冷然の幕明けにきみが目を覚ます

フレイヤ! お前そんなとこでなにしてんだよ。置いてくぞ』

 十歳くらいだろうか。少しだけ成長したサボが振り返ってフレイヤに笑いかけた。自分より背の高い植物が視界を覆っているようで、サボの後ろを歩いているフレイヤはついていくのに精一杯だ。ほら、と左手を差し伸べてくれたのでそこに自分の手を重ねる。そのままサボがぐいっと引っ張ったせいで、フレイヤはつんのめって彼に抱きつく形になってしまった。
 ちょっと恥ずかしそうにしながらニッと笑う姿に心臓がどくんと鼓動を打つ。初めて出会った頃よりも身長が伸びていることに気づいて顔の熱が上昇していく。
 ああ、サボはかっこいいなあ。なんて口に出していうのは恥ずかしいけど、本当はずっとそう思っている。
 外でこっそり会うとき、帽子とゴーグルはフレイヤがよく知る彼の身につけているものの一部だが、繋いだ手とは反対の手に握っている鉄パイプは初めて見るものだった。フレイヤと同じで、つまらない勉強よりも体を動かしているほうが好きだった彼の武器なのかもしれない。
 二人はどこかの草原を走っていた。風がさらさらと草をさらって、音を立てる。まっさらな空の青とどこまでも広がる緑。どこへ向かうのかはわからなかったが、ずっとこのままサボといられたらいいのに――
 そのとき、急に突風が吹いてフレイヤは思わず目を閉じた。刹那、右手にあったはずの温もりがなくなった気がして怖くなる。まぶたをゆっくり開くと、そこにもうサボはいなかった。
 ――え、や、だ……サボっ! どこにいるの? いかないでっ……また、わたしを置いていくの?

「サボっ……!」

 呼吸が短い。吐くたびに、吸うのがつらい。息が切れていた。伸ばした右手が何を掴むでもなく、天井に向けられている。つつ、と目尻から何かが落ちてこめかみに伝っていく。これは、涙だ。
 どうやら夢を見ていたらしいことに気づいて、フレイヤはゆっくりと息を吐いた。頭が重く、心なしか体も怠い気がする。どうしたんだっけ、と記憶を遡ってはっと我に返った。

「私、誰かに殴られた……? というか、ここどこ」

 どこかの部屋みたいだが見覚えはない。殴られた衝撃のせいで頭はまだぼんやりとしている。それでも自分の身に起きたことは理解していた。買い出しの帰り道、突然視界が暗転したかと思うと頭に衝撃を受けたのだ。そのあとは今の今まで意識がない状態で、気づけばここに連れられてきたわけだが。
 釈然としない。あの島でのフレイヤはただのカフェの店主であり、拉致される覚えはないのだ。
 部屋は簡素で机とベッドがあるのみで、窓がないことに違和感を覚える。拉致した人間は今いないようだが、拘束されていないことを考えるとすぐ戻ってくるのかもしれない。そうとわかれば、フレイヤが取る行動はただひとつ。その人間が来る前に脱出を試みるのみである。
 部屋を出て右へ進む。前方に見える扉に手をかけて丸窓をのぞくと、しかしフレイヤはそんな望みなどなかったことを思い知る。

「嘘でしょ……まさか、海の上なの……?」
「もうお目覚めですか。随分と早いですね、かなり強く衝撃を与えたつもりでしたが」

 前方の景色ばかりに気を取られていたせいで背後から近づいてくる人間がいたことに気づかなかったフレイヤは、とっさに後方へ下がって相手と距離をとった。そしてその人物を目に移して驚愕する。

「あなたはっ……」
「ふふ。この顔には見覚えあるようですね。まあそれもそのはず、フレイヤ様とは十年間一緒に暮らしていたわけですから」
「本当に、カロリーナなの……?」
「見ての通りです。私はあなたに仕えていたカロリーナ・フローレス、カートレット家のメイドですよ」

 フレイヤが大人になったように、カロリーナも年を重ねていた。メイド服ではないものの、すらっとした身長はそのままに彼女の面影があった。何よりあの頃と変わらない、お転婆なフレイヤを呆れながらも味方でいてくれるという笑顔。同じ表情のはずが、なぜか恐怖を覚えたフレイヤは詰め寄ってくるカロリーナから逃げようと後ずさる。
 手紙が届いてからまだ一日と経っていないから油断していた。それもゴア王国からここまですぐに来られる距離ではないはずで、そう考えると手紙が出されるより前からカロリーナはフレイヤのもとへ向かっていたことになる。

「まって……手紙の差出人はカロリーナじゃなかった。アリスっていう――」
「彼女もカートレット家に仕えるメイドです。フレイヤ様は名前をご存知なかったでしょうが、カートレット家には私を含めて三人のメイドがいるのですよ。もちろんほかにも使用人はいますが、あなたにとっては知らない大人だったでしょう。私としか交流を持たなかったので、アリス・コールマンを知らないままなのです」

 でもどうしてカロリーナが……? という言葉は呑み込んだ。だってそんなことを聞いてどうするというのだろう。もうカロリーナは昔のフレイヤが慕っていた頃のカロリーナではない。少なくとも、昔の彼女はこんなふうに無理やり連れ去るような行為はしないはずだ。
 船が風で揺れる。後方の扉に体を向けて丸窓からもう一度外をのぞく。比較的穏やかな気候だが、時折吹く風が相当強いのか、帆がはためいていた。フレイヤが気を失ってから目を覚ますまでどれくらいの時間が経ったのかわからないので、逃げられたとしても現在地がわからなければ戻りようがない。つまり、現状は動きようがなかった。

フレイヤ様がカートレット家を出てから十数年。ご両親は必死で探しておいででした」
「そんな嘘を真に受けるとでも? あの人たちは私みたいな言うことを聞かない人間を毛嫌いしているし、何より貴族に対して私はいいイメージを持っていない。そんな人間が今さら貴族に戻れるとでも思う?」
フレイヤ様の意思は関係ありません。これは決定事項です。それに、フレイヤ様をぜひ奥方にと仰る方がいらっしゃいます」
「……どうしてこんなことするの? カロリーナは私の味方じゃなかったの?」
「……」

 フレイヤの問いにカロリーナは黙って俯いた。その表情にはどこか憂いを感じて、もしかしたらなんて微かな希望を抱いたが、彼女の瞳が冷たくフレイヤをふたたび見つめてきた。

「私にも守るべきものがあるのですフレイヤ様。どうか、ご理解ください」

 言いつつ、くるりと踵を返すとフレイヤがいる部屋とは別の部屋へと姿を消した。カロリーナと入れ替わるようにやって来た女が「あとでお食事をお持ちします」と頭を垂れていき、フレイヤは力なくもといた部屋へ戻るしかなかった。