「どうせなら死ぬまで演じて」

 彼女の印象だけを言えば、特筆するところはなく、強いて言うなら「素直すぎる」だろう。あとから萩原に聞いた話だが、いつかの合コンに参加していたらしい。別の教場の女子だったことは覚えているにしても、彼女がいたことはまったく覚えていなかったので面食らった。目立つタイプではないし、どっちかと言えば真面目で自分とは相容れなさそうな雰囲気さえある。あの日の夜、喉が渇いて自販機まで行かなければ、彼女とは卒業するまで接点がなかったに違いない。松田はそう断言できる。
 ちょっと時計を修理したくらいで、真っすぐに褒められるのはむず痒かった。面と向かって「すごく器用」なんて言われて恥ずかしくないわけがない。たいていの奴が分解すると「壊すな」だの「やめろ」だの焦る中、彼女はじっとこちらの手元を見たまま黙っていた。挙句の果てには「すごい」と言うものだから調子が狂う。
 それからというもの、すれ違えば挨拶するし、ちょっとした会話もするようになった。萩原をはじめとする外野が詳しく教えろとうるさいが、彼女との会話は思ったより気分転換になって楽しかった。何より喧嘩っ早くて協調性なしと評価されている自分とも分け隔てなく接してくれるのは気持ちがいい。下心がないし、話しやすい女だった。まあ下心がないからこそ、ストレートすぎる言葉に時々困惑させられるが。
『魔法みたい』
 先日、無線機を使った授業で彼女が渡された機械が動かなかったときのこと。視界に困っていそうな彼女の姿が目に入り、つい世話を焼いてしまった。一台くらいなら替えだってあっただろうが、松田の体はほぼ無意識に動いて気づけば彼女に声をかけていた。
 その結果が、先述の台詞だ。
 技術的な話で言えば、魔法でも何でもなく、機械の仕組みを理解していれば当たり前のことなのだが、それを魔法なんていうロマンチックな言葉で肯定しやがって――よくあんな小っ恥ずかしいことを平然と言えたものだとちょっと呆れた。
 けど、不思議と嫌な感じはしなかった。それはきっと、彼女が心の底からそう思って言っているとわかるからだ。いや、それだけならばまだよかったかもしれない。自分で聞いておきながら、「松田くんだから」という言葉は想像以上の破壊力があって反応に困った。
 ったく、ガラじゃねぇってーの。
 昼食を終え、談話室でうとうとしながら彼女とのことを思い出していた松田の頭を現実に戻したのは、扉の外で聞こえたざわめきだった。会話の内容はわからなかったが、何やら言い争っているように聞こえる。
 昼寝を邪魔しやがってと、悪態をつきつつ体を起こした松田は扉を開けて様子を確認した。廊下の右側に男の姿が見える。が、相手のほうは男の陰に隠れてわからない。
 ――そういうつもりで言ったんだろ? だったらいいじゃないか、一回くらい。
 ――だから違うってば。私はそんなつもりで言ったんじゃなくて、単純に思ったことを言っただけで……。
 ――でもそれって「好意」がなきゃ言わないことだろ。
 なんだよ、痴話喧嘩か? チッ、くだらねぇ。
 舌打ちして扉を閉めようとしたそのときだった。相手の手首を掴んで無理やり連れていく男の姿が見えると同時に、連れていかれる女の顔も見えて松田は目を丸くさせる。見覚えがありすぎて扉を閉めるに閉められず、結局外に出た。普段だったら確実にスルーする事案だが、彼女が関わっているとなれば話は別だ。自分の行動に驚かされつつ、松田は無性にイライラする気持ちを抑えられずにいた。
(……あのバカは何してんだ。適当にあしらえねぇのか? それか逮捕術でどうにか――)
 そこまで考えてから乱暴に髪を掻き回すと、廊下の奥に消えていく二人を急いで追いかけた。


*


 とある授業でペアになったのが、そもそも運がなかったことの始まりかもしれない。次回までの課題を取り組むために、図書室で一緒に作業した。最初こそ気さくで優しい人だと思って接していたのに、なぜか授業が終わってから事あるごとに付きまとわれるようになった。
 一緒に食事をしよう。一緒に自習しよう。そう声をかけられるたびに同室の子が戸惑っているのをわかりながら、けれど無下にもできず私は曖昧に頷いて許してしまった。それがきっと、相手に「好意を持っている」と思われた原因なのだ。
 今日になって「週末デートしよう」と言われたときはさすがに血の気が引いた。そんな態度を示したつもりは一度もないけど、一緒に食事をすること、一緒に自習することは彼にとって特別なことだったらしい。後にも先にも二人きりだったのは最初の課題をやったときだけで、あとは一応同室の子もいたから、私の中では同じ警察官を志す仲間同士で互いを高め合っているものだと思っていた。
 昼食後、その男に呼び出されてのこのこついていった私はいま目の前でデートを迫られている状況にある。さっきから断っているのに、一向に聞き入れてもらえない。それどころか、強引に事を進めようとしている。

「外出許可はもらったし問題ないよ。君も早く許可をもらってくれないか」
「……ッ、だから私は行かないってば!」語気を強めて彼を素通りしようとした直後、
「強情だな」

