七月のある日
朝、八時を過ぎた頃のこと。
バスケ部の練習を終えたエースは気だるげに階段を登って教室までの道のりを歩いていた。いつの間にか春が過ぎて、湿度が高いジメジメした気候になり、気温はさほど高くないのに蒸し暑い。へばりつく制服が鬱陶しくて、ワイシャツを脱ぎたい気持ちになる。そういえば、サボが汗拭きシートとかいう優れモノを持っていたのを思い出して、もらいに行くかと決めた直後――
「ミョウジさん、おれ放課後に補習があってすぐ行かなきゃならないんだよねェ。掃除当番代わってくんね?」
最近よく聞く名前を耳にして、エースの足は踊り場でピタリと止まった。
ミョウジは同じ図書委員を担当することになって接点を持った女だ。おどおどしていて鈍くさいのが特徴的で、頼みを断れないお人好し。言いたいことをため込んで吐き出す方法を知らない奴だから、たまにこっちが促してやらないといけない変な使命感が最近は生まれつつあった。それまで気にかけもしなかった彼女のことを、当番が終わってもこうして気にしてしまうのは、エースが少なからず彼女に対しての印象が変わったからにほかならない。友人の多くない彼女からしたら、自分は貴重な話し相手だろう。相変わらずおどおどしているが、最初の頃より目が合うし、笑うようになった。
今の台詞から会話相手が彼女だということは理解したが、声の主はクラスの誰かということしかわからなかった。なんとなくその場から動くのが憚られて、エースは彼女がきちんと断るかを待った。掃除当番は誰しも平等に与えられた仕事であり、補習があるからといって代わってもらえる理由にはならない。そもそもこの男に補習があるというなら、彼女にだって部活がある。
しかし、彼女の答えはエースが望んだものではなかった。
「いいよ」
たった一言。短い返しで会話が終了し、男は「よっしゃーありがとね~」とあからさまに喜びの声をあげて教室にほうに戻っていくのが、ちらっと階段の手すりから覗いた先に見えた。残されたミョウジが気になってそっと覗けば、落胆したような表情で重いため息をついていたので、エースはちっと小さく舌打ちした。
「何してんだあいつ。断れよ」
ぼやいてから彼女がとぼとぼと教室に向かっていくのを見届けると、素早く階段を登り切り、自身の教室を通り越して隣のクラスにいるはずのサボを探した。
「なるほど、それで機嫌が悪いのか。わかりやすいなエース」
例のシートをもらうために声をかけたら、仏頂面である理由を問いつめられて仕方なくひととおり話したあとの、相手の第一声がそれだった。ニヤニヤしながらこっちを見ている。サボの奴、楽しんでるな。
「ミョウジさんが断らなかったことに苛々してるんだろ?」
「だったらなんだ。あいつ全然変わってねェぞ」
言いきられて反論できなかったために開き直ると、居心地の悪さをごまかすようにサボにもらった汗拭きシートで首回りを拭った。何が含まれているのか知らないが、やけに爽快感があってさっきまでのベタベタした肌が急にサラッとして素直に感動する。
どこかの女子グループから悲鳴に近い歓声が沸いてエースは驚いたが、いつものことなのかサボはまったく興味を示さなかったのでこっちも無視することにする。ほかの机でも何人かが集まって朝から盛り上がっているので、その喧騒に紛れるようにひっそり会話を続ける。
「だからお前がいるんじゃねェか。そういう彼女に断り方を教えてやるって意気込んでたのはどこの誰だったっけ」
「――つっても、あのままじゃあいつばっかり損するだろうが」
「焦るなよ。あの子がエースみたいに何でもはっきり言えるならそもそも苦労してない。ゆっくり見守ってやれ」
冷やかすような楽しんでいる顔から一転してサボの瞳がやわらかく光る。こちらの心情を理解して諭してくる言い方にちょっと辟易しつつ、親友のこういうところに助けてもらってきたのも事実で無下にできない。
「わかってる」
「本当か?」
「しつけェぞ。大体お前はどういう立場で言ってんだ、親か」
サボがじろじろ見てくるので視線から逃れたくなり、用も済んだので自分のクラスへ戻ろうと踵を返す。これ以上いたら本格的な説教になりそうだ。
「心配して言ってるんだよ。せっかくできた女の子の友達だろ、大事にしてほしいだけだ。それに……あの子の気持ちも知ってるからさ」
「……」
背中にかかった言葉には答えず、右手をあげて挨拶代わりにする。
後ろでまた大きな声が上がり、朝っぱらから元気な奴らが多いものだと自身のテンションの低さを比較にしてそう思った。
"せっかくできた女の子の友達"
