グッバイアンチテーゼ

 駆け足で屋敷に戻ったフレイヤは家族がいるであろうダイニングに押しかけた。ノックもせず、扉を開けたフレイヤに両親も妹も驚いた顔で見つめている。しかし父はすぐに険しい顔をして席を立つと、フレイヤの頬を引っぱたいた。

「こんな時間までどこにいたんだ」
「それは……ごめんなさい」
「謝るくらいなら最初からするんじゃない。お前はいつもいつも――」
「まあいいじゃないお父様。フレイヤお姉様もこう言ってるんだから」

 俯くフレイヤに同情したのか、エヴァが窘めるように父に言った。けれどその声色は不気味なほど楽しそうで、なんだか怖い。可愛い妹の頼みにため息をついた父は仕方なく「座りなさい」と食事の席へ促した。父の真向いに座っている母は、こちらから表情は見えないがきっと落胆している。いつものことだ。
 背中を押されて座るように言われたフレイヤは、しかしその場で立ち尽くして父を見つめる。

「なんだ、何か言いたいことでもあるのか」
「お父様。グレイ・ターミナルを燃やすというのは本当なの?」グレイ・ターミナルという単語に、父は肩をぴくりと揺らした。フレイヤは続ける。「あの場所は人も住んでるところだよ」
「……ゴミ山の存在を知っていたのか」

 小さく頷いたフレイヤは父の続きの言葉を待った。嘘だと言ってほしかったのかもしれない。そんなことするわけないと、だってあの場所には人が住んでいるのだからと。
 フレイヤの願いも虚しく、父は冷酷な瞳で言葉を紡いだ。

「本当だとも。ゴミ山はこの国から不要だと判断されたモノが集まる場所。それがたとえ人であっても、だ」
「で、でもそんなことしたら、しんじゃう――」
フレイヤ!」急に大声で名前を呼ばれて、思わずのけぞる。父の目がフレイヤに有無を言わせない。「あれは汚点なのだ。人間の形をしたゴミであって、人間じゃない」
「な、なにいってっ……」
「わかるな? 天竜人が来るということは、そういうことなんだ」
「わからない、お父様。私にはわからないよっ!」

 気づけば嗚咽をもらして泣いていた。床にぽたぽたと涙が落ちていくのも構わずに、父にすがりついた。別に家族を困らせたいわけではないのに、どうしてかフレイヤの気持ちは彼らに届かない。理解してもらえない。それがひどくもどかしくて、けれど十歳のフレイヤにはどうすれば解決できるのかがわからなかった。
 やがて、父の「カロリーナ」という声で我に返ったフレイヤは顔をあげた。

「この子を部屋へ連れていけ」
「……!」

 扉の前で待機していたカロリーナが父からフレイヤを引き離すと、そのまま手を引いてダイニングを出ていく。呆然として連れられるまま、後ろ髪を引かれる思いでフレイヤはその場をあとにした。
 自分の言葉が父に届かなかったのだと悟った。


 部屋に連れてこられたフレイヤはベッドに突っ伏して涙を流した。あまり泣くことがないからか、傍に立つカロリーナが動揺したまま突っ立っている。それでも声をかけずにただそこにいてくれることは、今のフレイヤにとってありがたかった。
 心のどこかでまだ期待していたのだ。
 貴族は素晴らしいと鼻高々にする父。汚いものには絶対に触れるなと釘を刺す母。そして、それが正しいと疑わない妹。彼らは、王族や自分たち貴族がほかとは違う人間だと自負している。だから、当然な顔してああいうことが言えたり、できたりする。貴族がどれだけ偉いのかということを誇示してくる。
 しかし、貴族だからといって人が人を殺していい理由にはならない。それは十歳のフレイヤにもわかることだ。それなのに彼らは平気であの場所に火を放つことを受け入れていた。汚いものは排除する。たとえ人であっても。それが貴族の、ひいてはこの国の答え――
 もう、フレイヤの言葉は届かない。

「カロリーナ」
「はい」
「私が、間違ってるの?」
「……」
「カロリーナ」
「……フレイヤ様は、何も間違ってなどいません」
「じゃあ――」
「ですが! それがこの国の現実です。私たちにはどうすることもできません」
「どうして? 間違ってることを放っておくほうがどうかしているわ」
「それは……」

 フレイヤの指摘に対し、カロリーナは言葉を詰まらせた。けれどすでに答えは出ている。高町に住んでいる人間は、誰も"間違っている"と思っていないのだ。カロリーナの家系は中心街にある庶民の出だから、多少理解があるかもしれないが。
 悔しくて、いつのまにか拳を作って強く握りしめていたらしい。カロリーナがそっと近づく気配がした。

フレイヤ様。先ほどお話ししたように、この世界には何よりも尊ぶべき存在があるのです。そしてその権力は絶大。これは世界の理であり、きっとこの先も変わらないでしょう」
「ほんとうに……? ぜったい誰にも変えられないの?」
「絶対、とは言い切れないですが、現時点では世界貴族に対抗する勢力は聞いたことがありません」

 それを聞いて顔を上げていたフレイヤは再びベッドに突っ伏した。
 この国の考えを変えることはできない。つまり、現時点のフレイヤにできることは何もない。やるせない気持ちが押し寄せて、止まっていた涙がまたしてもシーツを濡らしていった。