 そう言った男の態度が突然豹変した。手首を掴まれ、あっけなく壁に押しつけられる。背中を打ちつけただけでなく、身動きがとれなくなってしまった。これが実務であれば、相手に隙を見せることはないけれど、仲間だと思って油断していた。それに一応この男も警察官を目指す者であり、軟弱そうに見えても日々術科の訓練で鍛えられている。振り払うには難しい。
 今になって同室の子の言葉がグサグサと突き刺さっていた。「思ってることを素直に口に出す」は長所であると同時に勘違いを引き起こす。自分の行動がまさかこんな形で裏目に出るとは思っていなくて、今になってひどく後悔していた。
 男はだいぶ激昂していた。最初に抱いた柔和な印象はもうどこにもない。「聞いてるのか?」と一層力強く握られ、苦痛で顔を歪ませたそのとき――

「おい。嫌がってんのがわかんねぇのかよ」

 目の前に陰ができたかと思うと、次の瞬間には握られていたはずの手首が解放されていた。
 私を覆い隠す身長に、天然パーマのくせっ毛。最近見つけるたびに胸が高鳴るその姿に、私の恐怖が瞬く間に引いていくのがわかる。松田くんだ。どうしてここにいることを知っていたのかわからないけど、彼が助けに来てくれたことに安堵する。
 庇われるように松田くんの背後に隠れたことで、私の視界から男が消えた。

「お前は……松田か。なんの用だ」
「あ? そりゃ俺が聞きてぇなァ。テメェこそ、嫌がってるこいつに言い寄って何の用だよ」

 松田くんが喧嘩口調で男に詰め寄る。助けに来てくれたことには感謝したいけど、ここで喧嘩なんかしたら教官に咎められることは目に見えていた。私のために怒ってくれているのに、彼が罰を受けるのは理不尽だ。喧嘩だけは止めさせないと。「あの、松田くんっ……」彼の服の裾を引っ張って引きとめようとした。

「そ、そんなのっ……お前に関係ないだろ」
「関係あんだよ。こいつに用があんなら俺を通せ」

 ――え?
 あまりにも自然な流れで出たから聞き逃しそうになったけど、いま松田くんは『俺を通せ』って言ったよね。それってどういう意味? 助けるための方便? それとも――。
 松田くんの表情は私から見えなかったけど、「ひっ」男が顔を引きつらせて逃げていったからきっと鋭い眼光で射すくめられたのかもしれない。
 でも私の意識はそれどころじゃなかった。さっきの松田くんの言葉が耳に残って離れなくて、いまだ裾を握っている手が震えていた。


*

「ケッ、二度と来んな」

 松田は男の背中に向かって吐き捨てた。そのすぐ後ろでクスッと小さく笑う声が聞こえたので、振り返って彼女を睨んでしまった。さっきまで男に詰め寄られていたことも忘れて。
 肩をすくめて委縮する彼女に、ハッとして松田は「悪い」と距離をとった。怖がらせたいわけじゃないが、呑気に笑っている場合ではないことを理解してもらう必要はある。

「……だから言っただろーが。ほかの野郎を手放しで褒めるんじゃねぇって」

 以前、「ほかの奴にもそんなこと言ってんのか」と聞いたことがある。あのとき彼女は、はっきり違うと答えが、詳しい話を聞けば、一緒に課題をやる中でスラスラ解いていくあの男に「すごい」と褒めたという。まあ普通ならその一言だけで勘違いを起こす奴はいない。しかし、世の中にはその普通から外れている人間もいることを忘れてはならない。ちょっと優しくされて、「好意を持たれている」と思う奴も中にはいる。

「ごめん、私が甘かった。同室の子にも素直なのはいいことだけど、勘違いする人もいるから気をつけろって言われたのに」
「たまたま俺が近くにいたからよかったけどよ、そうじゃなきゃお前無理やり連れていかれて何されるかわかったもんじゃねぇだろ」
「うん、ごめんなさい……」

 見るからにしゅんとして肩を落とす彼女に、「あー……別に怒ってるわけじゃ――いや、怒ってんのか俺は。まーとにかくアレだ。褒めるのは俺だけにしとけ」我ながらよくわからない言葉で慰めてから、彼女が目を見開いているのを見て、最後は余計な一言だったことに気づく。

「……ッ、ほかの奴らは勘違いするっつー意味だ。別に深い意味は――」
「松田くんは?」
「は?」
「松田くんは勘違いしないの?」
「……」

 いや、なに言ってんだこいつ。俺の忠告をもう忘れてねぇか? そうやって無防備に素直さを発揮して痛い目にあったばっかだろ。
 深い意味はないと言おうとしたら、向こうから「勘違いしないのか」と意表を突かれた問いに思わず口ごもる。どういう意味で聞いているのか、理解はできるが、認めるのはなんだか時期尚早な気がして松田ははぐらかすことを選んだ。

「……意味わかんねぇこと言うな」
「そっか……変なこと聞いてごめんね。助けてくれてありがとう」

 何が「意味わかんねぇ」だ。恰好つけてんじゃねーよ。意味なんて嫌っつーほどわかってんだろ。
 小走りで去っていく背中を呼び止める言葉を必死で押し殺し、松田は奥歯を噛みしめて葛藤する。ここで自分が何か言えば、それは「勘違い」どころか肯定することになる。
 あの日、「ほかの人には思わないし、松田くんだからそう思ったの」と本気で技術を褒めてきたあいつの顔を唐突に思い出して、柄にもなく胸が痛んだ。