運命の変わり目

 サボと連絡が取れなくなってから五年と半年が経過しようとしていた(当然、アウトルック家との婚姻の話は破談となった)。十歳になったフレイヤは、それでも負けじとつまらない稽古に励み、勉強をこなし、淑女への道を順調に進んでいた。望んでやっていることではないにしろ、あと数年経ったら家を出るつもりでいる。今は耐え忍ぶときだと、そう思っている。
 そう思っているが、やはりつまらないものはつまらないので時折屋敷の外に出てやんちゃをすることもあった。あるとき顔中泥だらけになって帰ってきたことがあり、母が失神してカートレット家が大騒ぎになったこともある。もちろん説教されて「そんな子に育てた覚えはありません」と言われた。しかし、こちらも好きでやっていることではないと言い返す――ということはしなかったが、胸中では常に思っていることだ。
 淑女たるもの礼儀正しく美しく、汚いものには決して触れないこと。
 母が毎日のように使っている言葉だ。つまり、泥なんかをつけて家の中に入ることは母の中であり得てはいけない。花が好きなフレイヤには到底無理な話なので、見つからないようにあれからはこっそり庭師の手伝いをしている。
 変わったことといえば、二歳下の妹エヴァが典型的な貴族になりつつあることだった。両親のいうことをよく聞き、家庭教師から貴族の心得を教え込まれた彼女は、見事に誇り高き貴族をまっとうしていた。
 フレイヤの後ろにくっついて「遊んで」とせがむ可愛らしい妹の姿はもうない。自我を持ち、外で花をいじったり、走り回ったりするフレイヤを軽蔑するような目で見ていた。姉妹の性格があまりにもかけ離れていることに気づいた両親も、いつしか長女であるフレイヤではなく、律儀に言うことを聞くエヴァにカートレット家の未来を託すようになっていった。

 そうして月日は流れていき、"東の海"で最も美しいとうたわれる平和なゴア王国に一大イベントが訪れようとしていた。
 午前中のつまらない勉強を終えたフレイヤは、いつものごとく隙を見て図書館に行く予定でいた。最近見つけた"偉大なる航路"の島々の地理の本はフレイヤの好奇心をくすぐる内容で、今日はその詳細が書かれた本を探すつもりでいる。
 セント・ヴィーナス島という面白い地形の島は、美しい絶景と料理に文明、写真で見る限りその島から見渡せる海の青は言葉で表現することが難しいほど綺麗なのだ。この世界に、ただ美しいだけで片付けられない魅力がある<もの>が存在することにフレイヤはますます興味を惹かれた。そしてそれは、"ここ"にいては絶対に得られない。
 ゴア王国に世界貴族の"天竜人"がやって来るという話を聞いたのはそんなときだ。興味がないので聞き流したのだが、どうやら国にとっては一大事らしい。どれほど偉いのか、そわそわする周りの貴族を見てげんなりした。けれどやっぱり自分には関係ないと、図書館へ行くために裏口へ回ろうと忍び足で移動していたときである。
 妹と両親の会話が聞こえた。

「エヴァ。今日の授業もよく出来ていたそうだね。シンディー先生が褒めていたよ」
「ありがとうお父様。簡単だったから当然ですわ」

 フレイヤとエヴァについている家庭教師は同じだが、明らかにシンディー先生はエヴァを贔屓しているのでフレイヤは好きではない。もっとも、先生の話を右から左へ聞き流しているフレイヤの態度が悪いというのもあるのだが。
 彼らが会話に夢中になっている今のうちに、とフレイヤが取っ手を回そうとした――

「明日の夜、いよいよこの国も本当の意味で綺麗になる。そうすれば、もっと注目されるようになってこの国は大きくなるし、そうなればカートレット家も領地拡大が期待できるというものだ」
「あなたが自警団の指揮官を任されているって聞いたわ。王族に功績を認められれば、カートレット家の地位は安泰も確実だと」
「シンディー先生が言っていました。ゴミ山というのはこの国の汚いものが集まる場所。汚いものは要らない、だから排除しなければならないって」
「ああそうだとも。ゴア王国は東の海でいちばん美しい国と言われているのだ。そのためにあの場所は消す必要がある」

 三人は笑って話をしていたが、フレイヤにはなんだか恐ろしいことを言っているようにしか聞こえなかった。けれども、その場で話の輪に入っていく勇気がなかったフレイヤは逃げるようにして屋敷を後にした。


 図書館で用事を済ませた帰り道もどこかぼうっとした心地で家にたどり着いた。いつも親切にしてくれる司書の人とも、どんな会話をしたか覚えていない。気づけば本を持って家に帰っていたのだ。
 掃除をしていたカロリーナが目ざとくフレイヤの姿を見つけて呆れた顔をする。

「またフレイヤ様は外に行かれたんですか? 懲りないですねえ」
「うん……ごめんなさい」
「……そんなふうに素直に謝られると逆に困りますけど……どうされました? 元気がないですね」

 謝ったことに驚かれ、仮にも雇い主の娘に対して失礼であるがフレイヤはそういうのを気にしないので咎めることはせず、不安を口にする。

「ねえカロリーナ。明日の夜、なにが起こるの……? あなたはなにか知ってる?」

 聞いた瞬間、カロリーナは目を見開いて視線をそらした。カロリーナは嘘がつけない人間だ。これでは知っているも同然の態度である。

「教えて! 一体なにが起こるの? お父様たちはゴミ山がどうとか言ってたけど、ゴミ山ってなに?」
「……フレイヤ様は、なるほど。ゴミ山を知らずに育ってきたのですね。ですが知らないほうが幸せなこともあります。それでもお聞きになりたいのですか?」

 カロリーナの真摯な瞳がフレイヤを射抜く。こんなに強く見つめられるのは初めてかもしれない。フレイヤの言動を咎めながらも、いつだって彼女はフレイヤの味方だった。
 知らないほうが幸せなこともある。
 ――そうだね。きっと、知ってしまったら戻れないのかもしれない。
 けれどなぜかそのとき、知らなくてはならないと思ったのだ。フレイヤがこの先、どう生きていくかまだわからないとしても、この国の民として知っておくべきなのではないかと、フレイヤは何かを強く決意した目でカロリーナを見つめ返した。

「はあ……わかりました。そこまで言うならお話ししましょう。ただし、ここではまずいのでフレイヤ様の部屋で。掃除を済ませたらうかがいますから、少しお待ちください」