透けて溶けだした世界

 フレイヤは、初めて降り立った土地を困惑と少しの期待と不安がない交ぜになった気持ちで歩いていた。前方には助けてもらった革命軍のリーダー、ドラゴンがいる。
 島の名はモモイロ島。その島を中心としてカマバッカ王国が存在するのだが、ここに革命軍の本部があるという。随分とお花畑な印象を受け、しかもモモイロという名がついているだけあって、なんだか先ほどからピンク色の何かが飛び交っている気がしてそわそわする。主にドラゴンに向かって。物陰から熱い視線が送られているにもかかわらず、当の本人は気にすることもなく歩いているので、もしかしたら日常的な光景なのかもしれない。
 助けてもらったあと、少しずつ動けるようになったフレイヤはセント・ヴィーナス島へ戻るのではなく、ドラゴンの提案により革命軍の本部へ同行することにした。カロリーナたちが諦めたかどうかはわからないが、今すぐ戻ればまた追手が来る可能性もある。だったら、と彼は本部へ一緒に来るのはどうかと提案してきたのだった。
 店や急にいなくなって心配しているベネット夫婦含めた住民たちのことは気がかりであるものの、この状況では仕方ない。フレイヤはありがたい申し出を受け入れることにした。彼らには折を見て便りを出せばいいだろう。
 下船してから歩いて数分。巨大な建物が二つ見えてきた。一つは横に長くて、もう一つは縦に長い。

「すでに軍には保護した一般人が来ることは伝わっている」
「そ、そうでしたか。ありがとうございます」
「戻りたい気持ちはあるだろうが、少し休んでいけ。それに――」一度言葉を切ったドラゴンがフレイヤをまっすぐ見つめて意味深に笑った。「思いがけない出会いがあるかもしれないぞ」続けてそう言った。
「……?」

 何のことかわからなかったので首を傾げる。ドラゴンは、しかしそれ以上語らず、このあと部下が本部を案内するから待っていろと残し、帰船して間もないのに仕事に戻っていった。総司令官という役職は忙しいのだろう。入口で待機していた隊員たちに迎えられ、表情はもう仕事モードである。


 しばらくして本部の建物から出てきたのは一人の女性だった。フリルのついたピンクのシャツとミニスカートを着用している。おまけにニーソックスが彼女の美脚をより強調していてかわいい。
 フレイヤの姿を見つけると、駆け寄って来てくれた。

「革命軍幹部のコアラです、よろしくフレイヤ
「え!」
「あ、ごめんね。ドラゴンさんから名前はもう聞いてるから」
「なるほど、そういうことなんですね。コアラさん、よろしくお願いします」
「さんなんていらないよ、ついでに敬語も」

 効果音がつきそうなくらいにこりとする彼女は、幹部というからには相応の職についているだろうにとても親しみやすい雰囲気の女性だった。年齢も近いかもしれない。コアラの言葉に甘えて、「じゃあせめてコアラちゃんって呼ばせてね。よろしくお願いします」と返事する。手を取って喜んでいる彼女を見ながら、同い年の友人がいないフレイヤには、もしもいたらこんな感じなのかもしれないなと新鮮に感じられた。


*


 コアラの案内で内部をいろいろ見て回っているうち、なんとフレイヤ用に個室まで用意してくれているという歓迎っぷりに驚きつつも素直に甘受することにした。彼女曰く、使っていない部屋が複数あるから心配しなくてもいいとのことだ。ドラゴンの言う通り、本当に軍全体にフレイヤのことが伝わっているらしくすれ違うたびに向こうから挨拶をしてくれるので、なんだか恐縮するばかりだ。
 簡素な部屋でごめんねとコアラは謝ってくれたが、居候する身なのでもちろん文句などない。それに何も持たずに連れ去られたので最低限のものがそろっていれば問題ないし、カートレット家の動きに注意を払うとはいっても長居する気はないのだから、むしろ荷物は少ないほうがいい。コアラは最終的に部屋へ連れてくることで案内完了らしく、彼女もまた仕事に戻っていった。
 一人きりになったところで、ほうとため息をつく。この数日間で物語のような怒涛の展開に見舞われた気がする。母国から突然の呼び出しに、強引に連れ去られ海を渡り、逃げようとしたら銃で撃たれる。肩と足に怪我を負って死を覚悟したところで、革命軍の総司令官に助けられ保護される。そして、いまその革命軍の本部があるここでしばらく過ごすことになった。
 ちなみに、怪我はドラゴンが応急処置をしてくれたので痛みは鈍くなっている。とはいえ、きちんと手当をしてもらったほうがいいと言われたフレイヤは、夕食の時間まで自由にしていいとのことだったので、ひとまず医務室へ行くことにした。


