たしかに恋をしていた

 革命軍の総本部に来て最初の夜が明けた翌日。朝からせわしなく働いている隊員たちを見て、ただひとり何もせず過ごすことが申し訳なくなったフレイヤは、今日もまた図書館へ行くことにした。むしろ、図書館以外に居場所はない。
 同じように一度外に出て、図書館がある棟へ足を踏み入れる。中をのぞくと、フレイヤ一人ではなく数人が書架の周りを歩いているほか、閲覧席にも複数人いた。とはいえ、フレイヤのように暇つぶしに来たというわけではなく、調べものをしているようだった。こうなってくると、自分も何かしなくてはいけない気がしてやっぱり申し訳なくなる。休憩時間になったらコアラを尋ねてフレイヤにもできる仕事がないか聞いてみよう。料理や掃除といった雑務なら人手が必要なところがあるかもしれない。
 右の階段をのぼって歴史関連の棚へ向かう。昔よりも世界に関する知識はフレイヤの脳に蓄積されているが、現在住んでいるセント・ヴィーナス島の図書館はお世辞にも大きいとは言い難い。その分、蔵書も少ないため幅広く知識を得るには物足りなさがあった。その点、ここは違う。一つの組織が所有する図書館にしては一般的なそれと比べるとはるかに蔵書数が多い。きっと熱心な収集家がいるのだろう。
 と、考えて――この図書館にいる司書の存在を思い出したフレイヤは苦笑いした。若い色白の男は、今日も不健康そうに見える。先ほどから二階で書架整理をしているその姿をながめて、初めて首から下を見たことになるわけだが、如何せん猫背が目立ってそれが余計に健康的要素をぶち壊していた。しかも、医者や科学者でもないのに白衣を羽織っている。本に顔を近づけて分厚い眼鏡をはずす姿は、こう言っては失礼だが老人そのものを連想させて彼だけ時間の流れがおかしくなったように感じる。
 その不健康な司書がいる棚を通り過ぎて、さらに二つ先の棚がフレイヤの目的の本が配架されているところだ。目星の本はフレイヤの身長では届かないので近くの梯子を引き寄せてのぼった。ずらりと並んだ中から、ワノ国に関する本を抜き取ってぺらぺらめくってみる。
 昨日、初めて食べた月見そばからワノ国の食文化が気になったフレイヤは天性の好奇心から調べてみたくなった。できれば、<グランツ・カヴァナ>でワノ国メニューを出せないかと考えている。もちろん、セント・ヴィーナス島とは使われる食材も味付けも異なるので、最終的には地元に住む人々に合う味で提供することになるが。
 月見そばについて書かれたページを見つけたあと、しばらくめくっているうちに"おはぎ"と呼ばれる和菓子の一種だという興味深いページにたどり着いた。俵型にしたもち米を、餡子という小豆を煮詰めてすりつぶしたもので覆う。ワノ国では秋に”おはぎ”、春には”ぼたもち”と呼び名が変わることまで書かれていた。

「これはベネットさんたちが好きそうなお菓子かも。私も食べてみたいな」

 今日はある程度来館者がいるからか、フレイヤが独り言を呟いてもあまり目立たなかった。図書館では基本静かにしなければならないという鉄則があるが、喋ってはいけないという法則はない。とにかく騒がしくしなければいいのである。
 本には作り方まで載っていなかったので、料理に関する本が配架されている棚へ移動する必要があった。ひとまずいま手にしている数冊を持って料理の本を探すことにしたフレイヤは、梯子を降りようと右足を一つ下の段へ移動させた。しかしそのとき、持っていた本が手からこぼれ落ちてしまう。あっ、と声を出したときにはもう遅い。本が落ちて大きな音を立てるのを覚悟したフレイヤは、しかし一向に衝撃音がしないのを不審に思って恐るおそる見下ろした。
 梯子の真下に誰かがいた。いや、あの格好には見覚えがある。昨日、食堂で突然フレイヤの隣に座ってきた怪しい男だ。見事にフレイヤが落とした本をキャッチしたようで、こちらを見上げて無事を示すように本を左右に振っている。偶然とはいえ助かった。この高さから落とした場合、もし誰かの頭に落ちたらただの怪我では済まなかっただろう。同時に彼にも当たらなかったことに胸をなでおろす。
 梯子を下りたフレイヤは真っ先に謝罪し、次に本を受け止めてくれたことに礼を述べた。この人が反射神経の鋭い人でよかったと思う。でなければ、きっと直撃していたはずだ。フレイヤは心の底から安堵した。

