わたしが信じたもの

 <グランツ・カヴァナ>は今日もにぎわっている。特にここ、ベルツェという町は観光地として有名であるため住人よりも観光客のほうが多く、町の収入源のほとんどが観光によるものだ。かくいうフレイヤもこの土地の遺跡や景色、料理に魅せられ移住してきた側のひとりなので、地元民というよりは観光客の延長線上にいるような感覚だ。
 母国を出て三年と半年。カートレットという家を捨て、幼なじみの育て親に世話になること約九年。フレイヤは自分の力で海を渡り、このセント・ヴィーナス島へやってきた。その間にも複数の島や国を経由したが、幸運なことにガラの悪い海賊や盗賊にはすれ違うことなく無事にたどり着くことができた。
 見るからに戦闘ができる人間ではないので遭遇しても困るだけなのだが、幼少の頃のお転婆な部分が功を奏したのか、身軽に動けるほうではある。両親が聞いたら泣くだろうが、そもそもの性格が大人しくかしこまる性質ではないから仕方ない。
 サボの死を境に家を離れたフレイヤは、ずっと考えていたことがあった。
 "自由"とは一体何なのか。
 その答えは未だ出せていないが、一つだけ確かなのはあの国ではそれが一生訪れないということだ。
 昔、カロリーナという唯一の話し相手だったメイドが言っていた。この世界の頂点に君臨する天竜人の存在は絶対的で、その権力は絶大であり、その理は覆ることはない、と。天竜人がいる限り、本当の意味での自由は訪れない、と。
 しかし今、世間を騒がせている革命軍という組織が存在する。詳細は謎に包まれているものの、彼らは世界政府に立ち向かう存在であり、それは天竜人と敵対することと同義だ。各地でクーデターを起こしているようで、人々からは恐れられているが、フレイヤが知る限り彼らほど世界の理を変えられると思える存在はない。もしも可能性があるとしら、それはきっと彼らなのだろう。
 あの頃無力だと嘆いた自分は、現在この平和な島でカフェを経営している。とにかく国を出て新しい場所へ行かなければ。そうした強迫観念みたいなものにとらわれて無我夢中でやって来た。世界を変えられるほどの力は自分にないが、フレイヤフレイヤでいられるために――ひいてはサボの願いを貫き通すために自身で選択し、ここにいる。
 世界には美しい場所がたくさんあり、美味しいものも面白い文化も存在する。そうした広い世界を知ることがフレイヤの喜びにつながり、仕事への活力になっている。フレイヤが仕事へ注いだエネルギーは別の誰かへのエネルギー源となって、まためぐる。
 互いが互いを助け合い、生きているのだと思う。人間は根本的なところで平等であって、与えられた立場や役職でそれが少しだけ変化することはあっても、その人の人間性を否定する権利は誰にもない。つまり、天竜人であっても理由なく誰かを傷つけることは許されないはずで、権力をふりかざして弱者を陥れるのは言語道断であるのだ。
 そういうわけで、カートレット家も貴族の血を引く者として考えが一般的ではなかった。自分があの一員であることに昔から釈然としなかったのは、引け目を感じていたのはたぶんそういう理由だ。家を出てから特に向こうから接触してくることはなかったし、何よりフレイヤがいなくとも妹のエヴァがいる。地頭でいえばフレイヤのほうが元の出来はいい(というのを自分で言うのもなんだが、事実なので仕方ない)とはいえ、両親がカートレット家に必要とする理想像はエヴァみたいな人間だ。もうフレイヤに用はないはず、と思っていたのだが……。
 ガタン。
 配達カモメが入口のポストに郵便物を投函していった音だ。少しの間カウンターを離れることを客に伝えて、店の外に出る。扉の左側にある郵便受けを開くと数枚の封筒があった。
 個別にやり取りするのはコーヒー豆を扱っている店などの仕事関係者ばかりで、プライベートなことを書くような相手はいない。一通目と二通目はそうした仕事に関するものなのであとで開封するとして、問題は三通目だ。
 宛名はフレイヤ・カートレット。
 まただ……。
 最近、カートレットの苗字まで書いて送ってくる者がいるのはわかっていた。幼少の自分を知っていながら、現住所まで調べられているということはバレてしまっているのだろうか。フレイヤはこの町に住んでから、誰ひとりとして「カートレット」の名を明かしたことはない。つまり、ここで知り合った者には知り得ないことなのだ。
 裏返して差出人をチェックする。そこにはアリス・コールマンと表記されていた。フレイヤには記憶のない名前だったが、カートレット家に仕える人間である可能性が高まった。なぜなら今日届いた手紙には、カートレット家の紋章である馬と剣が描かれたシーリングスタンプが押印されているからだ。差出人を証明するそれは、カートレット家から出されたものであることに間違いはない。
 フレイヤはこれまでに三通、アリスという女から手紙を受け取っているが、すべて封を切らずに無視していた。四通目にしてこの印璽を使ってきたとなると、フレイヤへの警告なのかもしれない。

「今さら私に何をしろっていうの……」

 独り言を呟いて、おそるおそる封ろうを開ける。

 拝啓 フレイヤ様のご活躍は我がカートレット家にも風の便りに聞き及んでおります。
 旦那様も奥様も、約十二年の間フレイヤ様のことをご心配なさっておりました。ですが、このたび自立して遠くの島で経営者として奮闘するフレイヤ様を知って、お二人とも非常に感心しておいでです。
 つきましては、第七代カートレット家の当主としてお迎えしたいと存じます。旦那様より、王族との縁談の道も残されているとのことです。
 この手紙が届き次第二日以内にカートレット家の人間が迎えに参ります。
 敬具



*


 そろそろ材料の調達が必要だと判断したフレイヤは夜の営業を臨時休業とし、ベルツェ最大のマーケットである<パブリック>へ出向いていた。ここに来れば大体の食材はそろうと言われている。マニアックなものでない限り、フレイヤが料理で使用する食材のほとんどは<パブリック>で買いそろえたものだ。
 コーヒー豆や調味料といった細かなものになると個別にやり取りする店もあるのだが、大体は定期的に配送してもらえるのでこちらから出向くことはめったにない。
 野菜売り場と生鮮食品を物色しながらカゴに品物を次々と入れていくこと十数分。買いだめしても問題ないものもあれば、すぐに消費しなければならないものもあるので、ひとりで切り盛りするというのはなかなかに大変なことではある。けれど、フレイヤは意外とこうした細かな管理が苦ではなかった。
 カウンターで会計を済ませ、袋につめこみ店をあとにする。
 <グランツ・カヴァナ>より高い位置に建つ<パブリック>は、もちろんそこから見える景色も少しだけ変わる。段々と夕焼け色に染まる海は、フレイヤがここに来て初めて見た息をのむ美しい景色だった。沈んでいく太陽と、夜が始まる前の青く染まる白い町。自然が生み出す美しさを、ここで初めて知ったのだと思いだす。確かに心がときめく瞬間だった。
 そういえば実家の裏側にあったあの公園は今もまだ存在するだろうか。あらゆる種類の花が咲き誇っていた公園。貴族たちの強欲にまみれた高町にも、自然の美しさがあることに幼いながら感嘆したのを覚えている。
 そんな懐かしい気持ちになりながら、両手に荷物を抱えて階段を降りていく。今日は下ごしらえをしてそのまま家に帰ろうと、このあとの予定を考えているときだった。
 不意に視界を遮られ、「ひゃ」と間抜けな声を出した次にはもうフレイヤの意識はぷつりと途切れていた。