魔法にかかる方法をお忘れでしょうか

 男の子はサボと名乗った。なぜカートレット家にいるのか詳細は聞かなかったが、親の付き添いで仕方なくと言っていたのでやっぱりアウトルック家以外にも客人がいるのかもしれない。とまあ、彼がアウトルック家の長男だという事実をあとで聞いて驚くことになるのだが、このときのフレイヤは知る由もない。そもそも子どもはどこの誰かなど気にせず遊ぶ質なので、そうした情報はどうでもいいのだ。
 トネリコの木から見下ろすことができる公園の存在は、サボも初めて見るという。まるで人々に忘れられたように誰もいない公園は、しかし花が咲き誇っているのを見る限り手入れをしている<人>の存在を感じることができる。フレイヤが知る人間は王族と貴族以外いないが、花を手入れするのは綺麗な心の持ち主というイメージを子どもながらに抱いているので彼らとは結びつかない。
 思ったままを口にしたら、サボが大声で笑うものだから驚く。そんなにおかしいかな。
 そのあとも他愛ない話をした。たとえば、サボのお母さんは喧嘩して怪我した息子を心配するのではなく、喧嘩相手の王族の子に対する不敬を恐れているとか。一生懸命描いた似顔絵を破り捨ててしまったお父さんのこととか。
 不思議なことに、サボは貴族に生まれながらその貴族であることに苦痛を感じているという。そしてさらに不思議なことに、フレイヤはサボの話に共感ができた。
 さわさわと風に揺れて葉が音を立てる。いつもよりも穏やかな時間が流れているように感じて、フレイヤはそっと目を閉じた。

「あーあ。このまま寝たいなあ」
「なあフレイヤ。おまえ、海を見たことあるか?」

 眠ろうとしたフレイヤに構うことなく、サボが唐突に話しかけてきた。もしかしなくても彼はかなり自由人なのではないかと、フレイヤはこの時点で悟る。

「う、み……?」

 四歳のフレイヤは他の子に比べてそれなりに教養を身につけている自負はあったが、サボの紡いだ単語に聞き覚えがなかったので拙く繰り返すだけになった。
 家庭教師をつけて勉強しているとはいえ、自分が知らないことはこの世界にまだまだたくさんあるのだろう。首を横に振ったフレイヤに、サボは目を輝かせて話し始めた。

「海は広いところなんだ。行ってみればわかる、この国がどれだけ小さいか。絶対ビックリするよ」
「サボは、その"うみ"に行ったことあるの?」
「ないけど……いつか海へ出ようと思ってるんだ」
「ふうん。うみは楽しいところなの?」
「ああ、もちろん! 楽しくて自由なところだ」

 そう語るサボの瞳は、敷地の外にある公園よりもずっと先を映している気がした。彼が言うなら、きっとそこは言葉通り楽しくて自由なところなのだろう。
 フレイヤが知る世界はこの国の高町と中心街だけで、その向こう側に何があるのか知らない。知ろうとも思わなかった。だって、自分はこの世界で生きていくことしかできないと思っていたから。毎日好きでもないお稽古と勉強に礼儀作法。両親は貴族であることに誇りを持てと言うけれど、貴族同士の醜い見栄の張り合いや地位と財産をひけらかす習性は好きになれなかった。それはたぶんこの先も変わらないのだと思う。

「私も行ってみたい……うみに」

 気づけば自然と口にしていた。「一緒に行こう!」間髪入れずにサボがそう返してきたので思わず笑ってしまったが、よくよく考えれば乗り越えなければならない障害があるのを思い出してすぐに笑いを引っ込めた。まず手始めに、四歳にしてフレイヤは許嫁が決まっている。

「でも、サボ……私けっこんしなきゃいけないんだって。会ったこともない人ともうけっこんが決まってるなんて変な話だけど」
「そんなのっ……どうとでもなるよ! 海へ出たら関係ないし、それに……」
「それに?」

 急に言葉を濁したサボは帽子のつばを掴んだまま下を向いてしまった。唇をぎゅっと噛んでいる。心なしか頬が赤いのは気のせい……?
 やがて勢いよく顔を上げると、何やら覚悟を決めたような顔をしてフレイヤを見つめた。

「おれとっ」
「……?」
「おれとっ……けっこんすればいい!」

 というか、しよう。
 恥ずかしさを誤魔化すためなのか、サボが思い切りフレイヤの肩を掴んだ。自分たちがどこにいるかを忘れたみたいにそれはもう激しく。
 案の定というべきか、フレイヤはその勢いでバランスを崩して木から落ちていった。今度はサボも巻き添えにして。