十月の文化祭準備
十月に突入すると、校内は一気に文化祭モードに切り替わる。放課後も部活動より係仕事が優先されるため、バスケ部の練習に全員が集まる頃には五時半を回っている。エースももちろん係の仕事があるのだが、一応曜日ごとに当番が決まっているので今日は部活を優先してもいい日だった。スポーツバッグを肩に背負って、ひとり体育館に向かって歩く。
ところが、途中の昇降口前を過ぎたところで妙な会話が聞こえてきたために足を止めた。
「看板制作なんてクソめんどーだと思ったけど、白石さんが快く引き受けてくれたからラッキーだったな」
「お前自分の仕事くらいちゃんとやれよ。あの子が断れねェこと知ってるくせに」
「いいんだよ。自分でやるって言ったのは白石さんなんだし」
「どうせ言わせたんだろ」
校庭に向かうところだろう、サッカー部のクラスメイト二人が外履きに履き替えながらせせら笑う声が聞こえた。エースは体育館に向かっていた体をくるりと九十度回転させて昇降口に移動する。白石という名前を出された上に、またあいつが損な役回りをしているとわかったら黙っていられなかった。
自分でやると言ったのは白石だと主張しているが、そいつの友人が指摘した通り「言わせた」のだろう。彼女の性格上、どうしても抜けられない用事があるとでも言っておけば、一人でやるから大丈夫くらいは言いそうな女である。どうしてこういつもいつも一生懸命なあいつが損をしなければならないのか。エースの苛々は募る一方だった。
「おい。お前――」エースがクラスメイトに声をかけたとき、
「げっ、先輩から早く練習参加しろって連絡きた。行こうぜ」
と、スマホを取り出した友人が係仕事をばっくれようとする男子を引き連れてさっさと昇降口を出て行ってしまったので、エースの呼び声は男に届かなかった。先輩に呼び出されたって三年はもうとっくに引退してるだろ、と思わなくもないが、サッカー部の事情はよく知らないので一概には言えない。
結局、呼び戻すのも億劫になったエースはしばらく考えた末に、ポケットのスマホから部活仲間に一報を入れて、体育館のほうではなく再び教室へ戻ることにした。
エースのクラスは最近流行りの謎解きゲームをすることが決まっていた。最後の答えとなる単語を決めておき、その単語を導き出すための五つの言葉を五つの謎解きで解き明かすというものらしい。随分手の凝ったゲームを考案したものだ。班で一つずつ謎解きを考えなくてはならず、エースの班は昨日ようやく完成したばかりだった。
階段をのぼって自身の教室へ向かう。文化祭が迫っているせいかどこの教室も残って作業しているが、ほとんどが複数人であり、和気あいあいとした楽しそうな笑い声が聞こえる。それなのに、自分のクラスからは笑い声どころか話し声も一切聞こえない。エースは迷わず扉を開けて中を確認する。
少し乱暴な開け方をしてしまったせいで、小さな背中がビクッと震えたあとゆっくりこちらを振り返った。膝をついて看板に色を塗っている途中らしい彼女は、汚れないようにするためかジャージ姿だった。こちらの姿を見た途端、驚いて目を丸くさせる。なんでいるのって顔だ。まあそれもそうだろうな、自分だってサッカー部の会話を聞かなければそのまま体育館に向かっていたところだ。
しかし、知ってしまったら体は勝手に動いて彼女の元に向かっていた。どうしてこんなふうに感情的になり、理性よりも本能で体が動いてしまうのか。エースはすでにはっきり自覚している。彼女に対する気持ちを。
「やっぱりな」
「ポートガスくん、どうして……?」
「お前が係仕事を押しつけられて一人で作業してると思ったからだよ。来て正解だった」
「これはっ……××くんが部活でどうしても行けないって言うから私ひとりでも大丈夫って思っただけで、別に押しつけられたわけじゃ――」
「アホか。こういうのは押しつけって言うんだよ。担任も部活より係の仕事が優先されるって言ってただろうが」
白石の言葉を遮って、エースはつい強い口調で言い返した。こいつは他人の言うことを鵜呑みにしすぎなところがある。こうしてすべてのことを馬鹿正直に信じてたら、いつか本当に騙されそうで心配になる。しかし、当の本人はいまいちわかっていないようで、だからこそ何度も人の頼みを簡単に引き受けてしまうからエースは気が気でない。
しかし、自身の発言に少しだけ後悔もした。自覚したら彼女に対して優しい態度をとることができると思ったのに、今までとあまり変わりないような気がする。いや、そもそも自覚したあとはどうすりゃいい? エースの心はここ最近、彼女のことでぐちゃぐちゃと乱れっぱなしだ。
「えっと……ごめんなさい」
耐えきれず、白石が謝ってきたので調子が狂う。委員会で初めて会話を交わした頃と距離が縮まっているのかわからなくなってきた。夏休みが明けてすぐ、二人で出かけた休日がまるで嘘のようだ。とはいえ、善良な人間だと思われて利用される彼女を見たら黙っているわけにもいかないので、エースは表情を引き締めて彼女に伝える。
「お人好しなのはお前のいいところだと思うが、何でもかんでも引き受けるな。そいつのためにならねェことは優しさとは違う」
「う、ん」
白石が小さく返事をしてそのまま俯いてしまったために教室内は静寂に包まれた。彼女との間に気まずい空気が流れているが、手伝うために来たのでこのまま帰るという選択肢はなかった。
「……おれもやる。色を塗りゃいいんだな?」
ワイシャツの袖をめくって彼女の隣に胡坐をかいたエースは少々ぶっきらぼうに問いかけた。見れば、看板には「青」や「赤」とそれぞれ塗る色が鉛筆で薄く書かれているのでその通りに塗ればいいのだということがわかる。