サボの言葉に妙な引っかかりを覚えたが、その正体がわからずエースはモヤモヤしたまま自分の席についてホームルームまで机に突っ伏す。一瞬だけミョウジが視界に入ったものの、いつもの友人と話していたので特に気にすることはなかった。
▽
ったくめんどくせェ。あのおっさん、おれのこと目の敵にしてんだろ。大体教室から美術準備室までどんだけ距離があると思ってんだ。
胸中で愚痴をこぼして、段ボール二箱を抱えなおす。階段を下りてから昇降口を通り過ぎ、まっすぐに伸びる廊下の突き当たり手前にあるのが美術室だが、教室から遠いのが難点であり、もっと言えばエースは美術を選択していないので本来こんな場所に来ることはない。にもかかわらず雑用をやらされる羽目になったのは、たまたま奴の前を通りかかってしまった不運によるものだ。
何が「ポートガス、ちょうどいいとこにいるな」だ。おれ以外にもいただろ、もっと暇そうな奴。
ぶつくさ文句を言いながら、何とはなしに窓のほうへ視線をやったときだった。
ここ二か月くらいで非常に見慣れた背中を見つけて、エースの足はふたたびその場で止まった。別に気にすることもないとも思ったが、そいつだけではなかったせいだ。嫌な予感がしたエースは段ボールを床に投げ出し、急いで中庭のほうへ向かった。
この学校の校舎は職員室や各クラスがある本校舎のほかに東校舎と北校舎がある。何年か前に建て替えしたとかで本校舎は新しいが、残りの二つはまあ結構古い。そのうち、東校舎と本校舎を結ぶ空間に中庭があって、ベンチやちょっとした広場みたいになっているので昼休みは生徒たちがよく昼飯を食ったり、ボール遊びをしたりする場所になっている。
その中庭の一角、花壇が三つ並んだところの中央にミョウジは立っていた。掃除の途中だろう、彼女の脇にゴミ箱が二つ置かれている。相変わらず地面を見てもじもじしている彼女に対して、相手の男のほうは妙にソワソワしていて顔を赤く染めていた。男の顔をよく見れば、同じクラスのサッカー部だということがわかり、しかしエースの知る限り、あの二人が接点を持った記憶はない。てっきりまた頼まれ事を断れずに引き受けているのかと思って駆けつけたというのに、一体なんだこの状況は。
盗み聞きは良くないと思いつつ、エースは自販機の陰からこっそり二人のやり取りに耳をそばだてる。
「だからさ、考えてみてよ。別に今すぐ好きになってほしいってわけじゃないんだ」
「えっと、でも私には――」
「友達からでいいし、仲良くなったら気持ちが変わるかもしれないでしょ」
男が言いきったことに対して、ミョウジは困ったように笑いながら曖昧に頷いた。
こういったことに疎いエースでもわかる。これは紛れもなく”告白”というやつだろう。誰が誰に? 自身の胸に問いかけて、エースはちらりと彼女に視線を向けた。
あいつが人より少し鈍くさくて、頼み事を断れないお人好しだということはクラスの連中なら知っている事実だ(その時点でエースは気に食わないが)。いじめられているわけではないにしろ、「ミョウジに頼めばやってくれる」という暗黙の了解になっている節がある。他人を気にするあまり、自分は損な役回りばかり。そんな彼女が勇気を振り絞って気持ちを伝えてくれたのが二か月ほど前。なのに、大して関わりもないクラスの男に流されかけている。
――おい、なに頷いてんだ。お前が好きな奴はおれじゃなかったのか? そんなすぐに切り替えられるほど簡単な気持ちだったのかよ。
エースは無性に腹が立って今すぐ二人の間に割り込みにいきたい衝動に駆られたが、そうすれば盗み聞きしたことが知られてしまい弁解する余地がないのでぐっと堪える。
「あのっ……気持ちは嬉しいんですけど、やっぱり私は」
「あーもうごちゃごちゃうるさいな。普段は断らないくせにこういうときは頑固なのかよ」
ふいに男の口調が変わった。ため息を吐き出して髪の毛を少し乱暴に掻きむしったあと、面倒くさそうに続ける。
「ミョウジさんなら絶対イケるってあいつらが言うから乗ったのに、これじゃ負けじゃん」
男の赤らんだ顔はすでに消えて、一気に白けた表情でミョウジを見ていた。何を言われたのかいまいち理解できていないミョウジは、相手の変貌ぶりに目を丸くさせている。誰がどう見てもこれは純粋な好意からくる告白ではなく、賭けの対象にされた胸糞悪い茶番劇だった。
くだらねェことしやがる。
そう思ったらエースの体は勝手に動いて、あれほど盗み聞きをしていることがバレるのはまずいと思っていたのに気づけば彼女の前に立っていた。男は突然現れたこちらの存在に「どうして」という顔をしているが知ったことではない。
