戻れるような夜はもうない

 王族や貴族たちによるゴミ山消去決行の夜、カロリーナの制止を振り切って屋敷を抜け出したフレイヤは、燃え盛る大門の向こう側をただ見つめながら結局泣くことしかできなかった。軍隊の群れにもみくちゃにされて邪魔だと言われながらも、泣きながら叫んだ。
 門の向こう側に一体どれほどの人が住んでいて、どれほどの人が逃げることができたのか。フレイヤには知る由もないが、せめて一人でも多く助かりますようにと祈りながら眠った。
 翌日起きてみると、高町の人々は何事もなかったかのように平然と日常を送っていた。それどころか、明日訪れる"天竜人"とかいう世界貴族のための記念式典の準備でせわしなくしている。
 気持ち悪い、と思った。事情を知らない中心街より向こうの住人は海賊の仕業と噂しているがまったく違う。これは、紛れもなく高町に住む王族や貴族――つまり国が何か月も前から計画していたことで、彼らが海賊に指示しただけだ。そしてここに住む人間は、誰もそれを”異常である”とは思っていない。その事実こそ、一番恐ろしいことのような気がした。


 昨日の今日で何も手につかず、礼儀作法の時間は先生から何度も注意を受けた。
 集中力が足りない、式典は明日なんですよ、カートレット家の一員として恥ずかしくないのですか。
 浴びせられた言葉は、しかしフレイヤの耳に響かなかった。そんなこと、もうどうだっていい。あんな恐ろしいことができる高町の人間に、教わることなど一つもない。早く授業が終わればいいのに、と時計を何度も見た。
 すべての授業や稽古が終わる頃には、フレイヤの疲労は限界に近づいていた。ぼうっとする時間が多く、両親も妹もあえて何も言わずそっとしておいてくれたのが幸いだ。どのみち彼らに慰められても意味はない。
 入浴をおえたあとは就寝まで読書の時間というのがフレイヤの日課だった。頭からかぶるだけのワンピース型の寝間着に軽い上着を羽織って、いつもの出窓で本を開く。
 とある少年の冒険物語で、彼は物心がついたときから海に憧れを抱いていて十歳で旅に出る。そして行く先々で仲間を見つけ、あらゆる困難を乗り切り、ついには世界の果てにたどり着く――という話なのだが。数ページ読んだところでまったく内容が入ってこないことに気づき、本を閉じた。いつもなら、こうした冒険ものはフレイヤがもっとも好きなストーリーであるのに。
 ふと、窓の外に視線を向ける。二階から見渡せる景色は、高町の屋敷ばかりでここから海は見えない。海が、遠い。
 ――サボ、ここは自由な海から遠いよ。いま、どこでなにをしてるの。会いたいな。
 五年前の思い出が頭をよぎって、鼻の奥がつんとする。涙が出そうになって慌てて首を振った。泣くな、と腕をつねって痛みに変える。
 サボはもう別の場所で新しい人生を送っているのかもしれない。もともと貴族が嫌いと言っていたし、相応の何かがあって早い決断をすることになったのかもしれない。だとすれば、一言ほしかったけれど。
 "おれと、けっこんすればいい"
 顔を赤くしながら必死で紡いでくれたあの言葉に、四歳ながらも胸がぎゅっと締めつけられるような気がしたのはたぶん勘違いではなかった。あのときの気持ちを表現する言葉が見つからなかっただけで。
 きっと、フレイヤはあのときあの瞬間、サボに恋をした。お互い気持ちを口にしたことはなかったけれど、フレイヤはサボを好きになったし、きっとサボも同じ気持ちでいてくれていたと思っている。だからこそ、急に会えなくなったことが寂しくて、悲しくて、裏切られた思いだった。けれど、サボにはサボの事情があったのだろうと言い聞かせることで五年経った今は気持ちも落ち着いている。
 フレイヤが、ひとりで海へ出ることができるようになったら。今の無力な自分から、少しでも変わることができたら。いつか、この世界のどこかにいるサボに会いに行きたい。会えたら、一言文句をいうんだ。なんで先に行っちゃったのって。