性格を表すようなゆったりした動きで顔をあげた彼女が驚きつつも、嬉しそうに頬を緩めてありがとうと呟く。その表情に不覚にも心臓がぎゅっと音を立てたが、彼女に気づかれるのが恥ずかしくて「別にっ、気にすんな」と放置されていた絵筆をとって色塗りをはじめた。
*
文化祭準備は曜日ごとに当番が決まっている。私は木曜日担当だ。当然私のほかにも数人担当者はいて、看板制作から内装係、買い出し係などいろいろ決まっている。ところが、同じ看板担当の××くんから「部活でどうしても作業ができない」と言われて、いつものごとく一人で引き受けてしまった。時々、部活単位で出店するところもあるからサッカー部も何かあるのだろうと思ったのだ。
こうしてほかの人が別の場所で作業する中、私だけが教室に残って看板の色塗りをしていたところに、まさかのポートガスくんが現れたので私は動揺した。詳しく聞けば、××くんは結局ただの部活参加らしいことと、代わりにポートガスくんが手伝いに来たということがわかった。彼には案の定怒られてしまったが、手伝いに来てくれたという事実が私には嬉しくて押しつけられたのも悪くなかったかも、と楽観的に考えた。
午後の四時半を回って、日が傾きはじめている。予定では五時に作業を終わらせて部活へ向かうことになっているのであと三十分ほどだ。看板はポートガスくんが手伝ってくれているおかげで、三分の一程度色塗りが終わったというところだった。
それにしても――ちらりと視線を斜向かいの彼に向ける。制服のまま絵筆を真剣に動かしている姿は、普段の豪快で活発的な面からは想像できない。ちょっと眉間にしわを寄せて、はみ出さないよう絵筆に神経を集中させているのがかわいい。図書当番のときと同様、新鮮な姿に私の心は簡単にときめいてしまう。
最近のポートガスくんは何かと気にかけてくれている、ということは自分でも理解していた。自惚れかもしれないけど、初めて当番をした頃よりは仲良くなれている気がする。私の気持ちを知っていてもこうして話しかけてくれるのは、少なくとも私の気持ちは迷惑ではないということだろうか。少しは彼に近づけていると思ってもいいのかな。
「おい。さっきも言ったけど、少しは断ることも覚えろ」
「え?」
考え事をしていたら、突然ポートガスくんと目が合った。
「いいか? お前がお人好しで頼みごとを断れない奴だと思われてるからこうやって利用されるんだ。部活の用事なんて知ったこっちゃねェんだよ、係の仕事は全員同じ条件だろうが」
「でも、もし本当に大切な用事があったら――」
「ンなこといちいち気にしてたらいつかパンクするぞ。何でもしてあげりゃいいってもんじゃねェだろ」
ポートガスくんの表情が少し険しくなった。彼がこんなふうに怒るのは、私が煮え切らない性格だからだ。いや、煮え切らないどころか結局嫌なことを嫌と断らないところが彼を苛々させるのだろう。手伝ってくれて嬉しいなんて舞い上がる前に自分の性格を変えなければ、私なんかが好きになってもらえないということはわかっているのに。
「ポートガスくんが私の性格を疎ましく思って不快になるのはわかる。ごめんね」
「……まァそうだな。不快っちゃあ不快だ」
「……」
やっぱりそうなんだ。自分で言っておきながら、実際本人の口から聞かされると苦しい。少しは近づけたなどと思った自分が馬鹿みたいだ。恥ずかしい。私とポートガスくんとじゃ、立っている場所が全然違うのに。
コトン、と彼が絵筆を置いてこっちをじっと見ている。まだ、何か言いたそうだ。
「いつも一生懸命に動いてる白石がほかの奴にいいように使われてるのを見ると腹が立つんだよ。平気ってツラして我慢して損な役回りばっかだろ、おれはそれがすげェ嫌だ」
ポートガスくんのちょっと不機嫌そうな声色が教室に響く。私はその言葉を聞きながらどういう意味だろうと必死に頭を回転させる。不快だと言われたはずなのに、私が損な役回りをするのが嫌だとも言われて。もしかして彼は私のために怒ってくれているのだろうか。勘違いしてはいけないと思いつつ、彼がこういう場面で嘘をつくとも思えない。
落ち込んでいた私の心がふたたび浮上してくる。
「損な役回りばっかじゃないよ。今日だってポートガスくんが手伝いに来てくれて嬉しいって思ってる」
「はあ? それは偶然話を聞いたからで、」
「でも、来てくれた。放っておくこともできたのに。やっぱりポートガスくんは優しいよね」
そう言うと、ポートガスくんは呆れた顔してハァと盛大なため息をつき「勘違いしてるみてェだから言っておくが」ときまりが悪そうに頭を掻いた。
「おれは誰にでも優しいわけじゃねェ。お前だからほっとけねェんだよ」
「……」
「意味わかるか? 白石が好きだって言ってんだ」
ポートガスくんがさらっと口にしたので、私の耳は危うく聞き逃しそうになった。
ちょっと待って。彼が私を好き……? え、え、どういうこと……彼の言葉を理解した途端、どかんと顔から火を噴いて「え、あっ、どういう、え……?」と混乱する。
「そういうことだからあまり隙を作るな。見てて危なっかしいんだよお前。あとはもう一人で大丈夫だよな? おれァ、このまま部活へ行く。ほんじゃ……また明日」
目を合わせないまま早口でまくし立てたポートガスくんは立ち上がって机の上に置いていたスポーツバッグを取った。
何も言わせてくれないまま部活に行っちゃうの……? そんな言い逃げずるいよ。
よほど部活へ行きたかったのか、足早に消えていく長身の背中を物言いたげに見送った。