「こいつは好きな奴いんだよ。お前らの賭けに付き合えるほど暇じゃねェ。くだらねェことに巻き込むな」
「はあ? なんでお前にそんなこと言われなきゃいけねェんだよ」
「なんでもクソもねェ。大体こいつは掃除中だ、見りゃわかんだろ。ンなことしてる暇があるなら手伝えよ」
食ってかかってきた男に吐き捨ててから、エースはミョウジの腕を強引に引っ張って歩き出した。この先のことをまったく考えずに飛び出してしまったが、ひとまず美術準備室へ段ボールを運んでいる途中だったことを思い出して来た道を戻ることにする。ミョウジもまたゴミ捨ての途中であることはすっかり頭から消えていた。
担任から渡された美術室の鍵を使って入り、中から通じる奥の部屋が準備室になっているらしいのでドアノブを回して開ける。無言でついてきた(無理やりエースが連れて来た)ミョウジが自然と段ボール一つを持ってくれたので、二人で運び入れて中のものを棚にしまっていく。
互いに喋らない上に東校舎の端ということもあって余計に静けさが増し気まずいが、今は彼女の拒否しない性格をありがたく思った。あのまま置き去りにしたら、彼女は強引にあの男の賭けに乗る羽目になって付き合いたくもない奴と付き合うことになるんじゃないかと不安になったからだ。
そんなこと許されるわけがない……って、なんでこんなむきになってんだおれは。別にこいつが誰と付き合おうがおれには関係ないはずだ。いや、関係なくはねェか。
ダァーーー考えてもわからねェ。
がしがし頭を掻いて、いったん作業の手を止める。
「おい」
高圧的な言い方になってしまったが、背中を向けていたミョウジがゆっくり振り向いてぎこちなさそうに答える。
「……は、い」
「お前はおれのことが好きなんだろ。なのになんであいつの言うことに頷いてんだよ」
「それは……」
キツい口調になったせいか、ミョウジが俯いて口を閉ざした。図書当番をしていたときのような、言いたいことをのみ込むときの彼女だ。こんなふうに追い込みたいわけじゃない。
そもそもどうして苛々しているのだろう。さっきから感情を抑えられないガキみたいだ。自分のことなのにまるでわからない。
彼女がもう少し他人に対して物事をはっきり言えることができたらこんなもどかしいことにはなっていないだろうが、サボの言う通り今の彼女はあれが精いっぱいだということも本当はわかっている。しかし、そうだとすれば自分の気持ちくらいは大切にしてほしいものだ。大して話したこともないクラスメイトなんかに心変わりするなと言いたい。
「お前はホイホイ好きな男を変えるような奴なのか?」
「違うよっ! 私が好きなのはっ……」ミョウジが勢いよく顔を上げて否定する。それだけは必死になって伝えようとしてくれる。
「……」
「……ポートガスくん、です」
大声で「違う」と言ったくせに、最後の「ポートガスくん」という部分はやけに小さかった。恥ずかしそうに目を伏せて、耳まで真っ赤にして。ああ、こいつが好きなのはおれなのかと思うと、不思議と気持ちが満たされていく。さっき中庭にいたときよりだいぶ気分がいい。
相変わらず東校舎は静かだった。そもそもここは多目的室や実験室といった移動教室で利用するような教室しかないので、部活がなければきっとずっと静寂したままだ。沈黙が続くことの気まずさを誤魔化すために、エースは口を開く。
「そうか。あー……ゴミ捨ての途中で連れて来ちまって悪かった。これ終わったら手伝う」
「ッ、本当? ありがとう、嬉しい!」
「お、おう……気にすんな」
このときのエースは、自分の思考回路がいかに単純かということを実感していた。嬉しいと素直に表現するミョウジの笑顔に簡単にときめいて、苛々が完全に解消されたのをはっきり自覚した。そして、さっきまでわからなかったはずの苛々の理由を理解した途端、あっけなく納得してしまった。すとんと腹の底に落ちてきて、けれど今すぐどうこうできる問題でもなく、ひとまず目の前の作業に集中することに決める。
そのあと、準備室の片づけは平坦に進み、中庭に置きっぱなしにしていたゴミ箱の処理も難なく終えたエースは、友人に対して「また明日」と言うのと同じ感覚でミョウジに別れを告げて部活に向かった。
部活を終えたその日の帰り、下駄箱で待っていたサボに「何かあっただろ」と早々にバレて仕方なく放課後の出来事を細かく打ち明けたのだが(いや実際は結構端折った)、ゲラゲラ腹を抱えて笑われたので思わず親友をどついた。