部屋に戻ってしばらくしていると、本当に食事が運び込まれてきた。先ほどカロリーナのあとに話しかけてきた女で、カートレット家の人間かはわからなかったが、フレイヤが家を出たあとに来た使用人かもしれない。
彼女はテーブルに料理を置いてすぐに出ていった。二時間後に片づけに来ると言い残していったものの、それくらいは自分でできるんだけど……。と言う前に、彼女は出ていってしまった。
食事に手をつけはじめたフレイヤは、ひとりで虚しく料理を口に運んでいく。ポトフみたいに野菜やウインナーが入っている。だしが染み出しているスープは妙に美味しくて憎らしい。カロリーナと和解したわけではないが、料理に罪はないので残さず食す。
さて……。
このあとどうするべきか。時間帯は太陽の高さから考えると昼過ぎくらいだろう。カロリーナが意外と早く目が覚めたと言っていたことから、フレイヤは昨日の夕方から気を失って翌日の朝には起きたことになる。つまり、まだそこまで時間は経っていない。
セント・ヴィーナス島からゴア王国へ向かうルートはいくつかあるが、最速で帰国できるのは"偉大なる航路"に沿ってそのまま進むことだ。それ以外のルートは距離的に短いものの、航海するのに苦労すると言われている。
そして"偉大なる航路"の前半の海に入れば、フレイヤでも脱出できる可能性が生まれる。なぜなら、島の数が多く、体力さえあればたどり着けないこともないからだ。何もなければ数日後には突入できるはずであり、それが最初で最後のチャンスだ。帰国したら最後、もう逃げ場はない。
「ともかく、注意して景色を見ておく必要があるよね」
独り言を呟いて外の様子をそっとうかがう。特に異常はなく、順調に進行している。
セント・ヴィーナス島は地理的にいえば一応後半の海に属する島だが、実質は海賊といった野蛮な輩からは切り離されて存在する不思議な島だ。観光地だからなのか、あの島で騒ぎを起こすこともなければ、島の景観や遺跡を壊そうと考える者もいない。海賊の生活などフレイヤには知る由もないが、羽を休められる場所なのかもしれない。美しい景色は、ともすれば海賊たちの戦意を失わせるほどの効果を持つのかもしれなかった。
このままトラブルなく航路を進むことができればフレイヤにも勝機はある。島に放置してきた店のことや急に姿を消して心配しているであろう町の知り合いたちのことが気にかかるが、今はまだ、おとなしくその時を待つことしか選択肢がなかった。
*
船が"新世界"を抜けたのはそれから三日後のことだった。
見たことのある島もあったが、行動を起こすには船から距離がありすぎて不適切な気がした。このままずるずる引き延ばせばたちまちゴア王国に着いてしまう。とはいえ、無理に脱出しようとすれば海の藻屑となる可能性がある。
どうするべきかと悩んでいたフレイヤのもとに朗報が届いたのは、その日の夜のことだった。
カロリーナと航海士の話から翌日の朝、航路の予定になっている島に必要物資調達のために上陸するというのを聞いたのである。行動を制限されているので何をするでもなく部屋でじっとしていたところに、彼女たちのひそひそ声が聞こえてしまったという不可抗力にも近いものではあったが。
――チャンスはきっとこの一度きりだ。
どんな島かわからないが、船がその島へ近づいていくときが、フレイヤが脱出するときである。
次の日、いつも通り部屋に食事が運び込まれてきたので礼を言ってひとり黙々と食す。その間、フレイヤの脳内では船からの脱出劇のシミュレーションが行われた。
まず、カロリーナから物資調達のために下船することを伝えられる。きっとこのときフレイヤは残って待つように言われるだろう。当たり前なことだが、島に下ろしてしまえば逃げられるからだ。そこで、頷いてわかったふりをしておき、カロリーナたちが油断して下船をする直前、海へ飛び込む。フレイヤは海賊のような怪物的な腕力や能力はないが、泳ぐ力は人並み以上に長けている。これは幼少期の頃、幼なじみたちとの生活によって得たフレイヤが持つ唯一と言っていいサバイバル生活で使える能力だった。