 革命軍の内部はフレイヤが想像していたよりも広く、必要施設が完備されたひとつの町のようだった。隊員たちの部屋は末端になると四人部屋であるものの、組織が集団で生活するには困らない程度には整っている。食堂、シャワールーム(浴場もあると聞いた)、医務室に薬草園、訓練場は実践的なことを行うだだっ広いほうと個人や少人数で利用する小規模の二種類あるらしい。あと、これはフレイヤが一番目を輝かせたのだが図書館がある。
 というわけで、医務室で処置を済ませたフレイヤは図書館へ向かうことにした。隊員たちの部屋や食堂といった施設がある棟から、一度外に出て隣に建つ縦に長い棟へ移動する。入ってすぐの一階が図書館だが、吹き抜け式の二階建て構造になっているので開放感があった。
 ちょうど昼食後ということもあって利用者はいなかった。けれど、入口から向かって右側にあるカウンターに目を向けると、若い男が座って本を読んでいることに気づく。図書館に必ずいる、司書という役職の人間。素通りするのも変なので、フレイヤは近づいて声をかけた。

「すみません、本を読んでもいいですか?」

 男は顔を上げることなく、目線だけこちらに向けた。そのせいでぎょろりとした黒目がばっちりフレイヤを捉えたので思わずびくっと肩が震えた。
 ブラウンの長髪を一つに束ねて、分厚い眼鏡をかけている。服装はカウンター越しなのでわからないが、不健康そうな色白で目が合っただけなのになぜか心臓がどくどくと脈をうって緊張する。そもそも本を読んでもいいかなんて図書館でする質問ではない。

「図書館なんだから当たり前だろう」

 案の定である。男は首を傾げて訝しげな視線を送ってきた。当たり前は当たり前だが、もう少し優しく対応してくれてもいいのではないかと思う。
 そうですよね、と苦笑いすることしかできず、気まずいまま書架へ向かった。
 まず驚いたのは蔵書の数だ。吹き抜けという構造も関係しているかもしれないが、一階から二階まで書架にびっしり本がつまっていた。左右には階段があり、そのまま二階をぐるりと一周できるようになっている。さらに高い位置にある本は、スライド式の梯子が一定の間隔で配置されているので一人でも問題なく閲覧できる仕組みだ。何やら所々で宙に浮いている籠みたいなものが気になるが、例の司書に話しかける勇気がなかったフレイヤはとりあえず見なかったことにして奥へ進む。
 図書館では世界共通の記号で分類されるので、どこの国へ行っても各分野は同じ記号を探せばいいようになっている。国によっては例外もあるのだがほとんどは共通している。フレイヤは物語の棚へ行き、興味のひかれたタイトルを数冊選んだ。
 館内の閲覧席は一階に複数存在するが、貸出手続きをすれば外にあるテラス席でも閲覧可能ということだった。先ほどのこともあって躊躇いつつも、フレイヤは男に貸出手続きをしてもらい日の当たるテラスへ向かった。


