おいしくない理想論

 その日は朝から家の中が慌ただしかった。客人を迎えるというときは、決まって両親が張り切るからだ。貴族というのはどうも自分たちがどのくらい偉いかというのをひけらかす習性でもあるのか、やたらと見栄を張ったり、きらびやかにしていないと気が済まないらしい。全然共感できない習性である。
 フレイヤも朝から窮屈なドレスを着せられて、母にああしろこうしろと言われていた。うんざりするほど長い話を聞いたあと、アウトルック家の人たちが来るまで自由時間だというのでフレイヤは庭園で暇をつぶすことにした。もともと稽古中の隙を見つけては外に繰り出して遊ぶことの多いフレイヤにとって、広い敷地の庭園もまだまだ未知の領域がある。ちょうどいい機会だからと、フレイヤはキッチンにある裏口を出た。
 カートレット家の庭園は中央に噴水を置いて、左右に幾何学模様の花壇が広がっている。奥へ進むと八角形型のガゼボがあり、母はよくそこで読書をしたり紅茶を飲んだりしている。しかし、フレイヤが気になっているのはガゼボのさらに奥へ進んだ先にある大きな木だった。大木と呼ぶにふさわしいほどの太さで、庭師に聞けば樹齢は三百歳を超えているという。木の種類は確かトネリコ。聞きなれない名前だが響きはかわいい。
 フレイヤは誰もいないのをいいことに、ドレスを着ていることも忘れてその木に足を引っかけて登っていく。太い枝なら子どもが乗っても折れたりする心配はないだろう。両親に隠れてやんちゃをすることが密かな楽しみであるフレイヤには、木に登ることは朝飯前だ。

「わあ! 屋敷の外が見渡せるんだ!」

 枝に腰を落ち着けて、足はそのまま下へ宙ぶらりん状態にさせる。フレイヤは視線を遠くへやった。屋敷の塀を超える高さにいるため、見えるのは敷地の外だった。それも門とは真反対に位置する場所――つまり屋敷の裏側から見える景色である。いつも抜け出すといったら高町か中心街(それより遠くへ行くと怒られる)で、屋敷の裏には足を踏み入れたことがなかった。
 それは、見たこともないような美しい公園のような場所だった。遊歩道を取り囲むようにカラフルな花が植えられていて、まるでこの町の薄汚いものを一切取り除いたみたいにそこはただ一つの世界を築いていた。ここからでは花の種類までは見分けられなかったが、色とりどりで綺麗なことに変わりない。

「家の裏にこんな素敵なところがあるなんて知らなかった」
「そんなとこで何してんだ?」

 敷地の外ばかりに視線を向けていたせいで、誰かが近づいていたことにまったく気づかなかったフレイヤはいきなり話しかけられて身体をびくりと震わせた。「ひゃっ」短い悲鳴をあげた瞬間、身体はバランスを崩してあっけなく木から落ちていく。

「……!」
「おいっ」

 地面に身体を打ちつけるであろう痛みに耐えようと身構えたのだが、誰かの怒声と重なってフレイヤはその誰かをクッション代わりにしてしまったらしい。盛大な「いてェ!」という声に慌てて上半身を起こす。
 ドレスがしわくちゃなのも構わずに、下敷きにしてしまった相手を確認する。どうやら男の子のようだが、見かけない顔だ。今日の客人はアウトルック家の人々だけだと聞いていたので、まさか他にも来客予定があるとは思わず戸惑う。どこの子だろう、とフレイヤは首を傾げた。
 すると、向こうも同じようにこちらをうかがうような表情をする。お互いしばらく見つめ合う状態が続いて、けれどどちらも口を開こうとはしなかった。やがて男の子は、「誰だ」とは聞かずになぜか「何を見てたのか」と問うてきた。

「あなたも、登ってみる?」

 フレイヤは気づけばそう口にしていた。
 敷地に知らない人間が入ってきたら、本来ならすぐ大人に言わなければならない。以前、勝手に見知らぬ男が侵入しフレイヤを連れ去ろうとして大騒ぎになったことがあるからだ。自分ではあまり覚えていないので、怖いだとかそういう思い出はないのだけれど。
 目の前の男の子は――年齢が近いせいもあるかもしれないが、そうした危険とは無縁の、むしろフレイヤと同じ匂いがする気がした。 問いかけに対して、男の子は目を輝かせて頷いたのでなんだか自分まで嬉しくなり、一緒に登ろうと提案する。

「けど、ドレスが」
「いいのべつに。どうせ会っても楽しくないから」
「……」

 フレイヤの言葉に男の子は目を丸くさせて固まったが、それも一瞬のことですぐに笑顔に変わる。早く、と男の子を促してトネリコの木に二人でよじ登った。
 名前も知らないその子は、笑うと前歯が欠けていることに気づいてちょっとだけかわいいなと思った。
 この出会いこそ、フレイヤの一生の恋の始まりである。