわかって居たたまれない。なぜこんな仕打ちを受けなければならない? シマモト、私はお前に何かしたのか。
 勝手に詩を読まれたこともムカつくが、何よりクラス全員の前でそれを晒されたことに顔から火が出そうだった。勘弁してほしい。そもそもこんなピンポイントでエマを狙ってくるとは一体どういうつもりなのか。けれども、黙っているままでいるわけにもいかず深呼吸してシマモトの顔を見据える。

「すみませんでした。でも今は倫理の授業中なので後にしてください」

 語尾が小さくなってしまった気がしたがどうでもよかった。とにかく一刻も早く出ていってほしかったし、みんなの視線から逃れたくてどうすればいいのか必死で思考を巡らせた。だが、シマモトは何が不満なのか教室を出ていこうとしなかった。ふざけるな、私の今の状況を知りもしないくせに。怒りがこみ上げてくる。
 そのときだ。斜め後ろのほうで、がたんと音がした。

「せんせー、授業時間がなくなるんで今はいいんじゃねェすか」

 音のしたほうに顔を向けると、ポートガスが椅子から立ち上がっていた。敬語とは言い難い敬語を使い、不機嫌そうな顔をしている。その形相に怯んだのか、シマモトはエマのノートを乱暴に戻すとそそくさと逃げるように出ていった。
 シャーリー先生もほっとした表情を見せて、気を取り直したように「では続きから」と授業を再開した。
 ちらり。もう一度斜め後ろを見やる。例の人物は何事もなかったかのように、今度は机に突っ伏して寝ていた。
 ポートガス・D・エース。エマのクラスにいる不良と呼ばれる側の問題児。ほとんど学校に来ていないのだが、今日は来ていたらしい。他校の人と喧嘩ばかりしているという噂があってクラスからは敬遠されているし、誰も話しかけようとしない。唯一、彼と同じ中学出身の人間が別のクラスにいるとかでその人といつもつるんでいるという。たまに学校に来たかと思えば、ああして寝ているだけ。一体どこで何をしているのか。知っている者はいない。
 エマには縁のない話だが、このときばかりは助け舟を出されたことに感謝した。