*


 式典当日は、豪勢なドレスを無理やり着せられて高町で天竜人を待ち、来たらきたで盛大なパレードが行われた。中心街からも人が集まっているのか、辺りは人だらけ。この国にこれだけの人がいたなんて驚く。それなのに、誰もゴミ山のことを気にかけてくれない。どうかしている。
 周りが盛り上がる中、きっと唯一白けた視線を送っていたフレイヤは、ともかく早く終わることだけを願っていた。
 国王の長ったらしい祝辞を聞いて、そのあとはもう国中がお祭り騒ぎ。カートレット家も例外ではなく、両親はここぞとばかりに王族や天竜人へお近づきになろうと猛アピールをしている。騒ぎの輪から抜け出したフレイヤは、カロリーナに一言断って屋敷に戻ることにした。彼女が何か言っていたが、聞こえないふりをした。
 自室に戻って、今日は一日レッスンを受けなくて済むことに少しだけ気分が良かったフレイヤは航海術の本を開いた。いつか自分も海へ出るつもりなので早い段階から身につけておくことに越したことはない。サボなんて五年も前からやってたんだから、今のフレイヤなら理解がはやいだろう。机に向かって勉強を始めた。
 どのくらいやっていただろうか。好きなことや興味のあることには集中力が続く体質のフレイヤは時計を見て驚く。二時間も経っていた。そろそろ休憩をとってもいい頃合いだろう、飲み物を持ってこようと部屋を出ようとしたところで窓をコンコン叩く音がした。
 振り返った先には、郵便物の入ったバッグをぶら下げたカモメが見えて、フレイヤに開けろと指示しているらしい。二階まで来るなんてめずらしいと思ったが、よく考えたらいつもはカロリーナが受け取って届けてくれていたのだ。早くとせがむカモメから窓を開けて、一枚の封筒を受け取る。仕事を終えたカモメはすぐさま次の場所へと飛び立ったので再び閉めようとしたが、その拍子にするりと手から封筒が落ちてしまった。

「あ……え!?」

 落ちた封筒を取ろうとしたとき、目に飛び込んできた差出人の名をみてフレイヤは驚愕する。書かれていた名は――

「どうして、サボから……」

 あまりの衝撃にしばらく封筒を眺めるだけで次の動作に移せなかった。呼吸を落ち着かせて、改めて落ちたそれを拾い見つめる。
 夢じゃない。これは紛れもなくサボからの手紙……!
 フレイヤは震える手でゆっくりと封を切った。


*


 初めて踏み入れたそこは、聞いたこともない変な鳴き声や見たこともない植物やらでフレイヤを震え上がらせた。鳴き声の正体は何かの生き物と推測できるが、きっとフレイヤの知る生き物ではない。大型の図鑑にしか載っていないような危険度最上級のそれである。森の中というのはそういう場所だと、以前読んだ物語に書いてあった。
 いまは午後三時くらいだろうか。
 サボからの手紙を読み終えたフレイヤは、着の身着のまま屋敷を飛び出しコルボ山という場所を目指すことにした。そこに自分の兄弟がいるから何かあれば頼れということが書かれており、居ても立っても居られなくなったからだ。一瞬、家族のことが頭をよぎったが、式典で一日中外出予定だったことを思い出してそれまでに戻って来ればいいだろうと判断した。
 結論から言えば、サボはもうこの国を出てしまったらしい。フレイヤが想像していた通り、やはり貴族でいることに耐えられなくなり家出をしたことやこの五年間どこでどう生活していたかなどが、事細かく書かれていた。今までもらった手紙の中で一番長いんじゃないかと思う。
 そして海へ出る決定打になったのは、この前の火事の件だということも書かれていた。フレイヤと同じで高町の人間を蔑んでいる彼は、両親――ひいてはこの国から自分という人格を守るために飛び出していったのだ。
 謝罪の言葉ももちろんあった。五年前連絡がとれなくなったことも、先に海へ出ることも。彼は彼なりに悩んで苦しんでこの結論を出したのだろう。だとしたら、フレイヤに彼を責める余地はない。ちょっとでも裏切ったなんて思ってごめんね。こうして手紙をくれただけで充分だったし、あと数年経てば自分もひとりの力で海へ出ることができるようになって再会できる可能性があるのだ。永遠の別れというわけじゃない。
 このときはそう思っていた。