ともかく海へ飛び込んだら、あとはひたすら島に沿って船から遠ざかるのみだ。ある程度距離ができたところで島に上陸し、セント・ヴィーナス島へ戻る方法を探す。ばっちりである。
あとはうまくいくかどうかだが、何せ本物の海での経験がないのでわからない。けれど、待っていてもフレイヤに明るい未来はない。やるしかなかった。
コンコン。朝食を取り始めてから三十分後、ノックの音とともにカロリーナが入ってくる。今日も、フレイヤの知る呆れながらも仕方ないといった柔らかい表情の彼女はいない。
「フレイヤ様。この船は必要物資調達のため、今から近くの島へ上陸します。ですが、あなたは下船せずこちらでお待ちください」
「私には下りる許可も出ないのね」
「申し訳ありませんが、ご理解ください」
わざと素っ気ない態度を取りながら、内心フレイヤは心臓が飛び出そうな思いだった。不自然ではないだろうか。カロリーナは妙に鋭く、特にフレイヤの行動を何かと先読みすることに昔から長けている。幼少の頃のやんちゃな思い出が頭をよぎり、懐かしく思うと同時に胸が少しだけ痛んだ。
ぶつぶつ言いつつ納得した素振りを見せると、カロリーナは空になった食器を持って出ていった。ぱたん、と閉まったドアを見つめて、彼女の足音が遠ざかるのを待つ。
扉に耳をそばだてて静かになったことを確認したフレイヤはそっとドアを開けた。船内の複数あるうちの一室がフレイヤに与えられているが、辺りを見回して廊下に誰もいなかったことにひとまずほっとする。外へ出るためには、このまま真っ直ぐ進み突き当りの扉を開ける必要がある。
カロリーナたちが下船するとはいっても、しかしこの船がフレイヤだけになるわけではない。見張りがいるはずだ。慎重にならなければ……。
足音を立てずに壁を伝いながらゆっくりと前方の扉を目指す。外が近づくにつれて聞こえる声が大きくなっていった。「医薬品などはそろっていますが食糧と水が足りないです」「あと二週間分は確保しておくべきね」せわしない会話を聞きつつ、丸窓から様子をうかがってタイミングを見計らう。声の大きさからメインデッキのほうであるのは間違いないので、もう下船準備が始まっているのかもしれない。
フレイヤは音を出さないようにゆっくり扉をあけて視線をメインデッキへ向けた。予想通り、扉の隙間からカロリーナたちが下船を始めるために指示を出し合っていた。幸いなことに、彼女たちは自分の作業に夢中でこちらの船室に続くデッキには気を配っていない。ここで出るのがチャンス――!
隙間からそっと滑り込むように外へ出ると、メインデッキとは反対側の船尾部へ向かった。横目に、島がもう目の前にまで迫っているのが確認できる。フレイヤはそのまま走った。船尾まで来れば、あとはもう飛び込むだけ。
逃げられる、と確信したそのとき――
「何をしている!」
足を船の縁に引っかけようとしたところで、見張りと思われる女がフレイヤを呼び止めた。しかもその手には銃を持ち、あろうことかこちらに銃口を向けているではないか。仮にも今はカートレット家の人間であるフレイヤに銃を突きつけるとはどういう了見なのだろう。別にカートレットの名に興味や誇りはこれっぽちもないし、貴族ぶる気もないのだが、仕える側の心得としてどうなのかという問題だ。
「私は、あなたたちには従いません。このまま飛び込みます」
「そんなことを許すとでも?」
「許すも何も、強行突破します!」
両足を縁に乗せて踏み切ったとき、しかしバンッという破裂音がしたかと思うとフレイヤは肩口に鋭い痛みを感じた。続けて銃声が響き、足にも痛みが走って自分が撃たれたのだと理解した。
けれど、体はすでに宙に投げ出されている。船へ戻ることはできず、女の慌てる声を背に、重力に従ってフレイヤの体は海へ落ちていった。