「高い位置にある本はアレを使うといい」
「アレ?」

 彼の指し示すほうに視線を送ると、そこには昨日見た例の籠が浮遊していた。そういえばあれが何なのか、聞きそびれたことを思い出したフレイヤは説明を求めるように目線を彼へ戻す。察しがいいらしい彼は、親切にもその不思議な籠について、いわゆる買い物かごなのだと教えてくれた。
 天井までびっしりと配架された本を見上げる。梯子を使って本を取っても、手に持ったまま昇り降りするのは危険だということからこの不思議な籠が採用されたのだそう。フレイヤたちがいる隣の棚で、当たり前のようにそのかごを使いこなす隊員がいた。

「ホバーバスケット。リモコン操作で自由に動かせる便利な籠だ。十冊くらいなら入る」
「そんなすごいものが……」
「シェンツァという技術に長けた国が作った機械だよ」
「ああなるほど。あの国ならそれくらい作れそうですね」
「だろ」

 ニッとなぜか得意そうに笑ってフレイヤを見つめる。
 ――あれ……?
 フレイヤの脳に何かぼんやりとした映像が浮かび上がった。しかしすぐに消えてしまいわからなくなる。今のはなんだったんだろう。考えようとして、けれどそれは砂嵐のようにモノクロで塗りつぶされて上手くいかなかった。
 それよりも、普通に会話していて気づかなかったが、例の彼はまたしてもフレイヤの前に突然と現れた。今度は真正面からその姿を見ることができる。昨日の服装からスカーフがなくなってラフな印象を与える彼は、まるで昔から知り合いのように自然な態度だった。
 いやいや、待て待て。私はあなたを知りませんが。

「あのお……こんなことを聞くのもどうかと思いますが、もしかして私とどこかで会ったことあります?」

 我ながら変な質問だと思った。どこかで会ったことあるか、なんて男が女を引っかけるときの口説き文句のようで言ったそばから恥ずかしくなった。
 端正な顔がぽかんと少し間抜けな表情を作ったと思ったら、今度はげらげら笑いだした。忘れているかもしれないが、ここは図書館である。ある程度の会話は許容されても大声で笑うことは許されない。案の定、司書が鬼のような形相でこちらへ向かってきた。

「ああ、ごめん。うるさかったな」昨日と同じであまり悪いとは思っていないように感じる。「いちゃつくなら外でやれ」「わかったわかった」手で司書を追い払う仕草をした彼は、フレイヤの手首を掴むとそのまま一直線に出入口へ下りていく。
 拒否する暇もない。それにさらっとおかしなことを言われたような気がするが、反論したら意識しているみたいで癪なので黙って従うことにした。
 図書館の外に出てどこに行くのかと思いきや、本部の棟ではなくなぜかそのまま反対方向へ連れていかれた。さすがに拒否しないわけにはいかなくなって「ちょ、ちょっといい加減に――」しかし言葉の続きを口にする前に、くるりと彼が急に振り返ったので思わず口ごもる。先ほどまでのふざけた雰囲気はなく、肌がぴりぴりするような緊張感が彼とフレイヤの周囲を覆っている気がした。
 ――視線が逸らせない、どうしよう……手も離してくれないし。
 困っているフレイヤを気にしているのかいないのか、彼は一層腕の力を強めてきたので苦痛に顔を歪めた。本当にどういうつもりなんだろう。さっぱり訳が分からない。けれどフレイヤの表情で手に力が入っていることにようやく気づいた彼は「わっ」と今度はあっけなく離した。