 どのくらい夢中になっていたのか、空がオレンジから紫の綺麗なグラデーションを作っていた。四時間以上はいたことになる。どうりで腰が痛くなるわけだ。そろそろ夕食の時間帯に入るだろうとふんで、フレイヤは図書館の棟をあとにした。
 コアラによれば、食事は毎日決まった時間に全員そろってというわけではなく、各自が決められた時間帯に来てとっていく形式らしい(もちろん全員そろってという日もある)。まあそれもそのはずで、仕事量は人によって異なるのだからキリが良ければ引き上げるだろうし、そうでなければズレていく。
 フレイヤが訪れた午後七時前も、人はまばらだった。五、六人で話し込んでいるところもあれば、一人でゆっくり過ごしている人もいる。フレイヤは、長いテーブルが四つ並んでいるうちの入口から一番遠いテーブルを選び、中央の席へ腰を下ろした。
 カウンターから受け取ったのはとろろ月見そばというやつで、ワノ国でメジャーな麺料理と説明書きがしてあった。どんぶりに温かい麺とワカメ、ネギ、とろろ、そして中央に卵の黄身がのせられている。とろろは初めて食べたのだが、のど越しがよくするすると胃の中へ引きこまれていく。フレイヤが知るパスタやラーメンといった麺料理とはまた違った美味しさを感じる。

「初めて食べたけど、これ美味しい」

 フレイヤが座るテーブルには、中央にいるフレイヤ以外に端のほうに数人いるだけだった。入口から遠いという理由も関係しているかもしれない。
 食べ始めて五分ほど経った頃。ぽつぽつと人が集まり、にぎわってきたなと食堂を見渡していたとき「ここ、空いてるか?」突然頭上から声がかかった。あまりに唐突だったので、その拍子に麺が気管へ入ってむせてしまった。

「驚かせちまったな。大丈夫か」
「……」

 あなたのせいです。とは言えなかったので、涙目になりながら頷いた。コップの水で押し込みなんとかやり過ごしたあと椅子を引いて、どうぞと促す。
 悪ィなと言ったその男は、ほかにも空いている席があるにもかかわらず、なぜかフレイヤの隣へ腰かけた。知り合いかとも思ったが、今日来たばかりのフレイヤに知り合いなどいるはずもない。あえて言うなら助けてくれたドラゴンと案内してくれたコアラの二人だ。あとはすれ違って挨拶をした程度なので、それは知り合いとは言わないだろう。そもそも隣に座った男は挨拶すらした記憶がなかった。
 ちらりと、相手を見てみる。金色の髪と、ラフなシャツに上からスカーフを巻いている。横顔から判断するに、なかなか端正な顔だちではないだろうか。ずるずるとすすっているのはラーメン……って、やけに量が多いな。食べるのも速いし。
 フレイヤがじろじろ見ていることに気づいた彼は、なにと顔を向けてきた(わあ、本当に眉目秀麗)。まさか、なんで私の隣に座ったのかとは聞けないので「いえ、別になにも……」という当たり障りのない受け答えをする。じろじろ見ておいて何もないというのも変な気がするが。
 そのあともしばらく呆けているフレイヤを見兼ねたのか、彼はおかしそうに言った。

「ぼけっとしてるとのびるぞ」
「え?」
「それ」
「えっ……あ、そうですね」

 いや、なに納得してるんだ。
 フレイヤがドラゴンに保護された一般人で、一人寂しく食べているところにあえて来てくれたのだろうか。不審に思いつつ、確かにそばがのびてしまうので仕方なく食べ続ける。そうしているうちに、問題の彼はあっという間に平らげて立ち去ろうとしていた。

「じゃあおれは先に行く。またな」

 言いつつ、食器を持ってカウンターへ向かっていったその男の背中をながめながら、やっぱり知らない人だなと改めて思う。結局なんでフレイヤの隣にやって来たのかわからずじまいだったが、突然見知らぬ場所に連れてこられた一般人を不憫に思い同情してくれたと解釈することにした。
 やっと落ち着いて食べられると、視線をどんぶりに戻したときである。バリバリという何かが砕けるにしてはおどろおどろしい音が聞こえた。どうやら彼が食器を割ってしまったらしい。それも落として割ったのではなく、彼自身の力で。「だから気をつけて持ちなって言ってるだろうが!」「悪いなァ」「悪いって思ってないだろ。あんたの爪の力は異常なんだから気をつけてくれよ。これで二十枚目だぞ」「はは」なんだかよくわからない会話が厨房のほうで繰り広げられていた。
 いつもの光景なのか、周りは特に気にするでもなくまた始まったみたいな表情で知らん顔している。変な人だなと不思議に思いながら、フレイヤは残りの麺をすすった。