「……」
「……」

 お互いに気まずい雰囲気が流れ、どちらも俯いて一言も発さないまま時間が過ぎてゆく。さっきはあんな強引だったくせによくわからない人だなと思う。
 近くに桜の木でも植えてあるのか、ひらひらと葉桜が舞って地面に落ちてくるのがわかる。そういえばここは春と夏の間の陽気に近いなと関係のないことが浮かんだ。このまま立ち去ってもよかったのだが、彼の纏う雰囲気からそれはいけないことのような気がした。
 それに会ったことがあるかという質問に対して、彼はまだ答えていない。別に知らないままでもいいとは思いつつ、やはり気になってしまう。図書館を出た今なら教えてくれるだろうか、そう思ってフレイヤはもう一度尋ねるために顔を上げた。

「それで……どこかで会ったことありますか?」

 今度こそはぐらかさずに答えてほしい。そう願って、じっと目の前の彼を見つめる。顔を上げたフレイヤとは反対に、俯いたままの彼は何を考えているのか読み取れなかった。
 しかし、しばらくして肩が小さく震えていることに気づくといよいよ怪しく思わざるを得ない。くくっと隠す気もなく笑い始めた男を睨む。途端、顔を上げた彼は相好を崩したかと思うとやっと口を開いた。

「なんだよ。まだ気づいてくれねェのか?」
「はい?」
「昨日あれだけじろじろ見てたくせに、フレイヤは自分の婚約者の顔も忘れちまったのか。おれは寂しいなァ」
「……ごめんなさい。言ってる意味が……」
「だーかーらーおれだよおれ! サボ」
「……」
「おーいフレイヤ。聞こえてるかー?」

 目の前で手を振っている彼の姿は確かにフレイヤの目に映っているし、声も聞こえている。けれど、脳がすべての事象について一切の処理を拒否していた。
 もう一度彼の言葉を反芻させてかみ砕こうと努力する。さも今まで一緒に暮らしてきたみたいな普通すぎる態度でいるものだから、そんなこと全然わからなかった。わからない。わかるわけがない。だって、サボは……。

「う、そだ……サボはっ、し、しんじゃっ……しんじゃったは、ずでっ……」
「そうだな。お前には辛い思いをさせたと思ってる……ごめん」

 時間を見つけて全部話すよ。そう言って恥ずかしそうにする彼の表情が、フレイヤの懐かしい記憶を刺激した。
 私はこの表情を知っている。髪がのびて、背が伸びて、顔つきも大人っぽくなって、格好もあの頃とは少し違うけれど。むしろ髪の色以外、面影があまり見つからないのだけれど。
 ほんのり赤く染まる頬は、図体の大きい男の人がつくる表情としては不格好なのに、なぜか胸の奥が切なく締めつけられる。よく見たら、左目には大きな傷ができていた。フレイヤの知らない傷が。きっと、会わなかった十七年の間に苦しい想いをたくさんしたのだろう。
 気づけば、腕が目の前の彼にのびていた。その存在を確かめるようにすがりつく。

「サボ、なの……? 本当に……? 嘘じゃ、ない……?」
「ああ嘘じゃねェ。遅くなってごめんなフレイヤ。やっと会えて嬉しい」
「うっ……あ、うう……」
「わっ!」

 それ以上、言葉にすることはできなかった。堰き止められていた川の水が溢れ出すように、フレイヤの目から涙がとめどなく流れ続けていく。
 勢いよく抱きしめた拍子にサボがよろけてそのまま二人して地面に倒れ込んだ。「泣くなよ」と頭を撫でるサボは、けれど起き上がろうとはせず、上にかぶさる大人の体をした子どもみたいなフレイヤをあやしている。だって仕方ない。死んだと思っていた人間が――それもずっと想い続けていた人が、生きていたのだから。
 そのとき――大きな風が、吹いた。
 サボの胸からそっと顔を上げると、笑っている彼と目が合う。やんちゃなあの頃とは違う、優しくそれでいて温かい笑い方。
 そして、彼が言った。

フレイヤ。今度こそ、おれと結婚しよう」

END